第35話 雨のあと
工事を終えて三日が過ぎた夜半、突然鳴り響いた雷鳴が、ケインを眠りから呼び起こした。
離れの寝台を出て、窓の覆いを少し開けた。屋根を叩きつける激しい雨音と、木々を揺らす風の音が、眠気を完全に吹き飛ばした。
「大丈夫かな……」
卓上のランプに火を灯し、ケインは机に置いていた工事記録を開いた。
強い雨のあいだは斜面へ入れない。雨が弱まっても、水路の職人と石工頭が揃うまで現場の確認は始められない。
工事を終えた日の夕方、短い雨で水が通った場所と、粘土を足した窪みの記述を読み返し、空いている欄の横へ「確認前」とだけ記した。
空が明るくなっても、雨は続いた。
アリアが離れへ来たのは、朝食の後だった。濡れた外套を戸口で脱ぎ、下流の村から届いた紙をケインへ渡す。
「沢の水位は上がっています。橋と堤には、今のところ被害はありません。村の見回りは続けてもらっています」
紙には、見回った場所と水位の印が記されていた。ケインは読み終えた紙をアリアへ返した。
「山からは、まだですか」
「水路の職人から、雨脚が弱まるまで待つよう伝言が来ています。石工頭にも知らせてあります」
昼前になって、屋根を打つ音がまばらになった。窓の外では、軒から落ちる水も細くなっている。
ほどなく、水路の職人と石工頭が領館の門へ来た。ギルが風を確かめ、山側の雲を見上げる。
「風は弱い。雨も、これなら動ける」
「旧作業道の下から順に見ます。上の斜面へは、足元を確かめてから入ります」
水路の職人が言うと、石工頭も頷いた。
領館の書記も、挟み板を抱えて門へ出てきた。ケインは外套を着て、厚革の手袋を持ち、アリアたちと門を出た。
旧作業道には、山から流れた水が幾筋も横切っていた。水路の職人が杖で地面を突き、足場を確かめながら先へ進む。ケインたちは、その跡を一列になって登った。
最初に確かめたのは、導水路が始まる場所だった。斜面を下ってきた水は、坑道跡の上へ向かわず、水路へ入っている。水路の底には濡れた泥が筋になって残り、安定した岩場の側まで続いていた。
水路の職人は、長柄の先で泥をよけた。平石一枚の下から粘土が流れ、石が少し浮いている。
「ここは平石を外して粘土を足す。乾く前に踏めば崩れるから、今日は触らん」
少し下では、編み枝の間に泥と落ち葉が詰まっていた。水はその手前で広がったものの、水路の縁を越えた跡はない。職人は脇の杭へ布を結び、印をつけた。
「雨のあとは、ここを毎回見た方がいい。詰まったまま次が来れば、水があふれる」
アリアが書記に場所と作業を書かせる。ケインは縄の外から、棘草の枝が水路へ倒れ込んでいないことを確かめた。
坑道跡の上では、粘土の表面を雨水が外側へ流れた跡が残っていた。埋め戻しへ向かって削れた溝はない。前の雨で粘土を足した窪みにも、水は溜まっていなかった。
石工頭は外側へ回り、石積みと木組みを順に調べた。木槌で叩く音が、一か所だけ鈍くなる。木組みを留める楔が、指一本ほど浮いていた。
「石は動いていません。ここの楔だけ打ち直します。支えを外す必要はありません」
「今日、できますか」
アリアが訊くと、石工頭は足元の土を踏んだ。
「このまま乾かします。明日の朝、土が締まってから二人で直します」
石の隙間から新しい泥が押し出された跡もなかった。アリアは、導水路の粘土と編み枝、木組みの楔を補修箇所として記録させた。
そこから下流へ移ると、沢はまだ水かさが高く、濁った流れが岸際の草に触れていた。皿には濁った水がたまり、布にも泥が付いている。
「まだ流れが残っています。回収は、水がもう少し引いてからにしましょう」
ケインが言うと、水路の職人も頷いた。
一行は印の位置を確かめ、いったん斜面の下まで戻った。
昼を過ぎると、岸際の草から水が離れた。ギルと水路の職人が長柄を使い、皿と布を一組ずつ縄の外へ寄せる。採った場所の札を確かめ、それぞれ蓋のある箱へ収めた。
領館へ戻ると、物置の戸を開け、入口近くの作業台へ箱を並べた。ギルが領館の使用人を従えて、奥から工事前の試料を運んでくる。どちらも同じ形の皿と、同じ布を使っていた。
「最初に沢を調べたときは、これを置いていませんでしたよね」
アリアが、箱の札を見ながら訊いた。
「はい。あのときは、その場の泥や根を器へ入れて確かめ、終わったら元の場所へ戻しました」
ケインは工事前の皿を示した。
「でも、泥や根には、それまでに溜まったものが残っています。工事のあとで確かめても、新しく流れてきたものか、前からあったものか分けられません。それで、工事を始める前に、何も付いていない皿と布を置きました」
