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第30話 沢を遡る

 沢へは明日、と言ってから、出発までに二日を要した。監察官の文書案が入り、翌日にゲルハルトの回答書が出た。止まったのは、掘ること、草木を刈ること、石や倒れ木や埋められた土を動かすこと、職人や案内人を新たに雇うこと、領の費えで資材を運び入れること。逆に言えば、少ない人数が、いまある道と沢沿いから離れず、地表にあるものを手で採ることは、止められていない。監察官の条目をそこまで削った回答書に、ゲルハルトは署名した。残る一日は、支度に使った。


 出発の朝、記録室の卓にその回答書を広げ、アリアが条目を読み上げた。読み終えると、戸口のギルが顔だけを向けた。


「増員は、なしですね」


「ありません」


 アリアは回答書を畳んだ。


「案内も頼みません。沢から離れずに行きます」


 道具は領館にあるものだけで揃えてあった。台所から借りてきた木べらが十数本。仕立てに回す前の布。蓋の合う陶器を十ばかり集め、底へ番号を書き入れる。木箱には仕切りを立て、器同士が触れないようにした。


 積み込みの前に、並べた陶器と布へ、一つずつ右手を寄せた。どれの上でも、指先は静かだった。


「採取表の欄は、四つでよろしいですか。地点、採ったもの、反応があったかどうか、まわりの地形」


「それでお願いします。あるか、ないか。今回はそれだけを見ます」


 セヴランが外套の紐を結びながら言った。


「原因を究明するための採取ではない、ということですね」


「はい。次に調べる場所を絞るための、下見です」


 マルタは今回も領館に残る。イレーネの経過と、窓口へ届く体調の相談が、まだ途切れていない。荷を分けて背負い、朝のうちに門を出た。



 沢へは、山裾の集落よりさらに下った地点から入った。まず下流から確かめて、反応の出はじめる境目を探しながら上がっていく。並びは、ギルが先頭、採るケインが続き、アリアが記録を持って、セヴランがしんがりに立った。下流の岸は開けて、水際まで羊の踏み分けた跡が残っている。


 最初の地点だけは、手順を省かずに行った。流れには触れない。水も汲まない。流れの端、水の緩んだところに溜まった泥を、木べらの先で掬う。水際の根に絡んだ土は、布ごと包んで別にする。岩の苔は岩を削らず、自然に剥がれかけた端だけを、布越しに指の腹ほど取った。泥、土、苔。それぞれ別の陶器へ収めて蓋をし、番号と地点をアリアが表へ書き付ける。使った木べらは箱の反対側へ挿し、次の地点では新しいものを使う。


 蓋をした器へ、順に右手を寄せた。押し返してくるものはない。堰かれる手応えもない。


「なし、と書きます。……なし、は、安全と読んでよいのですか」


「毒が無い、とまでは言えません。手が拒むほどのものが、この泥には残っていない。分かるのは、そこまでです」


 アリアは頷き、欄へ、なし、とだけ書いた。


 確かめが済んだ試料は、採った場所へ戻した。空けた器は、次に使う前にもう一度手を寄せて検める。ただし、一度でも拒まれた試料を容れた器は、洗うまで使わない。墨で印を付け、仕切りの端へ寄せておく。手に届かないほどのものが器の底に残っていても、それを次の泥のせいにしないためだ。持って歩くのは、器と道具と、表だけ。場所は表と地図に残るから、確かめ直す必要が出れば、また来ればいい。


 次の地点は倒れ木の陰の溜まりで、その次は羊の水飲み場の脇だった。どちらも器は静かだった。流れの水は採らない。井戸の水も流れの水も、前に汲んで確かめて、一度も拒まれなかった。それでも羊は弱っている。毒が流れる水の中にないのなら、水に運ばれて、流れの遅い場所へ置かれているのかもしれない。それを確かめに来た。


 昼を回って、山裾の集落が見える淀みまで来た。岸が浅く抉れ、流れの遅れた水が濁りを沈めている。念のため、水面の上へ手をかざした。指は静かだった。それから底の泥を木べらで取り、蓋をして、右手を寄せた。


 指先が押し返された。身構えていたほどの衝撃ではない。伸ばした指が、それより先へ進まない。ケインは一度手を離し、未使用のまま残してある陶器へ寄せた。静かだった。同じ器へ、もう一度だけ寄せる。また、拒まれた。


