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第32話 同じ条件

 領館へ戻り着いたのは、日が沈んでからだった。ケインは執務室の卓に略図を広げ、消さずに残した滲みの丸と、その外を回る新しい線を、順にゲルハルトへ示した。


「範囲は、明日、新しい泥でもう一度確かめます。ただ、どこをどれだけ掘るかを決める前に、石工と水路の職人に見てもらいたいのです」


「職人は、監察官の条目に掛かっていたな」


「はい。ですから、男爵様の判断を仰ぎに来ました」


 ゲルハルトはしばらく、新しい線の通り道を目で辿っていた。


「条目で止めたのは、山の調べに人を雇い入れることだ。検分は領地の普請の入り口として、私の名で行う。あちらが同じように読まぬなら、割れたところで私が答える」


 検分のために職人を呼ぶ書き付けが作られた。日付と目的を記し、ゲルハルトが署名する。


「費えの話は、範囲が決まってからにしよう」


 書き付けは、その晩のうちに中心集落の石工の家へ届けられた。水路の職人へは、石工頭から声が掛かる。



 明くる朝、四人はまた枝の布を辿って、旧い道の比較の台まで上がった。職人たちは昼前に来る。それまでが、比べに使える時間だった。


 昨日使った器は、洗うまで使わない決まりのまま木箱の奥へ寄せてある。台へ載せるのは、墨の印のない五つの陶器だった。


「始める前に、どこまで同じなら昨日と同じと呼ぶかを決めておきましょう」


「同じ泥を使うのでは、ないのですね」


 セヴランが訊いた。


「昨日採った場所のすぐ隣から、新しく採ります。泥そのものは違いますから、感触までそっくりにはならないと思います」


「では、何が同じなら、同じなのですか」


「分かれ方です。昨日は、粗く間の空くものと、細かく詰まって続くものに分かれました。今日も同じ場所が同じ側へ入るかを見る。側の中の順番までは問いません」


 アリアが新しい記録紙へ、昨日の結果を書き移した。岩場は無反応。窪みと東の縁は細かい側。滲みは粗い側。西の縁のところで、筆が止まる。


「ここは、昨日と同じく決められない、で?」


「はい。今日も決められなければ、またそう書きます」


 書き終えたものをセヴランが読み上げ、アリアが日付を入れた。


 泥は昨日の採り跡から掌ふたつ分ずらした隣で採った。採り方は変えず、埋め戻しは避ける。東の縁へは、今日もギルが先に立った。


 五つの器を日陰へ揃え、同じだけ待つ。ケインは昨日の記録紙を革袋へ戻したままにした。結果を忘れることはできない。それでも、どの器にどの泥が入っているかまで知った状態で触れるよりはましだった。


 風は昨日と同じく沢を下る向きに流れていた。雲の切れ間から陽が差すたび、器を置いた日陰の縁がわずかに動く。アリアは五つ全てが影の中に収まっているのを確かめてから、待ち時間の終わりを告げた。


 ケインが沢を向いているあいだに、アリアが順を替えた。器の底にある採った順と地点とのつながりは、対応表の中にだけ残る。布が掛け直され、セヴランが台の脇に立った。


 ケインは台の印へ右の前腕を合わせた。


 十かぞえるあいだ当て、十休み、次へ移る。昨日と同じ速さで、アリアの声が続いた。


 ひとつめは細かい。押し返しが詰まり、指を進めても途切れがほとんどない。昨日にもあった返り方だったが、それだけで同じ側へ入れていいとは決めず、十が終わるまで待った。


 ふたつめは粗い。抵抗が当たっては切れ、何も返らない間が長く続く。みっつめへ移ると、今度は完全に素通りした。押し返しも、その目の粗さもない。無反応の基準が変わっていないことに、張っていた肩から少し力が抜けた。


 よっつめは細かい側だった。ただし、ひとつめより短い途切れが挟まる。側の中の順番は問わないと、始める前に決めてある。違いはそのまま言葉にして、判定だけを細かい側へ置いた。いつつめは粗く、ふたつめより短く切れた。


 昨日なら境で迷った感触にも、今日は一度で言葉が出た。慣れただけなのか、力そのものが定まってきたのかは分からない。少なくとも、途中で確かめ直したいとは思わなかった。


 前腕を下ろすと、アリアが対応表を開いた。


 ひとつめは窪み。ふたつめは西の縁。みっつめは岩場。よっつめは東の縁、いつつめが滲みだった。


 アリアが二日分の記録紙を台の上に並べ、昨日と今日の欄を指で一つずつ押さえた。


「昨日と、同じですか」


「食い違いはありません。昨日、側が決まった四つは同じです。窪みと東の縁が細かい側。滲みが粗い側。岩場は無反応。決められなかった西の縁も、今日は粗い側に入りました」


 セヴランが表の上へ身を屈めた。


「この結果が示すことは、なんだと思われますか」


「一定の反応が、同じ場所で出ています。何らかの違いが場所ごとにあり、それを生んでいる原因がどこかにある、とは言えそうです。何の違いを拾っているのかまでは、まだ分かりませんが」


