第31話 埋め戻された穴
朝のうちに納屋を発ち、枝に結んだ布を辿って、坑道跡の斜面裾へ続く旧い道まで上がった。ギルの結んだ赤茶けた紐は昨日のまま灌木にあり、風は今日も沢を下る向きに流れている。四人は紐より手前に荷を下ろした。
アリアが回答書を開き、今日の作業を確かめた。掘らない。刈らない。石も倒れ木も、埋められた土も動かさない。行うのは、地表の泥を手で少量採ることだけ。ギルは頷いて、莢の立つ斜面の縁へ目を戻した。
ケインは記録紙に坑道跡の略図を描き、丸印を五つ置いた。滲みの出ている埋め戻しの下。透いた水が土へ吸い込まれて消える上の窪み。窪みから東へ続く湿った縁。西側の乾いた縁。坑道跡から離れた岩盤の脇。呼び名は、滲み、窪み、東の縁、西の縁、岩場、と決めて表に立てた。それから、滲みの丸を他より大きく描き直した。
「中を通ったものが下から出ているなら、ここが一番分かりやすいはずです。囲うのも、まずここです」
「出口側を止めればよい、という予想ですか」
セヴランが略図を覗き込んだ。
「今のところは。ただ、囲って終わりにはできません。水が溜まれば、別の場所が崩れます。囲って、外側を固めて、上の水は軽く逸らしておく。いま考えているのは、そのくらいです」
アリアが地図の写しの、沢筋を指で辿った。
「この流れは、下で本流と合わさって、集落の水場の脇を過ぎます」
「はい。どこを囲えば、あの水場へ届くものを減らせるのか。今日は、それを決めるための比較です」
三日前、淀みの上で足を止めた水桶の女を思い出す。汲んだのは流れのある側で、それでも、同じ沢だった。
セヴランが、アリアの手元の採取表を指した。
「その予想を、泥へ触れる前に、表へ書いておいていただけますか。結果とは別の欄で」
「予想を、ですか」
「結果を見てからでは、予想のほうが結果へ寄っていきます。書き換えたつもりがなくても、最初からそう思っていたことになる。……私は呪いを探しに来て、昨日、人が掘って人が塞いだ跡を見ました。自分の見立てがどこで外れたのか、いまになると辿れません。書いていなかったからです」
ケインは頷いた。
「分かりました。外れたなら、外れたことが手がかりになります。滲みが一番でないなら、僕が水の通り方を読み違えている。どこを読み違えたかは、書いた予想が残っていないと比べられません」
ケインが地点ごとの予想を口にし、アリアが増やした欄へ、滲みは大きい、窪みは小さい、東の縁と西の縁は中ほど、岩場はなし、と写した。ケインは略図を折り、木箱の掛け金を外した。
採取は、いちばん遠い岩場から始めた。何も出ないはずの場所を、手と道具が汚れる前に採っておく。台所から借りた小さな計量匙に、地点ごとに替える布片を敷く。その地点の木べらで細泥を少し多めに盛り、余りはその背で落とす。泥は布片ごと裏返して器へ落とすので、匙そのものには触れない。泥は同じ形と大きさの蓋付き陶器へ移し、底へアリアが採った順だけを書く。順がどの地点かは、対応表にだけ控える。西の縁、窪み、東の縁、滲み、の順に同じ手順を繰り返した。窪みは、埋め戻しへ乗らないよう縁に膝をつき、水の落ち込む手前の泥だけを採った。東の縁は、莢の立つ斜面へ寄りすぎる手前でギルが足を止めさせた。そこで採れる泥で足りた。器は五つとも、墨の印のないものを選んである。
滲みの泥は湿りが濃く、土の色が揃わない。窪みはただ、透いた水が吸い込まれて消えるだけの場所で、泥は周りの草地と変わらなく見えた。
「見た目は、滲みのほうがよほど悪い」
器を見比べたセヴランに、ケインは頷いた。
「見た目も、予想のうちなので。量と器を揃えて、布を掛けて、見た目ごと隠します」
採り終えた器は、泥が乾かないよう日陰で休ませた。順に採っている以上、置く長さまでは揃えられない。だから、五つ揃ってから置く時間を長めに取って、差のほうを小さくする。底に採った順を書いてもらったのは、あとで順と結果を突き合わせて、置いた長さが効いていないかを検めるためだ。置いているあいだに、木箱の蓋を外して比較の台にした。溝で器の位置を決め、前腕を置く印を付け、指先から器までの距離を揃える。並べ替えは、ケインが沢の側を向いているあいだにアリアがやった。どれがどこの泥かは、アリアの対応表にだけある。セヴランは手順とかぞえる速さを見張り、ギルは台に背を向けて斜面から目を離さない。
