↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
33/44

第33話 革手袋の棘

 朝の山道を、粘土を積んだ荷車が一台ずつ上がってきた。車輪は昨日、ギルが引き直した道を通り、莢の立つ斜面と埋め戻しのどちらからも離れている。近道より曲がりが二つ増えたぶん、御者は手綱を短く持ち、坂の手前で荷を確かめていた。


 資材置き場では、アリアが公開した表と照らして、村、荷車、今日の仕事を確認している。呼ばれた者は返事をし、書けない者は自分の名の横へ印を押した。表の端には、実際に来た人数と荷車の台数が書き足されていく。


 作業台の脇には、マルタが治療具の入った鞄を置いていた。事故に備えて日中の負傷対応を引き受けてほしいと、今朝、セヴランから頼まれたのだという。イレーネを診て日中の観察項目を侍女へ渡し、夕方には記録と本人の状態を確かめる予定だった。


「北の村は、申し出より二人少ないです」


 記録を手伝う領館の書記が言った。


「二人少ないままで記録してください。ほかの村から補うことはしません」


 アリアは人数の欄を直すと、今日進める仕事の欄も一つ減らした。昨夜決めたとおりだった。


 人の流れを決めたのは、ギルだ。石工頭が石と木材を扱う者を選び、水路の職人が鍬を持つ者と籠を運ぶ者を分けた。ギルは護衛を搬入路と二重の縄の外へ置き、誰も近道を作らないよう立つ位置を決めた。


 ケインが伝えたのは、手を入れてはいけない範囲だけだった。


「縄の内側には入らないでください。埋め戻しも掘りません。黒い莢のある茎には、道具でも触れないでください」


 水路の職人が、上の斜面へ向かう一団を見回した。十人ほどが鍬と籠を持っている。


「多いな。三人、下へ戻れ」


 呼ばれた男たちが顔を見合わせた。


「人を増やしても、狭い場所じゃ鍬の振り先が増えるだけだ。粘土を練る方へ回ってくれ」


 三人は鍬を置き、安定した岩場の側へ下りた。そこでは粘土へ水を含ませる者、平石の厚みを見分ける者、木杭と編み枝を束ねる者が、次に要る分だけを作っていた。仕上がった資材は縄の外で籠へ分けられ、空いた籠がまた下へ戻される。


 上部斜面では、昨日打った杭のあいだへ浅い溝が伸び始めた。掘った土はその場へ積まず、籠で旧作業道まで下ろす。水路の職人が合図を出すたび、鍬が止まり、粘土を入れる者と平石を運ぶ者が入れ替わった。


 埋め戻しの上では、石工頭が土の高いところを削らせず、その形に合わせて粘土を載せていた。突き固める向きも、滲み口ではなく外側へ水が落ちるよう揃えている。下部へ運ばれた石は、崩れやすい場所の前に積まれたが、まだ埋め戻しには触れさせなかった。


 荷車が着く。粘土が下ろされる。空いた車が曲がりの先へ消えるころ、別の一台が坂を上がってくる。


 昼までにできた導水路は、まだ最初の一区間だけだった。それでも水路の職人が少量の水を流すと、水は窪みの方へ落ちず、粘土の底を伝って岩場側へ進んだ。途中の一か所で縁へ寄り、職人はそこへ細い杭を立てた。


「ここは、もう少し外へ傾ける。午後に直す」


 ケインは略図へ印を移した。


 斜面の上と下で、別々の槌の音が鳴り始めた。



 翌朝には、籠の受け渡しにも、鍬を止める合図にも迷いがなくなっていた。上部の導水路は坑道跡の上を横切る手前まで延びている。


 水路職人の補助役が、仕切りに使う板を抱えて斜面を上がった。検分の日に、木枠と杭を運んでいた男だ。厚い革手袋を着け、二重の縄の外側で立ち止まる。板の下端を土へ置こうと腰を落としたとき、山側から風が抜けた。