「間に、空の器を挟むのは」


 セヴランが手元を覗き込んだ。


「拒んでいるのが中身だと、確かめてから書くためです。器と布は朝に見ましたが、それでも挟みます」


「あり、ですね」


 アリアが筆を持ち直した。淀みの位置と、泥、の字の横へ、あり、と一字だけ書く。セヴランが淀みと集落のあいだへ目をやった。


「山裾の、あの群れの弱り方と」


「この群れの衰えと、この泥の反応をつなぐには、まだ足りません。羊がどこで何を口にしたかも、身体へどれだけ入ったかも分かっていません。いま言えるのは、この淀みに、手が拒むものが置かれている、というところまでです」


 拒まれた泥も、元の淀みへ戻した。空けた器には墨で印を付け、洗うまで使わない側へ寄せた。残るのは、表の一字だった。


 淀みを離れるとき、集落の側から水桶を提げた女が下りてきて、四人を見て足を止めた。アリアが会釈をすると、女は桶を抱え直して水際へ向かった。汲むのは淀みではなく、流れのある側だった。それでも、同じ沢だ。ケインは何も言わず、その汲み場の泥を次の地点に加えた。指には何も返らなかった。


 その日はさらに二つの地点を採って終えた。どちらにも、反応は出なかった。引き返す途中、印を付けた器を、調べ終えた下流で洗った。洗い水は、もう調べることのない流れへ下っていく。夜は山裾の納屋を借り、アリアが灯りの下で表を写しへ移した。明日の始点は、淀みの上流側と決まった。


 セヴランが、表から顔を上げた。


「一つ、伺ってもよろしいですか」


 灯りの油が減って、炎が細くなっていた。


「あなたの手は、あの泥の、何を確かめているのですか」


 責める声ではなかった。巡察の初日から持っていたはずの問いを、順番が来たから出した。そういう静かさだった。


 ケインは手のひらを開き、灯りのほうへ向けた。


「分からないことから言います。この手は、そこに何があるのかを教えません。名前も、量も、どこから来たかも。分かるのは、拒んでいる、ということだけです」


「拒む」


「治療のときは、出方が違います。傷や病の中で、悪くなっていく流れを堰き止める側に回る。あのとき、この力が守っていたのは、僕ではなく、手を当てていた相手でした。いまは、僕が泥へ手を寄せて、僕の手が拒む。同じ力だとすれば、の話ですが——探し当てる力ではないのだと思います。そのとき守ろうとしているものにとっての害を、嫌がる。名指しも、証明もしない力です」


「では、反応が無いことは」


「安全の証しにはなりません。手の届かない深さや薄さのものは、拒みようがない。だから表には、なし、としか書かせていません」


 セヴランは、しばらく黙って灯りを見ていた。


「神殿は、読めない表示を欠陥と呼びます。私はその呼び方を好みませんが、正しい呼び方も持っていません。……いまの話は、預かっておきます。信じるためではなく、間違えないために」


 言い終えると、祭司は床へ敷いた外套の上へ身体を横たえた。


 灯りを落とす前に、アリアが写しの束を革袋へ収めながら、囁くほどの声で言った。


「そういえば、今日の牧夫も、水汲みの人も、あなたを普通に見ていました」


「……ええ」


「前は、初めて会う人ほど、理由もなくあなたを避けていた。いまは、それがありませんね」


 ケインは頷いた。木箱の蓋を閉め、掛け金を下ろす。


「たぶん、向き先の問題です。昔は、この力がどこへ向くかを、僕が決めていなかった。いまは、使うときに、使う場所へ向けています。行き場が決まっているから、勝手に人へ向かわない。確かめようはありませんが、そう考えると辻褄は合います」


「ええ、そうですね」


 アリアは小さな笑みを浮かべながら、短くそう言うと、灯りを消した。暗がりの中で、納屋の梁が一度だけ鳴った。



 二日目は、沢の分かれるところから始めた。いまの流れは南寄りに広く、水量もそちらが多い。北寄りには、藪の下を細く縫う流れがあった。幅は跨げるほどしかなく、油断すると草に隠れて見失う。どちらを遡るかは、手で決めることにした。両方の岸で泥と根の土と苔を採り、蓋をして確かめる。本流側の器は、どれも静かだった。細い流れの側は、淀みの泥で指が拒まれた。