ケインは印へ右の前腕を合わせた。アリアの手で、布を掛けたままの最初の器が溝へ収まった。
アリアが一定の速さで十かぞえるあいだ、ケインは指を寄せて判定し、同じだけ休む。ひとつめは、伸ばした指が途中で止まった。小さい。ふたつめは素通り。なし。みっつめは、ずっと手前で止まって、圧が手のひらまで届いた。沢沿いで拾ってきたどの反応より、はっきりしている。大きい。よっつめは中ほどと小さいのあいだで迷い、迷ったことごと書いてもらって、小さい、に入れた。いつつめは中ほど。大きいのほうへ、寄っています、と読み上げる。
アリアが対応表を開いた。
みっつめは、窪みだった。
透いた水が、ただ吸い込まれて消えるだけの、あの場所だ。反応が大きいへ寄ったいつつめは東の縁。いちばん悪く見えた滲みは、迷ったすえに小さいへ入れたよっつめだった。ひとつめの西の縁は、迷う余地もない小さい。表の上では、滲みの行の、大きい、の隣に、小さい。窪みの行の、小さい、の隣に、大きい。ここは予想の逆だった。
ケインは判定の済んだ器をひとつずつ開け、量を確かめ直した。蓋の閉まり、底の書き付け、対応表の写し、木べらの挿し順。手を動かしながら、どこかに手違いが見つかるのを自分が待っているのが分かった。手違いがひとつあれば、滲みはまだ一番でいられる。ただ、どれも合っていた。
残るのは、判定のあいだの自分の姿勢と数の速さだが、それは自分では検められない。ケインはセヴランを見た。
「かぞえるのは、同じ速さでした。姿勢も、途中で変わっていません。私の見ていた限りでは」
それでも、一回だ。一回では、窪みが大きいと決めることも、滲みが弱いと決めることもできない。
「もう一度しますか」
アリアが筆を止めて訊く。ケインは頷きかけて、止まった。
「採り直すのは、泥や器に疑いが出たときです。いまは、どこにもありません。それでも採り直したくなったのは……結果が、僕の予想と違うからです。それは、理由になりません」
滲みが一番でなければならない理由は、最初からない。見えている滲みを出口だと考えただけで、水が埋め戻しの中をどう通っているのかは、誰も見ていないのだ。
「結果はこのまま残してください。——先に、工事の絵を直します」
台の端で略図を開く。工事で囲うつもりだった、滲みの大きな丸。ケインはそれを消さないまま、上の窪みと東の縁までを含む一回り外へ、新しい線を引いた。
「滲みだけを囲う案は、取り下げます。窪みが大きいと決まったからではありません。滲みだけを見ていればいい、という根拠のほうが崩れたからです。まず、窪みへ流れ込んでいるあの細い水を、手前で別へ流せるかどうか。それから、東側でどこまでの泥が拒むのか。外側を固める案は残しますが、固める場所は滲みの周りだけではなくなります」
「あの掘られた跡が元だと、もう決めておられるのですか」
セヴランが塞ぎを見上げた。
「決めているわけではありません。確かなのは、拒む泥がこの周りに集まっていることと、水が出入りし続けていることまで。元かどうかは仮説です。ただ、あの滲みが唯一の出口だとも限らない。塞ぐのではなく、入る水を減らして、出る水の道は残す。言えるのは、その向きまでです」
なぜ窪みが大きく出たのかは、わからない。下の泥は流れに洗われているのかもしれないし、窪みには残るものが残るのかもしれない。候補は書き並べ、どれにも丸を付けずにおく。
アリアが、新しい線を指でなぞった。
「この線は、どなたへ」
「まず領館へ持ち帰って、男爵様に。職人を頼めるなら、石工と水路の職人にこの範囲を見てもらいます。寸法まで僕が書けば、それはまた僕の予想になるので」
セヴランが横から言った。
「見立てが、変わりましたね」
「はい。……僕が囲おうとしていたのは、出口だけでした」
アリアが略図の隅へ日付を入れ、革袋へ仕舞いかけた手を止めた。台の上には、布を掛けた五つの器が並んだままになっている。
セヴランは、まだ塞ぎのほうを見ていた。
「上から水が入り、下から滲み出る。人が塞いだ場所で、それがいまも続いている。呪いと呼ぶかどうかは別として、そこは変わりませんね」