 黒い莢のついた茎が揺れ、隣の枯れ枝へ触れたとき、乾いた音がした。


 補助役が顔をかばって左手を上げる。手の甲の革に、細い黒い棘が立った。


「止めろ!」


 水路の職人の声が斜面を走った。鍬が止まり、籠を持っていた者も足を止める。


 補助役が左手を振りかけた。


「動かさないでください。抜かないで」


 ケインは作業台の脇から声を掛けた。先に動いたのはギルだった。護衛を二人、縄の外へ回し、作業員を旧作業道まで下がらせる。


「全員、板より後ろへ。そこを動くな」


 補助役は左手を身体から離したまま、岩場側の作業台まで歩いた。棘の刺さった左手を、作業台に置いてあった板の上へ載せる。


 マルタが反対側へ入った。


「刺さった感じはありましたか。痛みは?」


「分かりません。音がして、手を上げたら……」


「指を一本ずつ動かしてください。急がなくていいです」


 親指から小指まで曲げ伸ばしができる。震えはあるが、動きに左右の違いはない。受け答えも途切れなかった。


 ケインは棘へ触れず、革の表面を見た。棘は手の甲の厚い部分へ斜めに食い込み、革の途中で止まっている。周りに黒い液はない。別の板の端を手首の下へ差し入れてもらい、革を動かさないまま手のひら側を覗く。先端は内側へ出ていなかった。


「革を切って、手だけ抜きます。棘はそのままにします」


 マルタが男の肩を押さえ、手首から先を板へ固定した。ケインは手のひら側の縫い目へ短い刃を入れた。革を引かず、糸だけを一つずつ切る。手袋の口から手のひらまでが開くと、男は左手をゆっくり引き抜いた。


 手の甲に刺し口はなかった。血も、黒い液も付いていない。ケインが指の腹で皮膚を順に押すあいだ、マルタは痛む場所がないかを本人へ確かめた。手首の脈を取り、額と首へ触れる。


「今のところ、熱はありません。気分が悪い、息が苦しいということも?」


「ありません」


 マルタは手の甲をもう一度見た。


「傷はありませんね」


「はい。棘は皮膚まで届いていません」


 周囲で、何人かが息を吐いた。


「今回は、この革が止めました。ただ、人にも害があっても不思議ではありません。今後も注意は必要かと」


 マルタが頷き、補助役へ向き直った。


「今日は仕事へ戻らず、ここで休んでください。一人にはしません。痛みや熱が出る、震えが強くなる、息が苦しくなる、受け答えが変わる。どれか一つでもあれば、すぐ私かケインへ知らせてください」


 アリアが、莢の弾けたときの陽の位置と、男が立っていた場所、風の向きを記録した。水路の職人は板を置こうとした位置を示し、ギルは同じ莢から飛んだ棘がほかにないか、盾になる板の陰から地面と道具を調べた。


 切り開いた手袋は、棘を刺したまま板へ紐で留めた。蓋付きの木箱へ収めると、アリアが箱に場所と日付、左手の甲側と書いた札を結ぶ。


 槌も鍬も、まだ止まったままだった。



 水路の職人が、莢の立つ斜面と補助役のいた場所を見比べた。


「縄の外まで飛ぶなら、どこへ立てばいい」


 ケインはアリアの記録で、茎から板までの歩数を確かめた。


「今の縄を、そこから長柄一本分、外へ移します。莢のある斜面に近い導水路と粘土被覆は、移し終えるまで止めます」


「外側の石組みは?」


 石工頭が訊いた。


 ギルが斜面から埋め戻しの下へ目を移した。莢からは離れ、間には板を立てられるだけの平地がある。


「今日は資材と、岩場側の水路だけだ。石組みも止めてくれ」


 水路の職人が合図を出すと、岩場側で粘土を練る者と平石を選ぶ者が仕事へ戻った。槌の音はまだせず、籠と水桶だけが動き始める。


 危険範囲の外から、護衛が長柄の先で縄を持ち上げた。別の者が新しい杭へ掛け直し、板を二重に並べる。莢のある茎は切らず、踏まず、向きを変えない。そのまま外から囲いを広げた。


