↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
28/44

第28話 二年前より前

 公表から一夜明けた領館の事務室は、扉が開くたびに紙が増えた。


 残っている干し草の量と置き場所。食欲の落ちた羊。立てなくなった仔。乳と内臓を止められた牧場からの、暮らし向きの問い。人にも障りが出るのかという相談。急ぎの症例と、確認だけでよい届け出が、同じ束の中に重なっている。


 ケインは窓口から回された束を机に置き、一枚ずつ開いては日付と牧場の名を確かめた。読み終える分より、届く分のほうが早い。家畜の相談の下から人の体調を問う紙が出てきて、それも手元へ置きかけたとき、横から伸びた指が紙の端を押さえた。


「その紙は、あなたの束ではありません」


 アリアだった。返事を待たずに束を引き寄せ、立ったまま手早く分けていく。


「人の体調と治癒に関わる相談は、マルタさんにお願いします。呪いではないかと尋ねるものは、セヴラン様に。家畜の急な変化はケインへ。残量の届け出と回収の段取りは、これまでどおり領務の窓口で受けます」


「人の相談でも、家畜と同じ原因が疑わしいものは……」


「そのときは、マルタさんから回してもらいます。最初の一枚から全部をあなたが読む必要はありません」


 呼ばれて事務室へ来たマルタは、分けられた束の厚みを一瞥してから受け取った。


「人の身体のことなら引き受けます。ただ、紙の上だけで答えは出しません。診る必要のある人には、順に会います」


「それで構いません。回る先と順は、こちらで整えます」


 セヴランは、呪いを問う紙を三枚ほどめくって頷いた。


「神殿の見解を求められているのなら、職務の内です。確かめていないことを、確かめたとは書きませんが」


「それで十分です」


 束が四つに分かれても、ケインの前にはまだ紙が残った。その中に、山裾集落からの返事があった。昨日の通達を山裾へ運んだ伝令が、集落の返事を預かって戻っていた。


 救済の干し草は受け取っていない。回収の対象になる草もない。整った文はそこで終わり、別の筆が続けていた。群れの衰えは今年も続いている。生まれる仔が少なく、育つ前に失う。売れる羊も、年ごとに減っている、と。


 ケインは紙を置いた。配給の帳簿で、山裾の欄は空だった。配られていない場所で、群れが衰え続けている。


 配給が始まったのは、およそ二年前。範囲を広げたのが翌年。干し草が悪くしたものと、その前から進んでいたもの。この二つは、二年前を境に分けなければ見えない。


「二年前より前の記録が要ります。配給で説明できる分と、できない分を、そこで分けたいです」


「家畜の記録だけで足りますか」


「いいえ。人の数も、治癒師への支払いも。衰えているのが家畜だけなのか、まだ分かっていません」


 アリアは分け終えた束を窓口の役人へ渡し、空いた机を見た。


「男爵家の帳簿を出します。家畜も、税も、修繕も。記録室へ運ばせますから、年の順に並べましょう」



 記録室の窓は東向きで、昼を過ぎると差す光は薄くなる。卓の上へ、革の表紙が擦り切れた帳面が積まれていった。家畜の頭数の控え。売り買いの帳。屠畜と皮の記録。いずれも記録庫から運ばれたものだ。


 運んできた領務を扱う男が、いちばん上の帳面を開いた。


「頭数は年に一度、春に改めます。生まれた仔と、死んだ数、売った数は、届けが出るたびに。ただ、書き方は年で違います。前の書き役は仔の生き死にまで分けていましたが、その前の代は、数しか残していません」


「分かる範囲で構いません。年の順に見られれば」


 男が下がると、アリアは帳面を古い年から順に並べ直した。ケインは新しい記録紙を広げ、左端に年を振った。生まれた仔。育たなかった仔。死んだ数。売られた数。牧場ごとの頭数。拾う項目を決めて、一冊ずつ写していく。


