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第29話 黒い跡のない群れ

 山裾へは、朝のうちに発った。ケインとアリア、巡察祭司のセヴラン、護衛のギル。マルタは領館に残った。治癒を受けたイレーネの経過と、窓口へ届き続けている人の体調の相談を、順に診てもらうためだ。


「礼拝所の記録は神殿の預かりものです。閲覧を頼むのなら、私が同道するのが早いでしょう」


 セヴランは前の晩にそう言って、自分から支度を決めていた。ギルは口数のないまま、道の先と脇へ交互に目を配っている。


 道は登るにつれて痩せた。轍が浅くなり、石を除けた跡が古くなる。沢の水音は道の脇から絶えず届くのに、水を汲みに出ている人影は疎らだった。集落へ近づくと、戸を閉ざした家が目についた。庭に草が伸び、畜舎の入り口には板が打ちつけてある。柵は立っているが、折れた横木へ差し込まれた枝が、そのまま枯れていた。住む家と空いた家が交互に並ぶのではなく、道の奥へ行くほど空きが増えていく。戸口の帳面で数えた減り方が、道の両側へ実物になって並んでいる。


 山裾牧場の牧夫は、髭に白いものの交ざった男だった。領主家の娘の顔を見ると囲いへ案内したが、その前に一つ、確かめる言い方をした。


「触れ書きは読んだ。うちには、あの草は来ちゃいない。取りに下りる荷車も、人手もなかったからな」


「配給の帳簿でも、そうなっていました。その上で、群れを見せていただきたいんです」


 囲いの中には四十頭ほどがいた。ケインはまず柵の外から、群れ全体を眺めた。同じ年頃のはずの若い羊で、体格の差が大きい。痩せた個体が数頭いるが、飼い葉へ寄る足は悪くなく、食欲もあるようだ。毛は艶が鈍く、揃いが悪い。群れの大きさに対して、仔羊が明らかに少ない。


「今年の仔は、何頭付きましたか」


「生まれたのが十一。残ってるのは六だ。去年もそんなものだった。その前もな」


 急に立てなくなった羊は。黒いものを吐いた羊は。夜に暴れた羊は。尋ねる言葉のどれにも、牧夫は首を振った。


 断ってから柵の内へ入り、痩せた数頭へ順に手を当てた。あばらの触れ方、あごの下、脚の付け根、持ち上げた毛の根元。歯を見せてもらうと、年寄りの羊ではない。若い歯のまま、身体だけが年寄りのように削れている。外れ牧場の羊たちに出ていた、境の滲んだ黒い跡は、どの皮膚にもない。そして右手は、どの背中の上でも静かなままだった。押し返してくるものも、堰き止める手応えもない。


 反応がないことを、安全の証しには使えない。手が届かない深さや薄さで、何かが進んでいる可能性は消せない。それでも、外れ牧場では跡へ触れるたびに返ってきたあの拒みを、ここでは一度も感じない。その違いは、書き留めておく値打ちがある。


 牧場のあとは、家ごとに飼われている小さな群れも見せてもらった。数頭の家もあれば、十頭を超える家もある。囲いごとに頭数は違っても、見えるものは重なった。痩せて、仔が育たず、それでも急には倒れない群れ。見せてもらえた範囲では、黒い跡は一頭にも出ていない。


「で、どうなんだ。うちのは、何なんだ」


 最後の囲いで、牧夫が訊いた。


「配られた草にやられた群れには、黒い跡が出ていました。ここには一頭も出ていません。それに、この群れはあの草を食べていません。同じ弱り方でも、入ってきた道が違います。それを探しに来ました」


