第27話 幕間:重なる条件
昼の取引所は、朝の荷出しが一段落して、帳場の奥まで声が通る時刻だった。レオン・グレアムは奥の小部屋で、次の季節の取引をまとめた書き付けを検めていた。羊毛の予約、革の在庫、飼料の値。騎士の家が預かる町の、剣を使わない側の仕事だ。
最初に通されたのは、町で飼料を商う男だった。
「東の男爵領から、干し草を探しに来た荷車がありました。うちだけでなく、街道沿いを二、三軒回ったようです」
「求めていた物は」
「干し草と、麦藁も少し。今年の分と、できれば冬の分も、と言っていました」
「量は」
「荷車で十は欲しいと。即金でした」
「一度きりの買い付けか、続くのか」
「分かりません。ただ、領で配られた干し草が回収になったそうで。代わりを領の外で探せと言われている、と」
回収。レオンは筆を止めた。売り損ねとは訳が違う。配った物を引き揚げるには、理由と、人手と、それを命じる者が要る。
「誰の指図だ」
「男爵様だそうです。お触れが出た、と聞きました」
男はそこで少し声を落とした。
「それと、レオン様。妙な話もひとつ。その干し草の調べに、流れ者の若いのが関わっていたそうです。牛や羊を診る少年だと。十五かそこらで、春に西から来たとか。家名は……名乗っていないようだ、と。名前までは、荷車の連中も覚えていませんでした」
「その連中は、少年を自分の目で見たのか」
「どうでしょう。牧場で世話になったとは言っていましたが、そこまでは確かめませんでした」
「いつの話だ」
「三日前です。うちの荷置き場で聞きました」
レオンは短く頷き、書き付けへ目を戻した。
「干し草の値と、向こうが欲しがっている量を控えておけ。売るかどうかは別に決める」
飼料商と入れ替わりに、乳製品の買い付けから戻った商人が顔を出した。荷を持たずに戻っている。
「ヴァンデンガルフ領の買い付けは、当面止めるべきかと思いまして。ご判断を伺いに参りました」
「何があった」
「乳とチーズ、内臓が、売り買いを止められています。私が着いた日に、ちょうどお触れが出たところでした」
「触れの中身は」
「救済の干し草とやらの配給を、正式に止める。配った分も回収する。その草を食べた家畜の乳と内臓は、確認が済むまで動かさない。……男爵様が、領館の前庭で自ら読み上げたそうです」
「止められているのは、その草を食べた家畜の分だけか。全部か」
「対象の家畜の分だけです。全部ではありません」
「公表の前から広まっていた話か、公表で知ったのか」
「公表で、です。私が聞いたのは、触れの翌日でした」
「配給を決めた責めを、男爵は誰かへ向けたか」
「いいえ。配ると決めたのは自分だ、と。それも触れの中で仰ったそうです」
商人は、思い出したように付け加えた。
「その調べには、若い流れ者が関わったと聞きました。あちこちの牧で家畜を診て回っているとか。詳しくは知りませんが、町でも宿でも、皆その話をしていました。素手で毒を消しただの、夫人を一晩で治しただのと、尾鰭の付いた話まで」
「その者の歳や、どこから来たかは」
「さあ。そこまでは」
レオンは、先の飼料商から聞いた条件を口にしなかった。二つの話は、混ぜずに置いておく。
「乳と乳製品は、次の便まで買い付けを見合わせろ。羊毛と革は、家畜の状態と、いつ刈って、いつ鞣した物かを確かめてから決める。全部を止める理由は、今のところない」
「承知しました」
「それと、干し草だ。東からの買い手はまた来る。値と量の動きだけ、先に集めておけ」
商人が下がると、レオンは羊毛の書き付けを開き直した。東で家畜の病が本当に終わるなら、来年は向こうの羊毛が市へ戻ってくる。値が動き、買い手が割れる。書き入れた予約の数字を、いくつか置き直す必要があった。