 アリアが、藪の下の細い流れへ目をやった。


「こちら、ですか」


「はい」


 細い流れに沿って上がった。手順は身体に馴染んで、地点ごとの声は減った。ある地点では泥だけが拒み、根の土は静かだった。次の場所では逆に、根に絡んだ土だけが拒んだ。苔は、どの地点でも手応えを残さなかった。その先では、別々に採った泥と根の土の両方が拒んだ。流れの水そのものは、どの地点でも指に何も返さなかった。


 拒まれなかった地点も、そのまま表へ残した。あり、が続いたあとに、なし、が挟まる。アリアは消さずに書き継いだ。


 表の書き方は、二つ増えた。両岸が切り立って水際へ下りられない場所では、無理に下りず、採れない、と書いた。一度だけ、寄せた指が拒まれたのかどうか、決めかねる器があった。もう一度だけ寄せても、決められなかった。ケインは、あり、とも、なし、とも言わず、保留、と書いてもらった。


 昼は、流れから離れた岩の上で摂った。携えた麦餅と干し肉を、採取の手とは別の、洗った左手で扱う。ギルは食べながらも藪の奥へ顔を向け、セヴランは指を組んで短く祈ってから食べ始めた。長い休みは取らなかった。


 藪は深くなったが、刈ることは許されていない。ギルが先へ入り、枝を手で押さえては後ろへ渡し、四人分の通り道を作った。戻るときのために、折れずに残った枝の何本かへ、布の切れ端を結んでいく。セヴランは祭服の裾を絡げ、文句を言わずについてきた。


 アリアの表で、あり、の字が増えていった。ケインは地図の写しへ、反応の出た地点にだけ印を置いた。濃さは書かない。数字も書かない。下の方では一つきりだった印が、細い流れを上がるにつれ、間を詰めて並び始めた。


「反応が強くなったわけではありません」


 ケインは印の続く地点を指で辿った。


「でも、反応が出る場所が、こちらへ続いています」


 アリアは表の端で手を止めた。手のひらを指先でなぞる、考え事のときの癖が出ていた。この細い流れは、下れば本流と合わさり、集落の水場の脇を過ぎていく。


「この印から、人の身体にどれだけ入ったかは分かりますか」


「分かりません。場所の反応から、個人の蓄積は判断できないので」


「……分かりました。次の地点は?」


 ケインは、安心のための言葉を探しかけて、やめた。アリアはもう、次の欄へ地点の名を書いている。ギルはそのやり取りのあいだも、藪の先と斜面の上から目を離さずにいた。



 三日目の朝、印の並びは、一つの斜面の裾へ寄っていった。夜露の残る草を分けて上がると、細い流れは山腹の下で曲がり、その内側に、草へ覆われた平らな帯が沢沿いへ延びていた。幅は荷車がやっと通るほど。ところどころ、角の残る石が縁に埋まっている。間隔は揃っていないが、置かれた向きが揃っていた。


「道ですね。人の」


 セヴランが帯の先へ目をやった。誰が、いつ、どこへ通した道か。今はまだ、何もわからない。ただ、帯の向かう先は目で追えた。草の下でゆるく曲がりながら、沢と分かれて、印の集まりつつある斜面の方へ登っている。アリアは地図の写しに、点を連ねて帯の筋を描き入れた。印の並びと、道の筋が、同じ斜面を指していた。


 四人は帯へ踏み込まず、沢沿いとの際に沿って歩いた。


 斜面の裾で、泥と、根に絡んだ土を別々に採った。どちらも拒んだ。すぐ隣で採った二つ目の泥も拒んだ。印は、もう線と呼べる並びになって、この裾で止まっている。アリアが表へ書き入れ、地形の欄に、旧い道、と添えた。


 裾に沿って次の採取点を探しかけたとき、先を歩いていたギルが腕を横へ出した。


「止まってください」


 短い声だった。三人が足を止める。ギルの視線の先、斜面の中ほどに、周りの草と色の違う茎が数本立っていた。黒褐色で、葉は疎らに縮れ、節に乾いた莢が付いている。莢の継ぎ目から、細く硬いものが黒く覗いていた。


 ケインは距離を保ったまま、目だけで確かめた。ソロの肩から抜いた、あの黒い棘と形が似ている。同じものかどうかは、ここからでは決められない。枯れているのか、まだ生きているのかも、遠目には分からない。葉は縮れているのに、茎は真っ直ぐ立っている。


