第34話 水の道
領館の門前に、山へ向かう荷車が並んでいた。前日の停止要求への回答が受理されるまで、工事は始めない。御者たちは車輪へ止め木を噛ませて待っている。
門の脇には机が置かれ、昨夜アリアが整えた回答書と、工事の記録が並んでいる。表紙にはオスヴァルトの書記が指定した期限があり、その下へ、工事の許可、工程と人員、工法、危険範囲と接触回避、警戒と停止合図、負傷時の対応が分けて記されていた。石工頭と水路の職人は、ケインやギルと一緒に机の前で待っていた。
領館の玄関が開き、ゲルハルト、アリア、オスヴァルト、セヴラン、マルタが出てきた。ゲルハルトは机の端に立った。
アリアは回答書を開いた。
「工事について、それぞれ自分が判断した仕事にだけ名を書いてください」
「書かれている仕事に違いがあれば、名を書く前に言ってください」
最初に石工頭が呼ばれた。アリアが読み上げたのは、埋め戻しを掘り返さず、上へ粘土を被せ、崩れやすい箇所だけを石と木組みで外から支える工法だった。
「埋め戻しに粘土を被せ、石と木組みで支えるやり方は、俺が決めました。導水路の幅と傾きは、水路の職人です」
「はい。あなたに名を書いていただくのは、粘土を被せる仕事と、石と木組みの支えです」
石工頭は外側補強と粘土被覆の欄へ名を書いた。
次に、水路の職人が導水路の幅、底の粘土と平石、杭と編み枝について確かめる。埋め戻しの上へ水を入れず、安定した岩場側へ流すこと。その工法を決めた者として署名した。
アリアは、村ごとの募集、交代順、食事と支払い、辞退した者の扱い、遅れた工程を記録した欄へ自分の名を書いた。ギルが名を記したのは、縄と板の配置、風の見張り、停止と退避の合図を実際に守らせる役目だった。
マルタは、棘が服や身体へ刺さった疑いがあるときの初期対応と、前日の補助役を診た記録を読み返した。
「私が名を書くのは、負傷が疑われた後の対応です。棘草の範囲や工法を安全だと認めるものではありません」
「棘草の範囲はケイン、工法は職人の欄です」
アリアが答えると、マルタも名を書いた。
回答書はケインの前へ回ってきた。
彼の欄には、黒い莢のある斜面、黒い沈着物の見つかった場所、埋め戻しへ触れない範囲、棘や汚れた道具への接触を避ける手順が並んでいる。水路の勾配も石組みの強さも含まれていなかった。
「ここにある危険な場所と手順は、僕が示しました。ここへ書きます」
ケインは名の欄へ、ケイン、とだけ記した。領館の書記が、隣へ「家名申告なし」と書き添える。
上位領主家へ渡る書面に、自分の名を書くのは初めてだった。
ケインは筆を書記へ返した。
机の向こうで、オスヴァルトが回答書を読み始めた。工事を許可した者の欄だけが、まだ空いている。
「仕事ごとに署名しても、神殿が山への立入りに反対した事実は変わりません」
オスヴァルトは、セヴランへ向き直った。
「備えのないまま人を入れるべきではない。私はそう申し上げました。原因も、被害の及ぶ範囲も分からなかった。あの時点の判断は変えません」
セヴランは回答書の付属書を取り上げた。
「ですが、その後に確認した事実があります。それを付属書へ記しました」
「だから工事が安全だと、神殿が保証するのですか」
「保証しません」
セヴランはすぐに答えた。
「棘草の正体も、埋め戻しの中も、長く使ったときの安全も分かっていません。私が証言するのは、掘削と埋め戻しを見たこと、沈着物を辿って坑道跡を見つけたこと、工事が中を掘り返さず、水を外へ逃がすものだということです」
付属書の神殿側現認事項には、その三点だけが記されていた。セヴランは一行を書き加えながら言った。
「備えのない立入りに反対したのは、分からない危険へ人を近づけないためでした。確認した事実が増えたなら、判断も改めます」
「最初の判断が誤りだったと?」
「いいえ。最初に止めたことと、今も止め続けることは別です。危険な場所を囲い、止まる条件を決めたうえで、水が入り続ける状態を直す。それを神殿の名で妨げる理由はありません」
セヴランは、自分が見た事実を記した欄へ署名した。
最後に、アリアが回答書をゲルハルトへ向けた。末尾には、工事を続ける判断と、そのために生じる上納の遅れ、追加の支出は、工法や安全手順へ名を書いた者には負わせず、領主が引き受けるとある。