筆を執る前に、二人の話をもう一度、順に思い返した。どこが重なり、どこが重ならないのか。それは帳場ではなく、屋敷で紙に書き出して確かめる仕事だった。
屋敷へ戻ったのは、日が傾き始める前だった。レオンは自室の机へ紙を二枚並べ、聞いたままを別々に書き起こした。左に飼料商、右に買い付け商。交易の判断に使う、内々の控えだ。誰の身元を証すものでもない。
書き終えると、二枚を見比べて、両方に出てくる内容の頭へ点を打っていった。東のヴァンデンガルフ男爵領。家畜の異変。救済の干し草の中止と回収。男爵本人による公表。調べに関わった若い流れ者。その者が家畜を診ること。点は六つになった。
片方にしかないものは、余白へ書き移した。十五前後。春に来た。西から来たらしい。家名を名乗っていない。いずれも飼料商の側だけにある。荷車の者たちから直接出た話だが、裏を取れる相手が今はいない。
素手で毒を消した。夫人を一晩で治した。そちらの類いには、上から線を引いた。誰が見たのかを誰も言えない話は、街道の宿で膨らんだと見るのが妥当だ。値付けと同じで、出所の言えない数字は使えない。
日付も突き合わせた。買い付け商が触れを聞いたのは公表の翌日、荷車の者たちが飼料商と話したのは三日前。町へ戻るまでの日数を差し引いても、時期は食い違わない。話を仕入れた場所も、片方は男爵領の中、片方はこの町の荷置き場で、互いに離れている。一つの宿で同じ与太話を聞いてきたのとは違う。
筆を置いて、レオンは前回の噂を思い返した。門の当番だったダリオが、東から来た行商人に聞いた話だ。若い流れ者。家名がない、または名乗らない。東の男爵領。草に触れて、毒のある場所を見分けた。あのときは、そこまでだった。
今回は増えている。十五前後。春に、西から東へ。家畜を続けて診ている。そして、その調べを受けて、男爵が自分の失策を公表した。
同じ人間だと決まったわけではない。だが、別人として退ける材料も、減っていた。
レオンは余白の条件の下へ、聞いた日付と相手の名を書き足した。少年の名は、どこにも書いていない。届いていない名は書けず、この控えに、それを書く欄もない。
二枚を重ね、レオンは立ち上がった。夕刻の領務の確認までに、父へ上げる分と、帳場へ戻す分を選り分けておく。
執務室の窓には、まだ西日が残っていた。机の向こうで、父は上がってきた書き付けを順に検めている。倉の修繕の見積もり、次の当番割り。決まった順で紙が動き、決まった長さで問いが返る、いつもの夕刻前だった。市場の見回りから戻ったダリオが、報告を終えて机の脇に立ったままでいた。
レオンの番だった。羊毛の予約、革の在庫、飼料の値動き。いつもの順で述べてから、二枚の控えを机へ置いた。二つの筋で重なった事実と、片方からしか出ていない条件を、分けて書き直したものだ。
「東の男爵領の件です。交易に関わるので、まとめてあります」
「聞こう」
レオンは事実から並べた。
「救済の干し草の配給が、正式に中止されました。配布済みの分は回収が始まっています。対象の草を食べた家畜の乳と内臓は、確認が済むまで流通から外されました。それから、配給を決めたのは自分だと、男爵が触れの中で認めています」
「公に認めたのか」
「はい。領民を集めた場で、本人が読み上げたそうです。別々の商いの筋から、同じ内容が届いています」
父は控えを取り、目を通し始めた。公表の行へ差しかかったあたりで、紙を持つ手が止まった。しばらくそのままだった。それから、頭へ戻って一度読み直した。レオンは次の問いを待ったが、来なかった。
「回収と、代わりの飼料の費えは、男爵家が持つのか」
「触れではそうなっています。損失も一件ずつ記録すると。ただ、すべてを埋めるとは約束していないそうです」
父は頷きもしなかった。
「取引はどう始末した」