 分担は自然に決まった。癖の強い古い字はアリアが読んで声にし、ケインが記録紙へ写す。読めない箇所は無理に埋めず、後で領務の男に確かめる印だけを付けた。


 筆が止まる欄もあった。空のままの年。前の年と同じ数を写しただけに見える頁。仔の欄に「多い」としか書かれていない年もある。税と売り買いのために付けられた帳面だ。群れの病を追う書き方にはなっていない。それでも、年を追って並べると、どの欄も同じ方へ動いているのが見えてきた。


 二年前。救済の干し草が配られ始めた年の欄で、死んだ数と手放された数がはっきり増える。それは調べて分かっていたことだ。ケインはその年の左端へ短い横線を引き、そこから上へ遡った。


 三年前。生まれた仔が、前の年より減っている。四年前。秋の数えで、春に生まれた仔の幾らかがすでに消えている。五年前。売りの欄では、肉用に交ざって売られる若い雌が、もう珍しくなくなっている。頭数の記載が途中で終わり、翌年から帳面ごと名前の消えた牧場もあった。


「親になる羊を売るのは、その年を越すためです。次の年の仔を、先に諦めて」


 アリアが言った。牧場を回ってきた者の言い方だった。


「はい。病の帳面がなくても、群れが削られていく順番は売りの帳に残ります」


 さらに遡ると、書き方は粗くなった。仔の欄が空の年が続き、確かな数は拾えない。それでも、増えていた年を探す方が難しかった。


 数字が一度に崩れた年は、探しても出てこなかった。拾える年は、どれも前の年より悪い。悪くなり方は小さいまま、それが何年も続いていた。


 写し終えた記録紙を、ケインは上から下まで見直した。牧場も年も別々の数字のはずが、続けて読むと、一頭の獣の経過を追っているのと変わらない。食べる量が落ち、仔が減り、身体が痩せていく。この領全体が、何年もかけて弱ってきた一人の患者だった。


 ケインは筆を戻し、二年前の横線の上へ、斜めの線を重ねて消した。


「ここが始まりではありません」


 アリアの手が、開いたままの頭数の控えの上で止まった。


「干し草は、悪くした。けれど、原因ではない……」


「その可能性は、あります。配給が始まる前から、生まれる仔が減って、育つ前に失われて、親になるはずの羊が売られています。干し草を止めても、この流れの説明は付きません」


 アリアは帳面から目を上げなかった。


「続けてください」



 戸口の記録は、家畜の帳面ほど厚くなかった。集落ごとの戸数と、住む人の数。生まれた子と死んだ者、移ってきた家と出ていった家が、年に一度まとめて書かれている。並べ方は同じだった。アリアが読み、ケインが写す。


 人の減り方は、家畜とも違う形をしていた。生まれる子が少なくなる。働き盛りの者が出稼ぎへ出て、戻った記載がない。家族ごと領の外へ移った戸がある。残った家の欄には、年寄りの名前だけが並ぶ。


 読み上げるアリアの声が、ときどき止まった。知っている名前が出てくるのだという。仔羊を見せてもらった家。囲いの修繕を相談された家。声はすぐに戻ったが、束をめくる手は、家畜の帳面のときより丁寧になっていた。


「疫病なら、死んだ者の欄が膨らみます。これは違う。……人は、死ぬ前に離れています」


「だから、誰も病だとは思わなかったんですね。空き家が増えただけだと」


 夕刻、領務の男が納入帳と支出の綴りを運んできた。灯りを足して、二人は続けた。


 治癒師と薬への支出は、配給が始まるより前から増えていた。領外から呼んだ治癒師への支払いは確かに大きい。だが、それだけではない。集落の病人や弱った家への救済も、年を追って増えている。家畜と産品の納入は、同じ年月をかけて減っていた。入るものが減り、出るものが増える。領の身代は、帳簿の上でも細っていた。