「そうか」


 牧夫は柵へ手を置き、群れを眺めた。


「弱ってるのは、今に始まったことじゃない。俺が若い頃より、群れはずっと小さい。銭になる羊から売っていくんだ。そうやって、ここまで来た」


 囲いを離れ、集落の道へ戻ってから、ケインはアリアとセヴランへ言った。


「黒い跡は出ていません。右手も、一度も反応しませんでした」


 セヴランが頷いた。アリアは、持ってきた戸口の帳面の写しを開いた。午後は、人の話を聞く番だった。



 聞き取りは、その日の午後から始めた。宿は牧夫の家の納屋を借り、炉のある母屋で夕餉だけ分けてもらうことにした。アリアが宿代を先に渡そうとすると、牧夫は受け取りを渋り、受け取ってから黙って塩壺の奥へしまった。


 集会所に人を集めることはしなかった。一軒ずつ回り、話す相手ごとに場を分ける。前の者の話が、次の者の記憶を染めないためだ。同席はアリアと、戸口に立つギルだけにし、セヴランは礼拝所側の支度に回った。戸口を叩くのはアリアの役目だった。領主家の娘が名乗ると、閉じかけた戸も、もう一度開いた。


 ケインは、何を探しているのかを先に言わなかった。尋ねる順は決めてある。山で人が働いていた頃、集落で何が変わったか。それは自分の目で見たことか、人から聞いたことか。誰のことだったか。時期は、掘り仕事の始まり、冬越し、出産など、暮らしの節目で確かめる。その後どうなったかは、分かる範囲だけでいい。


 当時子どもだった男は、作業の者がひとり、高い熱を出して寝込んだのを覚えていた。水を運ばされたから、それは自分の目で見たという。夜中に家族へ掴みかかった者がいた、という話は別の家で出た。話した女は親から聞いただけで、熱を出した者と同じ人かは知らないと言った。年寄りの牧夫は、何かを怖がりながら山へ戻ろうとした者の噂を覚えていたが、見たのかと訊くと首を振った。


「転がり落ちて死んだのがいた。それは葬式を覚えてる」


 転落の話は、複数の家で出た。落ちる前に様子がおかしかったかどうかは、家ごとに言うことが違った。足を滑らせただけだと言う家があり、夜の山へ独りで向かったのだからまともではなかったと言う家があった。どちらも、見た者から聞いた話ではなかった。


 話の途中で口が重くなる相手には、無理に続けさせなかった。昔のことだ、と打ち切る年寄りには礼を言って辞した。覚えていないことを覚えていないと言ってもらうのも、聞き取りの内だった。


 アリアは、黒い棘のことも黒い跡のことも口にしなかった。誘いになる問いを足さず、相手が言い終わるのを待つ。記録紙には、聞いた事実の横へ、本人が見た、家族から聞いた、集落の噂、という区分を付けていった。


 翌日の朝までかけて、回れる家を回った。並べてみると、山で働いた者、という共通項はある。だが、人数が揃わない。順序も、同じ人の話かどうかも揃わない。一つの出来事へ綴じようとすれば、どこかで誰かの言葉を曲げることになる。


「まとめないまま、置きます」


 ケインは区分の付いた記録紙を革袋へ収めた。



 昼を過ぎて、礼拝所へ行った。石積みに漆喰を重ねた小さな建物で、堂の奥に古い祭具が並んでいる。番をしている老人は、セヴランの祭服を確かめると深く頭を下げた。


 セヴランは巡察祭司として、正式に閲覧を求めた。老人が奥の櫃から出してきたのは、薄い帳面が三冊。診療の記録ではない。誰を、いつ、どのような名目で弔ったか。それだけを書き継いだ簡素な帳面だ。書いた手は代替わりしていて、筆跡が途中で二度変わっている。


「わしが書いたのは、いちばん新しいのだけです。古いのは、前の番の人が。その前は、知りません」


 老人は帳面を卓へ置くと、それ以上は語らなかった。当時のことを訊かれても、番を継いだのは後のことだからと首を振る。分かるのは、帳面に書いてあることだけ。老人はそれを繰り返した。