「乳製品は次の便まで買い付けを見合わせます。羊毛と革は、家畜の状態と処理の時期を確かめてから決めます。全面の停止はしていません。代わりに、飼料の値と需要だけ先に集めさせています」
「うむ」
短い返事だった。レオンは、残していた最後の項目へ進んだ。
「それから、調べに関わったという流れ者の件です。十五前後らしい。春になってから、西から来たらしい。家名は名乗っていない。家畜を診ている。……前に門で聞いた毒草の噂と、同じ男爵領です。名前は、今回も届いていません」
先に笑ったのはダリオだった。
「男爵が失策を公にした。そこまでは事実でしょう。ですが、流れ者の手柄は、道を一つ越えるたびに増えるものです。市ではもう、素手で毒を消したことになっていました」
「その類いは、線を引いて外してある」
「でしょうね。兄上はそうなさる」
ダリオは机の縁を離れ、レオンの置いた控えへ目を落とした。
「その荷車の者たちは、少年を自分の目で見たのですか」
「確かめられていない。飼料商も、そこまでは聞いていない」
「なら、また聞きのまた聞きです。前の行商人と変わらない。名は出ず、顔を見た者もいない」
「また聞き同士が、別の道を通って、同じ形で届いている。日付と場所は突き合わせた。前回とは、そこが違う」
ダリオの指の背が、余白に並んだ条件を軽く叩いた。
「歳が近い。西から来た。家名がない。それだけ並べれば、兄上には似て見えるのですか」
「同じ人間だとは言っていない。偶然で切るには、条件が増えたと言っている」
「増えた」
ダリオは繰り返した。声は軽いままだった。
「追い出されてふた月かそこらで、家畜を診て、男爵に誤りを認めさせたと? それがあの者なら、家にいた十五年は何だったのです」
レオンは答えなかった。十五年の話を始めれば、これは交易の報告ではなくなる。
ダリオも、それ以上は続けなかった。笑いの形だけが口元に残っている。視線は、控えの余白に並んだ条件の上で一度止まり、それから外れた。
父は何も言わなかった。二人のやり取りのあいだも、手の中の控えは公表の行が開かれたままで、少年の条件へ目を移した様子はなかった。少なくとも、レオンの立つ位置からは、そう見えた。窓の光は、いつの間にか机の端まで下がっていた。
少年の話が途切れると、ダリオが話を戻した。
「いずれにせよ、家で確かめることは決まっています。東の産品を扱って障りがないのか。羊毛の値はどう動くのか。乳の取引はいつ戻るのか。飼料の値上がりが、預かりの牧場まで及ぶのか。市と街道の様子も要ります。……少年の素性より、先に片づく話です」
「分かっている。買い付けの再開と街道筋は、次の便で確かめさせる。飼料の値は、もう集め始めている」
「秋の家畜の市もあります。東から引いてくる羊が、例年入りますから」
「入れる前に見る。それまでには、続きの話も届く」
「それで、干し草は売るのですか」
「売る。ただし、足元は見ない。一度きりの客とは限らない」
レオンは、父の手元に開かれたままの控えへ目をやった。
「ただ、流れ者の条件は報告から削らない。公表までの経緯に関わっている。それに、この先に届く話の確かさを測るには、今回の条件が物差しになる」
「お好きに」
ダリオは短く言った。声の調子は変えずに、控えの方は見なかった。一礼して、先に執務室を出ていく。扉が閉まると、部屋には紙の音だけが残った。
父は、書き付けの束から次の一枚を取らなかった。手の中の控えを二つに畳むと、決裁の済んだ紙を重ねる側とは逆の、机の左端へ離して置いた。窓の光はもう机を離れ、部屋の色が変わり始めていた。
レオンは報告の残りへ移ろうとした。そこで、父が顔を上げた。
「続きが入れば、上げろ」
探せとは言わなかった。名を調べろとも言わなかった。
レオンは頷き、革の取引の残りを二件片づけて退がった。扉を閉める間際にも、呼び止める声はなかった。
バルドは、控えを返さなかった。