 泥を採った場所へ戻し、器を検めて木箱へ収める。アリアたちが台を片づけるあいだ、ケインは自分の右手を見ていた。


 害のあるものを、押し返してきた手だ。守るものへ向けて使えば、悪くなっていく流れを堰いた。沢へ入ってからは泥を拒み、昨日からは、条件を揃えたときにだけ、押し返しの目の粗さを残すようになった。


 拒むことと、分けること。働きは同じではない。ただ、どちらも同じ右手で、同じ場所から来ている。あの日、水晶に浮かんだ記号を思い出した。この世界の誰にも文字とさえ認められなかったそれを、犬飼献(ケイン)だけは読めた。


 【けん】


 ずっと考えていた。これが何をなすギフトなのかを。でも、今は少し分かった気がする。嫌だと思って拒むこと。さらに知ろうとして、感覚を研ぎ澄ますこと。


 『嫌』と『研』。どちらも、けんと読む。


 指先が少し冷えた。それなのに、胸の奥はわずかに浮いていた。分からなかったものに、初めて筋道が通った。偶然、似た働きをそう呼びたくなっただけかもしれない。だが、昨日とは別の泥を、順番も伏せて比べ、同じ分かれ方が出た。そのうえで思いついたことなら、ただの願望として退ける必要もなかった。


 水晶が示していたのは、一つの意味ではなく、読みだったのかもしれない。そう考えると、これまで別々に見えていた二つの働きが、初めてつながった。


 確かめられたのは、まだ二つだけだ。それでも、違うという証拠が出るまでは、この考えを捨てずに持っておこう。


「何か、分かったのですか」


 アリアだった。片づけの手を止めて、こちらを見ている。


「考え方が、一つ増えました」


「そうですか? なんだか嬉しそうな顔をしてますよ」


 アリアはそう言うと、対応表の束を革袋の一番奥へ収めた。


 道の下から、人の声と、木の触れ合う音が上がってきた。



 職人は五人だった。先頭の岩のような手をした男が石工頭で、続く痩せた年配が水路の職人。あとの三人は木枠と縄と杭の束を担いでいる。


 石工頭は男爵の書き付けを示すと、挨拶もそこそこに斜面を見た。


 ケインが渡したのは、略図と確かめた場所だけだった。上で水が消える窪み。そこから東へ続く縁。下で滲む出口。反応の小さい西の縁。離れて安定した岩場。


 莢の立つ斜面へ近づかないこと。埋め戻しを掘り返さないことも伝えた。手の力の話はせず、悪いものが水で運ばれている見込みの範囲として線を見せる。


「お願いしたいのは、上から来る水を、問題のある場所へ入れないことです」


 ケインは窪みと埋め戻しのあいだを指した。


「下の滲み口は塞ぎません。入る水を減らしてから、出てくる水が減るかを確かめたい。どこで水を受け、どこへ通せば安全かは、皆さんに見ていただきたいのです」


 水路の職人はすぐには返事をしなかった。窪みの上へ回り、水が落ちてくる筋を見てから、埋め戻しを避けて岩場まで歩く。途中で二度しゃがみ、指で土を崩して湿りを確かめた。


 補助役から縄を受け取ると、一端を窪みの手前へ置き、もう一端を持って斜面を横切った。初めは沢へ近い短い線で止まったが、足元を見て首を振る。次に少し上へ戻り、岩場の側まで縄を伸ばした。


「なら、こっちだ。窪みへ落ちる手前で水を拾って、岩場の側へ逃がす」


「沢へ真っ直ぐ落とすのではないのですか」


「短い方は勾配がきつすぎる。水が土まで持っていく。こっちへ緩く引く」


 職人は張った縄を指で弾いた。窪みの手前から岩場まで、斜面を横切る線が揺れた。


「ただ掘っただけでは、途中でまた土へ潜りますか」


「潜る。底は粘土で固め、その上を平石で押さえる。外の縁は木杭と編み枝だ。水の道を動かさず、土も持っていかせない」


「水が増えたときも、この幅で足りますか」


「いま決めるのは幅じゃない。先に落ち方を拾う。狭いところで受けきれなければ、受け口を上へ広げる」


 ケインは頷いた。何を通さないかは決められても、雨の水をどの幅で受けるかまでは、自分の略図からは出せない。


 補助役が木枠を組み、横木から重りを下げた糸を垂らした。一人が木枠を支え、一人が縄の先に杭を打つ。残る一人が、杭と杭のあいだの歩数を板へ刻んだ。斜面の落ち方を一つずつ拾いながら、ケインの線の外を測っていく。


 途中、縄は東の縁へ寄りかけた。ケインが略図の印を示すと、水路の職人は何も訊かず、杭を二本分外へずらした。遠回りになった分だけ勾配が緩み、補助役が打ち直した杭の頭を足で確かめる。