 頁は年の順に繰れた。掘り仕事の頃合いへ差しかかると、筆の密度が変わった。作業の者の死亡が、短いあいだに数名分、続けて書かれている。死因の欄は揃っていない。熱病。転落。作業中の事故。説明が短すぎて、何の事故か分からないものもある。


 ケインは、口伝を写した記録紙を帳面の横へ広げた。線は引かない。


「重なるのは、時期と、山で働いていたことまでです」


 セヴランは帳面から目を上げずに応じた。


「それ以上を結ぶなら、根拠が要ります。なければ、誰とも知れない乱心を、名のある死者へ着せることになります。死んだ者は、言い返せません」


 確かめ方の違う二人が、その一点では同意していた。


 書き出せることは書き出した。山で働いていた者の死亡が、掘り仕事の頃合いに集まっている。熱病と転落という欄の字は、口伝の一部と重なっていた。


 分からないことのほうが多かった。口伝の高熱や、家族へ掴みかかった振る舞いが、帳面のどの死者のものか。転落は、おかしくなった末のことか、足場のせいか。複数の話が、同じ一人を指しているのか。黒い棘や跡のような、獣で見たしるしのことは、どの欄にも書かれていない。そもそも人に同じものが出るのかどうかも、分からないままだ。死因の書き方が粗いのは、当時の筆がそうだったのか、書けない事情があったのか。それも帳面からは選べない。


 写しは、その場で取った。アリアが読み、ケインが写す。帳簿のときと同じ分担が、ここでも自然に決まった。読めない箇所は空けて、空けたと分かる印を付ける。掘り仕事の頃合いの前後は、年ごとの死者の数も添えて写した。集まりが、その数年だけのものかどうかを後で見比べるためだ。


 セヴランは写し終わりを確かめてから、帳面はこのまま礼拝所で守ってほしいと老人へ頼んだ。監査だ保全だという言葉が飛び交う領館の帳簿とは別に、この帳面は今までどおりこの櫃にある。そのことを、老人の前で言い切った。それから堂を出て、山を見上げた。


「呪いと呼ぶべきかは、なんとも言えませんが、熱と事故の集まった山です。備えも手順もなしに人が入ることには、私は反対します」


「僕もそう思います」



 三日目の昼過ぎ、四人は領館へ戻った。


 戻る道の途中、ケインは石積みの職人の家へ寄った。沢沿いの護岸を積んできた男で、水際の道と地形なら領の誰より知っている。山裾の調べを続けるなら、いずれ案内を頼むことになる。そう切り出す前に、職人は首を振った。


「監察官様に呼ばれてな。誰に頼まれて山へ入ったことがあるか、手間賃の約束はあるか、道具はそろえたか。ひとつずつ訊かれて、帳面に書き留められた。……悪いが、しばらくは名を出したくない」


 罪に問われたわけではないという。ただ、これから山の調べに関われば、あの帳面に名が残る。職人はそう受け取っていた。無理強いはできない。それ以上頼まず、礼を言うと、職人は戸を閉める前に、石の積み方なら教えることはできる、と目を伏せたまま言った。名前を出さずに済む形なら、という意味だった。


 領館へ入ると、廊下で領務の男に呼び止められた。ケインたちの留守のあいだに、呼ばれたのは石積みの男だけではないという。荷運びの者、山道に詳しい猟師あがり、井戸掘りの経験者。山に関わる腕を持つ者が、一人ずつ順に監察官の部屋へ通されていた。


 執務室には、その帳面の主がいた。オスヴァルトは挟み板から文書を一枚外し、ゲルハルトの机へ端を揃えて置いた。


「山地への立入りについて、一時の停止を求める文書案です。対象は、新たな調査員を山へ入れること、職人の動員、掘る・採る・地形を変える作業、領費を使う資材の搬入。理由は四つ。原因の分からない過去の死亡。現在の異変。事故が起きた場合の責任の所在。査定の途中に新たな支出を起こさないこと」