 借財の綴りも重ねた。借りる額は年ごとに増え、返す欄は短くなっていく。大きな穴が一度に空いた年はなく、細い借りが、埋まらないまま積み重なっていた。


 灯りを替える頃、ケインは一度だけ筆を置き、目頭を押さえた。筆はすぐに戻り、その夜のうちに支出の綴りを最後まで写した。


 明くる日は、朝から災害の綴りを開いた。薄い綴りの中で、五年前の大水の頁だけが厚い。崩れた道、あふれた沢、埋まった水路。修繕にかかった費用と人手が、頁の端まで書き込まれている。ケインはその年を、家畜の記録紙と突き合わせた。大水のあとに悪くなった土地は、確かにある。だが、写し取った数字は、大水より前から悪くなり始めていた。大水も始まりではない。進んでいたものを、一段押した出来事だ。


 昼を過ぎて、アリアが記録紙を集落ごとに分け直した。五つの集落の名前で束を作り、年を横に揃える。


 同じ速さでは、衰えていなかった。減り方には順があり、山裾がいちばん早く、いちばん古い。家畜が減り、戸数が減り、離れた家の記載が続く。治療や葬送に関わる支出も、他の集落より古い年から繰り返し現れていた。


「山裾は、配給を受けていません」


 アリアが、いちばん薄い束を手に取った。


「それなのに、いちばん長く衰えています」


「土地の条件も、西の刈り場とは違います。それでも続いているなら、干し草とは別の毒が入っていることになります。一晩で効く強さはなくて、年をかけて溜まる量の毒が、どこかから」


 ケインは自分の記録紙の端に、仮説を書いた。配られた干し草とは別に、毒の経路がある。水か、草か、土か、家畜か、人の暮らしのどこかを通って、年をかけて溜まる量だけ入り続けている。


 経路の欄は、空けたままにした。



 帳簿を写し始めて三日目の朝、二人は仕上げにかかった。家畜の増減。戸口の移り。治癒師と薬への支払い。大水と修繕の年。山裾の早い衰え。配給より前から続く悪化。項目ごとに紙を分け、年を揃えて綴り直していく。


 仕上げの前の突き合わせには、卓の広さが要った。家畜の帳面と戸口の記録を並べて開き、同じ年を左右に置いて確かめる。写し違いが一つ見つかるたび、開く帳面は二冊、三冊と増えた。朝のうち、卓の上に空いた場所はほとんど残っていなかった。


 昼前に、記録室の扉が叩かれた。オスヴァルトだった。卓の帳面を端から目で数え、それから挟み板の文書を外して、卓の空いた隅へ端を揃えて置いた。


「監査対象の追補です。先日の提出要求にあった買い上げと配給の記録に、家畜、戸口、納入、支出、災害の綴りを加えます。本日夕刻までに、監査室へお納めください」


 アリアが顔を上げた。


「調べている途中です。期限を延ばせませんか」


「監査の対象となった帳簿は、状態の保全が要ります。頁の抜けや書き足しがあってからでは、監査になりません。……お調べを止めるものではありませんよ。閲覧は、申請をいただければ立会いのもとで認めます。転記も同じです。持ち出しだけは、認められません」