 石工頭は滲みの前にしゃがみ、埋め戻された土と石の境を指で探った。


「こっちは掘らん。上へ粘土を被せて、雨が入るのを減らす。外へ水が落ちる傾きをつける。崩れそうなところだけ、外から石と木組みで支える。下の口は残す」


「被せる前に、埋め戻しの上を均しますか」


「削らん。高いところに合わせて、外へ水が落ちるように被せる。余計に土を動かせば、どこから水が出るか分からなくなる」


 石工頭は埋め戻しの端から端まで目で追い、支えを入れる場所だけを略図へ短く記した。中を直すのではなく、外から崩れを止める。その線も、滲み口の前では途切れていた。


「その上を、人や荷車が通っても保つか」


 ギルが訊いた。


「いや、振動で緩むから、無理ですな」


 ギルは略図を受け取ると、最短の荷道に引かれていた線を消した。莢の斜面と埋め戻しの両方から離れたところへ、新しい線を引く。


 最初に引いた略図の線は消さず、職人が選び直した線を隣へ残した。


 工事の前後を比べる場所は、アリアが記録紙へ書き、セヴランが略図と照らした。下流の泥と根を採る場所。これから水が運んでくるものを受ける布を置く場所。導水路の影響を受けない岩場側の一点は、手を付けずに残す。


 日が西へ傾く前に、必要な石、粘土、木材と手間の見積もりが出た。



 夕刻の執務室で、ケインは見積もりの覚えを卓へ広げた。ここから先は、決める者たちの仕事だった。


 石と粘土と木材は、領内で足りる。買わなければならないのは、職人の手間賃と鉄の道具、運びの一部だった。


 帳簿方が予備費の残りを読み上げ、ゲルハルトが領館の費えから削れるものを挙げる。数字を一つ動かすたび、別の欄が足りなくなった。救済用の干し草の買い上げに充ててあった分は、すでに必要な仕事を終え、残りが確定している。その分まで回して、ようやく最初の工事に届いた。


「全部を一度にはできんな」


 ゲルハルトが見積もりの覚えを二つに分けた。先に行うのは、水を埋め戻しへ入れないための導水と、作業路の確保。外側の支えは、崩れやすい場所から順に入れる。手元にない金を、あるものとして数えないためだった。


 人手はアリアが数えた。石工と水路の熟練が十人足らず。手元で働く補助が五、六人。村々から募る交代の人足は、日に四十から六十を必要とする。荷車が十台、護衛が十人ほど。


 ただし、どの村からも一度に大勢は抜かない。羊の世話も、最初の刈り取りも、見回りも止められない。熟練は通しで、人足と荷車は村ごとに順番で回す。


 アリアは村ごとの戸数と羊の数を記した紙を脇へ置き、募集人数の目安を二度直した。人数だけを同じにすれば、小さな村ほど一軒ごとの負担が重くなる。荷車を募る村へ、同じ日に人まで多く求めるわけにもいかない。最後に、村ごとの募集人数の上限と日数、必要な仕事を並べた表へ作り替えた。


 その表を書き上げる前に、オスヴァルトが来た。


 書記をひとり連れ、巻いた書面を卓へ置く。追加の借り入れは認めない。理由は、いまある借財と、上納の不足の見込み。判は正式のものだった。職人の検分には触れていない。


 ゲルハルトは書面を読み、静かに頷いた。


「借りずに始める。いま並べたとおりだ」


「もう一点」


 オスヴァルトは、アリアの書きかけの表へ目を落とした。


「名を変えても、領主の命令で村から人を出させるのであれば、追加の賦役と見なされます」


「水路と牧場を守るための作業だ」


「目的ではなく、誰が拒めるかを確認しています」


 声は最後まで平らだった。アリアはすぐには答えず、筆を置いた。書きかけの表には、どの村が何人出すかはある。だが、出せないときにどうなるかは、どこにも書いていなかった。


 アリアが表を卓の中央へ向け直した。


「村ごとに募る人数の上限と日数、荷車と食料、交代の順は、この表で領内へ張り出します。いつ、どの村から何人を募っているか、皆が見られるようにします」


 書き終えたところで一度読み返し、新しい行をひとつ足した。出られない者が断っても、咎めも取り立てもしない。


「人が集まらなかった分は、誰に負わせますか」


 オスヴァルトが訊いた。


「誰にも。人が足りなければ、その日の仕事を減らします。遅れは出ますが、初めから日ごとの記録へ残します」


「では、予定した日には終わらないかもしれない」


「はい。ですが、羊を守る工事のために羊の世話を止めさせれば、何を守っているのか分からなくなります」


 アリアは人数を書いた欄の横へ、実際に出た人数と、進んだ仕事を書く欄を加えた。予定と実際を同じ表に残せば、遅れの理由も隠れない。


 オスヴァルトはしばらく表を見ていた。それ以上の停止の根拠は示さず、異議のあったことだけを書記に記録させた。


 ゲルハルトが、手元の資金と資材で始める、という一枚に署名する。オスヴァルトの書記は拒否書面の端へ日付を書き入れ、巻き直して抱えた。


 二人は長居をしなかった。


 窓の下では、明日の朝に山へ向かう荷車が、空のまま門の方を向いて並んでいた。

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