「触らないでください。枝も、莢も」


「調べないのですか」


 セヴランが問いかけた。


「触らずに、見えるところまでです」


 ギルが足元の平らな石へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。石は動かせない。代わりに腰の袋から赤茶けた紐を出し、道の際の灌木へ結んだ。ここから先へは出ない、という印だった。アリアは茎を数えることをせずに、表へ、斜面に少数、と書いた。莢の数も高さも、近づかなければ測れない。書かずに空けておく。


 風は沢を下る向きに流れていた。ケインは立つ位置を風上へ半歩ずらし、三人にも同じ側を示した。莢から何かが飛ぶのかどうかは、知らない。


 それから四人は、紐の位置まで下がり、斜面の全体を眺め直した。黒い茎の立つ位置から目を上げたとき、その背後の地形が、初めて形として見えた。斜面のそこだけが、周りと違う顔をしている。



 昼をまたいで、対岸の道の端へ回った。対岸といっても、細い流れを挟んで十歩あまりの近さだ。午後の光が斜めに入り、朝には気づかなかった影が、斜面の凹凸を浮かせていた。


 斜面の一部だけが、水平に近く削られている。露出した岩肌には、幅の揃った直線の痕が斜めに走っている。口を開けていたらしい場所の左右には、同じ向きに積まれた石が残る。口だったところを塞ぐ土は砕いた石が交ざり、周りの地層とは混ざり方が違う。土の端からは、黒く朽ちた角材の先が突き出ている。塞いだ面の真ん中は浅く沈み、皿のような窪みになっている。斜面を伝う細い水が、その窪みへ流れ込んでいる。そして塞ぎの下側では、根方の土が濁った湿りを帯び、じわりと滲み出していた。


 誰も斜面へ踏み込まなかった。石にも、角材にも、土にも触れない。対岸からの見え方を、アリアが記録紙へ写し取っていく。距離は歩数で置き、絵は輪郭だけを取る。角材の位置、石の向き、窪みへ入る水の筋。一枚では足りず、二枚目に移った。


 下側の滲みは、根方の草地へ広がったところで見えなくなっていた。そこから沢まで、目で測れば二十歩ほどある。届いているのか、途中の土が受けているのか、対岸からでは分からない。ケインは地図の写しへ、その二十歩の帯を斜線で入れた。次に確かめる場所だった。


 窪みへ入る水の出どころを、ギルが目で遡った。細い筋は斜面の上の草へ潜り、その先は茂みに隠れて見えない。雨のない日が続いているのに、筋は乾いていなかった。ギルはそれだけを短く報告し、また縁の見張りに戻った。


 長い沈黙のあとで、セヴランが口を開いた。


「私は、呪いを探しに来ました」


 セヴランは積まれた石を見た。


「ですが、これを積んだのは呪いではありません。人が掘り、人が塞いだ跡です」


 誰が、いつ、何のために。問いは幾つも並んだが、ここから言えるのは、掘られたことと、塞がれたこと、その二つまでだった。礼拝所の帳面にあった、掘り仕事の頃合いへ集まる死者の欄が、ケインの頭を掠める。時期が重なるかどうかさえ、この場では確かめようがない。頷いて、視線を塞ぎの上の窪みへ戻した。


「気になっているのは、あの水です」


「口を、固め直すべきだと?」


「いいえ、逆です。上の窪みから、いまも水が入り続けています。見えている口だけを固めても、入った水は中に溜まり、いずれ別の場所を抜けます。膿んだ傷を、洗わずに縫うのと同じことになります」


 セヴランが窪みを見た。細い水は、光の下でも途切れなかった。


「では、何が要りますか」


「手を入れる前に、知ることです。水がどこから入り、中の何に触れて、どちらへ抜けているのか。あの塞ぎの周りで、どの範囲の泥と根が拒むのか。条件を揃えて、確かめてからです」


 アリアは記録紙の新しい一枚へ、掘られた口、窪み、滲み、と見出しを立てた。ギルだけが、まだ斜面の上の縁から目を離していない。


 引き上げる前に、道具を数え直した。器はどれも空で、試料は一つも積んでいない。来た道の枝には、布の切れ端が結んだままになっている。明日もこの道を使う。ギルが先に立ち、四人は沢沿いを下り始めた。


 日が傾き始めても、水音は変わらなかった。


 埋め戻された土の上へ、細い水が音もなく吸い込まれていた。

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