「変わりません。手を付けられるのは、水の道のほうです」
台を片付けないうちに、ギルが荷から麦餅と干し肉を出し、黙って差し出した。ケインは受け取った。四人は流れから離れた岩に座り、泥を扱わなかった左手で千切って食べる。長い休みは取らなかったが、食べてみると、思ったより腹が減っていた。
「もう一度だけ、やります」
食べ終えて、ケインは言った。アリアが顔を上げた。
「さっきは、採り直さないと言っていませんでしたか」
「採り直しはしません。同じものを使います。さっき断ったのは、外れた予想を守るための採り直しでした。今度は、逆の用心です。手が拒むこと自体は、思い込みでは変わらないはずです。ただ、大きいか中ほどか、境目を決めているのは僕です。線を引き直した直後なら、窪みを大きい側へ読みたくなる。それに、さっきの検めで、どれがどの泥かを僕は見てしまっています。地点を伏せて、もう一度並べ替えてください」
アリアは、ケインが沢を向いているあいだに器の順を替えた。対応表は開かない。同じ姿勢、同じ距離、同じかぞえ方。セヴランが台の脇に立ち、ギルは斜面へ目を戻した。
沢を向いて待つあいだ、水の音だけが続いた。大きい、小さい。今日、手が教えてくれたのは、その二つまでだ。それだけでは、どこの水を断ち、どこを固めるかまでは決めきれない。窪みへは、いまも水が入り続けている。もっと細かく知りたい、と思った。この泥とあの泥を分けているものを、この手は、どこまで拒み分けられるのか。
支度が済んで、ケインは台の前へ戻り、印へ右の前腕を合わせた。
ひとつめの器へ、指を伸ばす。
押し返しは、ある。強さは昼前と変わらない。小さい、と読み上げかけて、止まった。
押し返しに、粗さがある。
これまで、手を押し戻してくるものは、一枚の鈍い面だった。強いか、弱いか。沢を遡った三日のあいだ、それは変わらなかった。いまは、面の目が分かれる。粗く、間の空いた押し返し。指を進めるたび、抵抗が途切れては、また当たる。こんな返り方は、初めてだった。
「どうしました」
セヴランが台の脇から訊いた。指が、印の上で止まったままになっていた。
「……続けます。ひとつめ、小さい。話は、五つ終わってからにします。かぞえを崩したくないので」
ふたつめは違った。細かい。途切れが少なく、押し返しが密に続く。みっつめはさらに詰まって、均したような圧が切れ目なく続いた。圧そのものは、昼前と変わらない。抵抗の粗さと細かさだけが、段になって指先に残る。
よっつめは、素通りだった。押し返しのないところには、段もない。
いつつめの途中で、境が揺れ始めた。粗いのか細かいのか、手を戻して確かめ直したくなる。しまいには境がにじんで、決められない、と言った。アリアのかぞえる速さは変わっていないのに、十が長い。
いつつめが終わって、ケインは前腕を印から下ろした。それから、比べの外の確かめに、ひとつめの器へだけもう一度手を寄せた。同じ粗さが、残っていた。
「さっきと、違いますか」
アリアが訊いた。ケインは、自分の指先を見た。
「違い方が、変わりました」
「……分かるように、なった?」
「前回とは、手の反応が違います。なぜかは分かりませんが、嫌な感じに、粗いのと細かいのが出ています。身についたのかどうかは、明日の新しい泥で確かめます」
アリアは二度目の欄を立てて、筆を待たせていた。
「どう書きますか」
「大きい、小さい、へは直さないでください。粗い、細かい、詰まる。感じたままの言葉で。言い換えかどうかは、まだ分からないので」
大小の読みはそのまま残し、その隣へ、粗い、細かい、詰まる、が並んだ。成分も、原因も、どれがより悪いのかも、そこからは読めない。
ケインは、もう一巡へ伸ばしかけた手を、止めた。
「今日はここまでにします。疲れた状態で続ければ、条件を揃えた意味がなくなります」
泥はそれぞれ採った場所へ戻し、拒まれた器には墨で印を付けた。蓋は木箱へ戻り、比較の台は道の上から消えた。
「明日は?」
革袋の口を締めながら、アリアが訊く。
「順番を変えて、同じやり方でやります。泥は今日の場所の隣から、新しく採ります」
帰りも、ギルが先に立った。沢沿いを下りながら、ケインは右手を軽く開いて、閉じた。
指先に残った段差は、まだ一日分しかなかった。