ゲルハルトは文面を読み返し、自分の名を書いた。続けて男爵印を押す。
「上納の遅れと、工事を続けると決めた責任は、私の名で報告してくれ。職人たちの責任にはするな」
「上納の不足と、領の予備費が減ったことは、どちらも査定します」
オスヴァルトの声は変わらなかった。
「承知している。そのうえでの署名だ」
ゲルハルトが答えた。
オスヴァルトは、回答書の各欄と署名をもう一度確かめた。自分の書記に受取日を書かせ、その横へ、工事続行には異議があると書き添えさせた。回答書と参加者の記録は上位領主家へ提出し、上納と領務の査定に加えると告げて、回答書を受理した。
署名を終えた職人たちは机を離れ、門前の荷車へ向かった。ケインも後に続く。ギルは御者へ出発を待つよう手を上げた。
書面を挟み板へ収めたオスヴァルトが門へ向かったところで、ゲルハルトの声がした。
「一つ、聞いておきたい。なぜ、そこまで山へ人を入れたくない」
オスヴァルトが足を止めた。周りにはゲルハルトとアリア、十数歩離れた荷車のそばにケインたちがいるだけだった。
「理由は、私にも知らされていません」
オスヴァルトは振り返らずに答えた。
「山へ人を入れるな。私が受けたのは、それだけです」
ゲルハルトは重ねて訊かなかった。オスヴァルトも説明を足さず、書記を連れて領館の門を出ていった。
荷車の止め木が外された。
水路の職人と石工頭が先頭の荷車へ乗り、ケインたちは後ろの一台へ分かれた。山へ着くと、待っていた作業員へ、アリアの書記が回答書の受理と作業再開を伝えた。
水路の職人は、前日に一台減った荷車の分を数え直した。平石を先に上げ、粘土は小さな籠へ分けて運ぶ。荷運びの人数は増やさず、旧作業道と上部斜面を何度か往復することになった。
「石が先だ。最後の一区間へ入れる。粘土は来た分から練ってくれ」
水路の職人が合図を出すと、止まっていた鍬と籠が動き始めた。
上部斜面では、導水路の最後の区間へ土を掘り下げる。安定した岩場側から運んだ粘土を底へ敷き、平石を一枚ずつ置いた。埋め戻しの上では、端に残っていた粘土を石工頭が踏み固めさせる。下では、外側補強の木組みへ縄を掛け、石の前へ締めていた。
昼前、見張りが腕を上げた。
山側から下りてきた風で、二重の縄が揺れた。黒い莢のある茎も枯れ枝へ傾いている。
「上を止めろ。粘土の上も下がれ」
ギルの声で、上部斜面の四人が鍬を置いた。埋め戻しの上にいた者も板の後ろまで下がる。外側補強の石工と、岩場側で資材を整える者だけが仕事を続けた。
風はすぐには弱まらなかった。見張りは腕を下ろさず、上部斜面へ戻る者もいない。運び上げた粘土は縄の外で籠に入れたまま、濡れた布を被せた。
昼を過ぎても、莢のついた茎が揺れている。
「今日は、上へ戻せん」
ギルが言った。
水路の職人は、杭が並んだ最後の区間を見上げた。平石は届いているが、底の粘土を仕上げられなければ水路はつながらない。
「分かった。下の木組みは、今いる者だけで締める。ほかは道具と籠を片づけてくれ」
石工頭が選んでいた人数だけで縄を締め、ほかの者は使い終えた道具の泥を落とし、翌日運ぶ粘土と平石を縄の外へ揃えた。
風に押されて、尾根の雲が谷側へ下りていた。水路の職人が空を見て言う。
「昨日より早いな。明日のうちに、少し降るかもしれん」
導水路の最後の一区間と、粘土被覆の端は、その日も残った。
夜のうちに風は弱まり、翌日は板の向こうの茎も動いていなかった。
見張りが風を確かめ、水路の職人が上部斜面へ入る四人の手袋と袖を見た。ギルが板と縄の周りを一巡してから、停止していた二つの作業が始まった。
導水路では、残りの粘土が杭の間へ入れられた。水路の職人は平石を置くたびに底を覗き、縁より低い場所が続いているかを確かめる。最後の一枚が安定した岩場側の溝へつながると、職人は上から下まで歩いて戻った。
石工頭は、埋め戻し上部の端を踏ませた。外へ水が落ちる傾きを崩す窪みへ粘土を足し、木槌で突き固める。下の補強では、石の前へ渡した木材を順に叩き、緩んだ縄を一本だけ締め直した。