「風が下へ抜けたら、人も下げる」


 ギルが言った。


「風を見てから合図する者が要るな」


 水路の職人が答え、上部斜面の見張りを一人決めた。危険区画へ入る者も、水路の職人が選んだ四人に固定する。厚い革手袋、長袖、革靴を着け、板の陰から一人ずつ動く。交代する場合は、先に手順を教えることになった。


 負傷者が出たときの手順は、マルタが決めた。


「棘が服や道具へ刺さっても、自分では抜かないでください。止まる合図を出して、刺さったところを動かさない。周りの人は近づかず、ケインか私を呼んでください」


「近づくのは二人までにしましょう。ひとりが本人を診て、もうひとりが革や道具を見ます」


 ケインが言うと、マルタは頷いた。


「記録は、その二人とは別の人に頼みます。何が刺さったか分からなくても、時刻と場所、身体のどこか、痛みや出血があるかを書いてください」


 アリアは決まったことを一枚にまとめ、写しを作らせた。追加で要る厚革、板、長柄の道具も数え、領館へ走る伝令に持たせる。


 返事を待つあいだに、ケインは短い木片を差した革の切れ端を用意した。水路の職人がそれを板に巻き、作業員を呼び戻す。


「これを棘だと思え。止めるぞ」


 見張りが合図を出した。作業員が道具を置き、板の後ろへ下がる。近くにいた男が革へ手を伸ばしかけ、水路の職人に肩を押さえられた。二度目は誰も触れず、ギルが周囲を下げ、ケインとマルタだけが板を持って近づいた。アリアの書記は、立っていた場所と木片のついた側を声に出して確かめた。


 その日の残りは、莢の斜面に近い導水路と、埋め戻し上部の粘土被覆を止めた。続けたのは、岩場側での資材の加工と、危険区画から離れた導水路の区間だけだった。


 日が傾くと、水路の職人が作業終了の合図を出した。アリアは、止めた二つの作業と進まなかった区間を表へ記した。マルタは補助役を一人で帰さず、付き添う作業員と一緒に山を下りた。



 翌朝、領館から厚革と板を積んだ荷車が上がり、昨日下った伝令も一緒に戻ってきた。ゲルハルトの署名がある書き付けには、領館と牧場の備品から厚革、板、長柄の道具を回すことが記されていた。さらに、莢の斜面に近い導水路と粘土被覆を止めた時間、そのために遅れた仕事は日ごとの記録へ残し、風の見張りや装備の確認に当たる人数を減らして遅れを埋めることも認めない、とあった。


 マルタは作業前に補助役の左手をもう一度診た。傷、痛み、腫れ、熱はなく、昨日の震えも収まっていた。指は同じように動き、息苦しさも受け答えの変化もない。男は新しい手袋を着けたが、危険区画には戻らず、岩場側で木杭を数える仕事へ回った。


 新しい縄の外で、水路の職人が四人の装備を一人ずつ確かめた。風を見張る者が腕を上げ、上部斜面へ最初の鍬が入った。


 ケインが作業台で昨日の記録を確かめていたころ、旧作業道をオスヴァルトの書記が上がってきた。抱えている挟み板には、監察官の印がある書面と、何枚もの記録紙が留められていた。


「工事に参加する方について、記録を取ります」


 書記はアリアへ書面を渡した。記す項目は、名前、村、参加した日、担当した仕事、荷車や家畜を出したか、誰に頼まれたか、受け取る食事や支払い、断れると説明されたか、山への立入停止の文書を知っていたか。


「強制でないというのであれば、誰が自分の意思で参加したのかを残す必要があります」


 資材置き場にいた者たちの視線が、書記の挟み板へ集まった。


 アリアは項目を最後まで読んだ。


「記録は受けます。ただし、ここで行ってください。一人ずつ別の場所へ呼ぶことは認めません」


「個別に確かめなければ、隣の答えに合わせる者も出ます」


「答えが聞こえないよう、待つ方には机から離れていただきます。ただし、別の場所へ一人ずつ連れていくことは認めません。質問は先に全員へ示します。こちらの書記も同じ答えを控えます。字を書けない方は、立会人の前で印を押してください。答えたあとで参加をやめても、不利益はありません」