アリアは、比較表の頭にその理由を書いた。置いた場所と受け材の形は揃えている。ただ、置いていた日数も、そのあいだに降った雨の量も同じではないため、正確な量の比較にはならない。
アリアは、その注意も書き加えた。
比較に使う受け材は、設置前に地点ごとに決めていた。坑道跡の直下では布、下流の淀みと岩場側の対照地点では皿を使う。残りの皿と布も、見た目を記録して別に保管する。
坑道跡の直下では、工事前に置いた布に黒い汚れが広く付いていた。今回の布にも黒ずみはあるが、付いているのは下端の一部だけだった。下流の淀みに置いた皿も、今回のものは底に残った泥が少ない。岩場側の対照地点では、二枚の皿に目立った違いはなかった。
見た目を記録したあと、皿と布を同じ大きさの蓋付き箱へ収めた。アリアは箱の札を外し、記号だけを書いた札へ替える。どの記号が工事前と工事後かは、自分の対応表にだけ残し、ケインが背を向けているあいだに箱の順を入れ替えた。
ケインは作業台の印へ右腕を置いた。箱を置く場所にも印があり、アリアが十を数えるあいだ手を寄せ、箱を替えるたびに同じだけ休む。坑道跡の直下と下流の淀みでは、片方の箱に手を止められたが、もう片方はそれより近くまで指を寄せられた。岩場側の二箱は、どちらも反応がなく、違いを決められなかった。
一巡を終えると、ケインはアリアが百を数えるまで右手を休め、水を飲んだ。反応のあった四箱だけを残し、アリアがもう一度順を替える。箱の位置、数える速さ、間の休みは変えない。今度は押し返す強さではなく、その返り方を比べた。
初めの組では、一方の反応が細かく続き、もう一方は返りが途切れる時間が長かった。次の組も同じように分かれた。順を逆にしても、先ほど手を近くまで寄せられた二箱は、返りの間が長い側に入った。
アリアが対応表を開く。反応が弱く、返りの間も長かった二箱は、どちらも工事後に置いた皿と布だった。
ケインは二つの札を見比べた。
「新しく運ばれた量は、以前より少ないと思います」
「止まった、と考えてもいいのでしょうか」
「そこまでは言えません。今回の布にも残っていますし、まとまった雨はまだ一度だけです」
アリアは、比較表へ記す文を読み上げた。
「新たな沈着は、工事前より減った可能性が高い。流出が止まったかは未確認。次の雨のあとも比較を続ける——この内容で記録します」
ケインは頷いた。使った皿と布は、場所と回収日を書いた箱へ戻され、物置の棚へ分けて置かれた。
試料を物置へ残し、手と顔を洗ってから、ケインたちはイレーネの寝室へ向かった。
イレーネは寝台ではなく、窓際の椅子に座っていた。背には枕が入れられ、足元には毛布が掛けられている。侍女の腕を借りて、寝台からここまで歩いたという。話すあいだは、自分で身体を起こしていた。
マルタは卓上へ、朝夕に自分が記した紙と、日中に侍女が記した紙を日付順に並べていた。その横には、ケインがイレーネとゲルハルトから聞き取った過去三回の経過と、マルタが持参した神殿の施術記録が置かれている。
「治癒を行ってから、今日で四週間です」
ケインは、治癒の前後を書いた最初の一枚を開いた。治癒の前は、杯を口へ運ぶ前に休み、短い問いを二つ続けると声が弱くなっていた。治癒の直後には、自分で杯を口元まで運んで二口飲み、一息で問いに答えている。翌朝には疲れが出たが、呼吸や声は治癒前ほど弱くならなかった。その後も食事を取れる量は増え、会話を続けられる時間と、身体を起こしていられる時間は少しずつ延びた。この一週間は毎日寝台を離れ、短い時間なら屋敷の帳面を読み、侍女へ指示も出している。強く疲れた日があっても、翌日にはそれまでの状態へ戻っていた。
「今日は椅子で朝食を取り、そのあと厨房の帳面も二枚確認しています」
マルタが言うと、イレーネは少し笑った。
「二枚目の途中で休みました。そこは、きちんと書いておいてくださいね」
「書いてあります。まだ、一人で長く歩ける状態ではありません」
ゲルハルトは、今回の記録の横に置かれた、過去三回の経過へ目を移した。
「今回は、治癒の結果が違ったということか」
「以前の治癒も、身体を改善させています」
マルタは、一度目の経過を指した。治癒後、食堂へ戻り、庭へ出られるようになった。その状態は四か月ほど続いている。二度目は二か月に届かず、三度目は二週間も続かなかった。
「食事を替えたことへ、先に結びつけないでくださいと、わたしは言いました」
マルタは過去の経過を重ねかけ、やめた。口元を固くしたまま、一枚ずつ今回の記録の横へ戻す。
「治癒が効かなかったことにされるのが、嫌でした。三度とも、確かに効いていましたから」
ケインは黙って、マルタの次の言葉を待った。