ケインは棘草側の縄から、水路と粘土被覆までの距離を確かめた。黒い莢のある茎には前日と変化がない。着工前に下流へ置き、前日の作業終了後に縄の外から長柄で回収した皿と布は、場所ごとの箱に収めて領館の物置に保管されている。下流には、同じ場所へ次の皿と布を置くための印が残っていた。
アリアの書記は、使った粘土と平石、木材の数を職人から聞き取った。前日に風で止めた時間と、完成が延びた一日も工事記録へ加える。アリアは辞退した荷車の欄を消さず、そのまま残した。
水路の職人が、領館から飲み水用に運んだ桶を二つ、水路の上端へ運ばせた。
「まず一つだ。鍬を持って待て」
上端から少量の水が注がれた。水は粘土の底を進み、平石の間へ入る。最後の区間で右の縁へ寄り、土へ染み込みかけた。
「止めろ。ここが低い」
水路の職人は水の跡へ細い杭を立てた。粘土を足すのではなく、反対側の高い部分を鍬で浅く削り、木べらで底をならす。平石を戻すと、もう一つの桶を上へ運ばせた。
二度目の水は右へ寄らず、平石の間を通った。最後の杭を越え、安定した岩場側の溝へ流れ出る。
水路の職人は流れが止まるまで見届け、流れが遅くなった場所を二か所、杭で示した。雨が増えたときに溢れないかは、実際の雨でも確かめる必要がある。
石工頭が外側補強の木材をもう一度叩いた。返った音を一つずつ聞き、縄の結び目を手で確かめる。
「石と木組みの支えは、これで終わりです」
作業員たちは道具を下ろした。厚革を脱ぐ者はいない。袖と靴へ棘や黒い汚れがないかを互いに見てから、鍬と籠を縄の外へ集め始めた。
アリアは、下流に残した印へ新しい皿と布を置かせた。工事完成直後の流れを見るためのものだった。
籠を最後の荷車へ積んでいる途中で、平石に雨粒が落ちた。
一粒目の跡が消える前に、二つ、三つと粘土の表面へ丸い跡が増えた。水路の職人が尾根を見る。雲は谷まで下り、山側の木々が白く霞み始めていた。
「長くは降らん。道具は濡らすな。水路を見る者だけ残れ」
作業員の多くは、荷車と一緒に旧作業道の下へ移った。残ったのはケイン、アリア、ギル、水路の職人、石工頭と、記録を持つ書記だった。全員が二重の縄より外へ立ち、莢のある斜面には近づかない。
雨脚が少し強くなると、上部斜面の土に細い流れができた。坑道跡の上へ下ってきた水は、掘った導水路の縁へ当たり、粘土の底へ入る。試験で直した場所にも水が寄った。
水路の職人は、長柄の先で水の高さを示した。水は最後の区間を抜け、安定した岩場側の溝へ流れていく。
「さっき直したところは、越えていません」
アリアの書記が、その場所を略図へ記した。
埋め戻し上部へ直接落ちた雨は、突き固めた粘土の傾きに沿って外側へ流れた。低い場所に小さな水溜まりが一つでき、石工頭が杭で印をつける。
「ここは雨がやんでから粘土を足します。水路の側は削らず、この窪みだけ埋めます」
外側補強の石と木材は動いていない。縄の結び目にも緩みはなく、石の間から新しい泥が押し出される様子もなかった。
雨は、土の表面を濡らしたところで弱くなった。水路へ入る流れも細くなり、最後には平石の間へ雨粒が落ちるだけになる。
「今回の雨では、埋め戻しへ水は流れ込みましたか」
アリアが訊いた。
「上から流れてきた水は、水路を通って岩場側へ出ています。粘土の上へ落ちた雨も、外へ流れました」
ケインは下流の皿を見た。薄く水が溜まり、布も濡れている。
「この皿と布は回収して、次のものを同じ場所へ置きます。まとまった雨のあと、工事前から置いていたものと比べましょう。下流へ運ばれる量が変わったかは、その結果で判断します」
アリアは書記へ、今回の皿と布を「短い雨・水路完成直後」と記すよう伝えた。
滲み口の下に置いた皿と布は、危険区画の縄の内側にある。ギルと水路の職人が長柄を使い、皿を縄の外へ寄せ、布は留めた杭ごと抜いた。二つは別々の箱へ入れられ、採った場所と雨の様子を書いた札が結ばれる。ケインたちは同じ形の新しい皿と布を、地面に残した印へ置き直した。
石工頭は旧作業道の下から二人だけ呼び戻し、印をつけた水溜まりへ粘土を足させた。雨で柔らかくなった場所へほかの者を入れず、外から木べらで表面をならす。
片づけが終わるころには、雨は上がっていた。
新しい水路の底を、残った雨水が細く流れていた。下流に置き直した皿へ、枝から落ちた雫が一つ入った。
ケインは、まだその皿には触れなかった。