 オスヴァルトの書記は条件を書き留め、拒まなかった。二つの机が資材置き場へ並べられ、同じ質問を同じ順で読むことになった。


 最初の数人は、名前と村を告げ、昨日までの仕事を答えた。印を押す前に食事の支給を確かめる者がいた。後ろの列では、書面が上位領主側へ渡るのかと、小声で訊く者もいた。


 荷車を出していた男が、自分の番で列から外れた。


「監察官様のところへ、俺の名も行くんですか」


「この記録は監察官へ提出します」


 書記が答えた。男は荷車の方を見てから、アリアへ頭を下げた。


「なら、今日は帰らせてください。上へ逆らった者として名が残るのは困ります」


「分かりました。昨日までに出していただいた荷車と仕事は、そのまま記録します」


 アリアは公開表の今日の欄から荷車を一台減らし、「辞退、不利益なし」と声に出して確かめながら記した。男は誰とも目を合わせず、荷台へ残っていた空の籠を下ろした。手伝おうとした者へ礼を言い、自分で馬の向きを変える。


 荷車が一台減ったため、石工頭は今日組む外側の支えを一か所減らした。余った人手を別の荷車へ寄せることはせず、運ばれている石の分までで仕事を組み直す。


 列には、すぐ印を押す者も、順番を譲って考える者も残った。鍬と槌の音は続いていたが、資材置き場の二つの机の前だけは、なかなか列が進まなかった。



 その次の朝、ケインが作業台から見上げると、尾根の一部に雲が残っていた。


 上部の導水路は、安定した岩場へつながるまで残り一区間になっている。埋め戻し上部の粘土被覆は、外へ水を落とす傾きに沿ってほぼ覆われ、端の突き固めを残すだけだった。外側補強では、組んだ石の前へ木材が渡され、石工頭が締める順を変えていた。昨日、荷車が一台減ったために遅れた一か所は、そのまま残っている。


 水路の職人は、前日に突き固めた粘土へ指を当てた。表面は冷たく、朝になっても乾き切っていない。山側から風が下りると、土と葉の匂いが濃くなった。


「今日すぐ降るとは言わん。この風なら、三日、四日もすれば降るかもしれん」


 昼前に一度、見張りが腕を上げた。上部斜面の四人は鍬を置き、板の後ろまで下がる。粘土を練る者と外側補強の石工は手を止めずにいた。風が弱まると、ギルが板と縄の周囲を確かめ、水路の職人が四人を戻した。


 夕方までに、導水路の最後の一区間へ杭が並んだ。粘土被覆は端を一列残し、外側補強では木組みを締める縄が用意された。どれも、明日には終えられるところまで来ていた。


 作業終了の合図が出る前に、オスヴァルトが旧作業道を上がってきた。昨日来た書記が続き、両手で挟み板を抱えている。


「昨日の参加者記録と、工事の記録を確認しました」


 オスヴァルトは資材置き場の机へ書面を置いた。記されているのは、追加の賦役に当たる疑い、上納の遅れ、予備費の減少、山への立入停止を求めた文書。それに、黒い棘が作業員の革手袋へ刺さり、二つの作業を止めたことが加えられていた。


「安全手順を改めたことも記録されています。しかし、危険がなくなったわけではありません」


「止めろという命令ですか」


 アリアが訊いた。


「工事停止の要求です。明朝の作業を止めるか、続けると判断した責任者を明記した回答書を提出してください」


 オスヴァルトが書面の下を示した。欄は、工事の許可、工程と人員の管理、工法、危険範囲と安全手順に分けられていた。


「安全だと言っているのではありません。危険を承知で続ける者の名を、明らかにしてほしいだけです」


 書記が、回答期限を明朝の作業開始前と書き入れた。


 書面の下には、責任者の名を書く欄が並んでいた。


 粘土張りの水路の向こうで、朝から尾根に残っていた雲が、もう一段低くなっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。