 声は低いまま、条目は整っていた。


 セヴランが口を開いた。


「安全の定まらない場所へ、備えなく人を入れるべきではない。私もそう考えます。ですが、この文書に神殿の名は入れません」


「妙ですな。祭司様のご懸念と、同じ趣旨と存じますが」


「山には、掘りも採りもせず、人手も領費も使わない確かめ方が残っています。この条目の書き方では、それまで一括りに止まります。私が反対しているのは、備えのない立入りだけです」


 オスヴァルトは眉を動かさず、机の上の文書の端を指で揃え直した。


 ゲルハルトは文面を二度読み、机へ置いた。


「預かる。返事は明日出す」


「明日、ですか」


「即答するには、条目が広い。狭めようもある」


 オスヴァルトは一礼して下がった。


 扉が閉まってから、ゲルハルトは文書案をもう一度手に取り、ケインへ顔を向けた。


「山裾の首尾を聞こう。食事のあとでいい」


「はい。……ひとつだけ先に。山で腕を貸してくれるはずだった人たちが、名を出すのをためらい始めています」


「知っている。呼ばれた者の名は、こちらにも届いている」


 ゲルハルトは文書案を机の引き出しへ収めた。しまい方は静かで、その手つきが、扱いを決めかねているのを表しているようだった。



 夜の記録室の卓に、山裾から持ち帰った紙を並べた。群れの所見。区分を付けた聞き取り。葬送の帳面の写し。


 並べ終えると、持ち帰ったものの形が見えた。山裾の群れには長い衰えがある。だが、黒い跡は出ず、右手も動かなかった。十数年前の人の死亡は、時期が掘り仕事と重なる。それより先は、帳面の欄が粗くて読めない。


「決め手になったものは、ひとつもありませんでした」


 アリアが写しの束を揃えながら言った。


「はい。ただ、外れたものはあります。あの群れの弱り方は、配られた草では説明できません。別の入り口を探すことになります」


「水、でしょうか。羊の飲み水は、前に調べて、何も出ませんでしたが」


「井戸の水も、流れの水も、雨水も、汲んで並べて確かめました。指に返るものはありませんでした。一つだけ、別だったのが、外れ牧場の澱んだ沢筋の水です。あれは羊の飲まない水でしたから、あのときの答えは『毒は飲み水にない』でした。その答えは、いまも変わっていません」


 帳簿から立てた仮説に、群れの見え方が合ってきている。配られた草は濃く、週や月の単位で羊を倒した。山裾のものは、もっと薄く、もっと長い。同じ形で出ないのは、むしろ筋が通る。


「原因が同じで、入り方だけが違うのか。原因から別なのか。どちらにしても、西の刈り場と同じ形では出ていない。そこまでは、今回の調べで確かになりました」


 ケインは記録紙の端へ、沢の流れを線で描いた。水際。曲がり。淀み。


「調べ直すなら、流れる水ではなく、あの澱みのような場所に残るもののほうです。流れの遅いところの泥。水際の根に絡んだ土。岩や倒れ木の苔。淀みの底に溜まった細かいもの。水が運んできて、置いていったものです」


「置いていかれたものなら、溜まっている……」


「僕は、そこを疑っています。年をかけて溜まる毒なら、流れの中ではなく、置いていかれたものの側に残っているはずです。明日、沢を下から遡って、右手で確かめます」


 段取りはその場で決めた。沢の下流から山裾へ向けて、採る地点を順に置く。木べらと布と蓋付きの陶器を使い、素手では触れない。離れの棚にある黒い砂は、持ち出さない。


 アリアが地点の並びを写し取り、明日の人手を数え始めた。ケインは、山裾の束のいちばん上にあった仮説の紙を出し、空けたままの経路の欄の下へ、泥、根、苔、淀み、と書き足した。


 欄そのものは、まだ埋めなかった。

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