「ですが、神殿の記録に残っているのは、施術の前後に身体がどう変わったかです。そのあと何を食べ、いつまた悪くなったかまでは、確かめていませんでした」
マルタの指が、四か月、二か月未満、二週間未満と書かれた箇所を順に押さえた。
「四週間の記録と過去三回を比べれば、もう同じ保留はしません。汚染された干し草を食べた家畜の乳や内臓を通じて、汚染が身体へ入り続け、治癒のあとにまた悪くなっていたと判断します。治癒だけを見ていた、わたしたちの記録では足りなかったのです」
「僕も、治癒は必要だったと思っています。あの日、呼吸も、杯を持つ手も変わりました」
マルタはようやくケインを見た。
「……今は分かっています。あなたは、治したあとも同じものを食べ続けることを止めようとしていたのですね」
「はい」
ゲルハルトは返事をせず、二週間未満と書かれた箇所を見ていた。
マルタは、今回の記録へ手を移した。
「今回は、治癒を始める四日前から食事を替えています。その後も同じ食事へ戻していません。治癒による改善は、四週間たっても失われていません」
「治った、と言えるのか」
マルタが答えた。
「病で悪くなり続ける状態は、今のところ止まっています。ただ、食べられないあいだに肉が落ち、長く寝ていたために足の力も衰えています。食事を取りながら、時間をかけて戻す必要があります」
アリアは母の椅子の横へ膝をつき、毛布の上に置かれた手を取った。
「明日の朝も、一緒に食べましょう」
「ええ。食堂までは、まだ待ってくださいね」
「こちらへ運ばせます」
イレーネが頷くと、アリアはその手を両手で包んだ。ゲルハルトは窓際へもう一脚、椅子を運ばせるよう侍女へ頼んだ。
マルタが古い記録を重ね、紐でまとめる。卓の端には、アリアとゲルハルトの食事と体調を記した紙が残っていた。
アリアは母の手を離して立ち上がると、自分の名がある紙へ目を落とした。
「わたしも、このままなら大丈夫なのでしょうか」
マルタは紙を手に取ったが、すぐには答えなかった。
「今、症状が出ていないことしか分かりません。食事を替えたままにして、記録も続けましょう」
アリアは頷いた。自分の記録を片づけず、卓の上へ戻した。
夕刻、領館の事務室には、村から届いた報告が日付順に並べられていた。
アリアは、配給を止めて回収を始めた後の報告を、同じ日数ずつ二つに分けた。初めの束には、立てなくなった家畜と、飼料を受けつけなくなった家畜が、何頭も記されている。直近の束で新たに重い状態になった家畜は一頭だった。
ただし、食べる量が少ない、反芻が減ったという報告は今もある。前から弱っていた家畜が治ったわけでもなく、回収できていない干し草も残っていた。
「新たに重くなる家畜は減っています」
アリアは二つの束を「配給停止・飼料変更後」と表へ記し、山の工事記録とは分けた。
ケインは、直近の束に残った一頭の欄を確かめた。飼料を替えた日と、立てなくなった日が並んでいる。それ以前に何をどれだけ食べていたかは、余白に書かれていた。
「この一頭も、続けて様子を知らせてもらえますか」
「もう頼んであります。軽い症状の家畜も、同じ項目で報告を続けてもらいます」
領館の書記は、山の比較結果、家畜の報告、イレーネの経過を一枚の文書へまとめた。書き終えたところまでを、ゲルハルトへ読み上げる。
「領主の決断により、領内の異変は収まりつつある——」
「その一文は外してくれ」
ゲルハルトが遮った。
「私の決断を功績にはしないでほしい。配給を始めたのも私だ」
書記がペンを止める。ゲルハルトは机の上の紙を一枚ずつ見た。
「治癒をした者、食卓と飼料を替えた者、原因を調べた者、山で工事をした者、村から家畜の状態を知らせた者。それぞれが何をしたかを残してくれ。まだ終わっていないこともだ」
書記は最初の一文を横線で消した。代わりに、マルタの治癒と四週間の経過、領館と牧場での食事と飼料の変更、沢と坑道跡の調査、職人と作業員が行った工事、村ごとの症例報告を書き加えていく。
最後には、新たな沈着と家畜の重症化は減少しているが、どちらも完全には止まっていないこと、人への長期的な影響はまだ分からないことが記された。
ゲルハルトは文書を読み返し、書記へ戻した。
「この内容で領館の記録へ残してくれ。村へ知らせる分も、同じ内容で頼む」
報告をまとめても、机の上から紙はなくならなかった。次の雨で使う観察表。まだ回収できていない干し草の一覧。汚染が残る土地の柵を点検する予定。導水路と粘土被覆の補修箇所。回復中の家畜を回る順番。
ケインは、上から一枚ずつ目を通した。
「明日、もう一度ここへ来てくれ」
ゲルハルトが言った。
「記録の続きですか」
「いや。この先の仕事の話だ」