「申請は、どなたに」


「私に。諾否は、翌日までにお返しします」


「調べは日をまたぎます。一冊開くたびに一日待っていては……」


「監査が済めば、すべてお返しします。それまでの手順です」


 声は低いままで、理屈は通っていた。監査を受けると決めた以上、保全の求めを退ける根拠は、こちらにない。


 知らせを受けたゲルハルトが記録室へ来た。一覧に目を通し、最初にケインへ訊いた。


「必要なものは、写し終えたか」


「はい。今朝までに」


「なら、出そう。隠すものはない」


 ゲルハルトは一覧を卓へ戻し、オスヴァルトへ顔を向けた。


「監査は受ける。ただし、閲覧の申請は当日のうちに扱ってもらう」


「……諾否は翌朝までに。それより早くは、お約束しかねます」


 オスヴァルトは引かなかった。それでも、翌朝という言葉は、自分の手で目録の裏に書き留めた。


 ゲルハルトは領務の男を呼び、運ぶ順を決めさせた。


 夕刻、帳面は一冊ずつ監査室へ運ばれた。記録室で開いていたものは卓から、残りは記録庫から。男たちが綴りを抱えて廊下を往復し、仮置きに使っていた記録室の棚も端から順に空いていった。廊下の先の小部屋が監査室にあてられ、棚と鍵が整えられている。オスヴァルトは戸口に立ち、通っていく綴りを目録と突き合わせた。数が合うたび、目録の端へ印を入れる。


 最後に、オスヴァルトは卓に残った写しへ目を向けた。


「そちらは、お手元の写しですね。枚数を伺っても」


「四十二枚です」


 アリアは束を数え直さずに答えた。オスヴァルトは目録の裏へその数を書き留め、一礼して、監査室の鍵を閉めた。


 記録室の卓は、朝より広くなっていた。帳面は壁一枚向こうにある。ただ、次に開くときは、申請と、監察官側の立会いが要る。


 アリアは写しの束を引き寄せ、項目の頭へ番号を振り直し始めた。


「写しで進められるところまで、進めましょう」



 夜の記録室で、二人は写しの束を並べ直した。帳面は壁の向こうへ移ったが、写しは手元にある。確かめ直しても、言うことは変わらなかった。悪くなり始めたのは配給の二年前より前で、山裾がいちばん早い。


 その山裾の束に、ケインは引っかかりを一つ残していた。十数年前、治療と葬送に関わる支出が、数年のあいだ続けて膨らんでいる。写しの中では、それがいちばん古い。同じ頃の災害の綴りに、大水も、崩れも、火事もない。支出は続いているのに、災害の綴りに見合う出来事がない。


「……隠したのでしょうか」


 アリアの声は平らだった。自分の家の帳簿の話をしている。


「その決めつけは、まだできません。この綴りは金銭の出入りしか書きません。人がどう死んだかを書く欄が、そもそもない。それに、領の関わらない仕事なら、出来事ごと載らないでしょう」


「領のあずかり知らない何かが、山裾で起きていた」


「可能性の一つです。載っていない理由は、まだ選べません」


 祠や礼拝所には、帳簿に載らない控えが残ることがある。葬送の取りなしの記録なら、古いものが束で眠っている村もある——昨日の夕、記録室に立ち寄ったセヴランが、そう言っていた。聞いたアリアは、その足で山裾へ使いを出していた。礼拝所に古い記録は残っているか。あるなら、いつ頃のものか。


 遅い時刻に、廊下で足音がした。山裾へ発っていた使いが、夜道を急いで戻ってきたのだ。埃の付いた上着のまま、預かってきた返事を差し出す。


 アリアが封を切り、灯りへ寄せた。


 礼拝所に、古い葬送の控えが残っている。集落の年寄りたちが言うには、山で掘り仕事があった頃のものが、ひとまとまり。控えの番は礼拝所を守る老人がしていて、鍵もその人が持っている。


「山で、掘り仕事……?」


 アリアが紙から顔を上げた。


「聞いたことは?」


「いいえ。父からも、帳簿でも」


 ケインは山裾の束をもう一度めくった。支出だけが続いて、見合う出来事の見つからないあの数年に、口伝の言う頃合いが重なる。誰が葬られ、どんな死に方だったのか。掘り仕事と関わりがあるのか。返事には、そこまで書かれていない。


「明日の朝、山裾へ発ちます。控えを見せてもらえるよう、頼んでみます」


「わたしも行きます。祠の鍵は、領主家の者が頼むほうが早く開くでしょうから」


 アリアは返事の紙を、山裾の束のいちばん前へ綴じた。ケインは写しから山裾の分だけを革袋へ移し、経路の欄を空けたままの仮説の紙を、そのいちばん上に載せた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。