第26話 領主の責任
翌朝、ケインが領館へ入ると、執務室にはゲルハルトとアリア、領務を扱う者たちが揃っていた。
机には、開いたままの配給帳簿と、昨夜書かれた文書が並んでいた。配給を止める命令。干し草の残量一覧。回収に使う荷車と人手の割り振り。五集落へ送る通達には、まだ領主の印がない。
ゲルハルトは椅子に座らず、通達の端へ片手を置いていた。
「配給は正式に止めることにした。残っている分も回収する。私の名で領内へ知らせるつもりだ」
ゲルハルトは、通達をケインの前へ差し出した。
「事実と違うところがないか、見てもらえるか」
差し出された通達を、ケインは上から読んだ。
通達には、調べた四つの牧場で、特定の刈り場の草を配った先と、黒い跡を伴う症例の多い場所が重なったとある。旧流路から離れた牧場でも、配給後に同じ跡が見つかった。原因は確定していないが、危険を否定できないため使用を止めることが、調べた範囲と一緒に明記されていた。
ケインは一箇所で指を止めた。
「ここは、乳と内臓を全部止めるのではなく、対象の草を食べた家畜から採れたもの、としてください。食べていない個体まで同じ扱いにはできません」
領務を扱う男が文を直し、通達をアリアへ渡した。
アリアが確かめたのは末尾だった。
「配給を決めたのは領主家で、救済用の干し草を受け取った牧場へ責任を負わせない。この部分は残っています」
「そうだな。そこは残そう」
ゲルハルトが頷いた。
文面が整っても、まだ印は押されなかった。ゲルハルトは通達を伏せた。
「先に、イレーネに話しておきたい」
ゲルハルトが先に立ち、アリアとケインも寝室へ向かった。
寝室へ入ると、イレーネは枕を背にして身体を起こしていた。寝台の脇で紙に何かを書き留めていたマルタが、手を止めた。
ゲルハルトは妻の前に椅子を寄せると、ゆっくりと腰を下ろし、強張った声でイレーネに話しかけた。
「領内へ知らせる前に、お前にも伝えておきたいことがある。ケイン、説明してくれ」
ケインは頷くと、ゲルハルトの横に立った。
「イレーネ様が弱り始めたのは、救済用の干し草を配るより前です。ですから、病気の始まりがその草だったとは言えません。ただ、配給を受けた牧場の乳や内臓が、館の食事へ入っていました。それが、悪くなる速さに関わった可能性は高いと考えています」
イレーネはしばらく黙っていた。
「治癒のあと、前より早くまた弱ったことにも?」
「時期は重なります。ただ、乳と内臓のどちらが、どの食事で、どれだけ影響したかまでは分けられません」
「では、食事を替えたのは続けるのね」
「はい。今の食事と、毎日の記録を続けます。治癒のあとの状態にも波がありますから、もう回復したとは、まだ言えません」
マルタはケインへ顔を向けた。
「呼吸も声も、治癒の前より保たれています。ただ、今朝の状態を、食事を替えた結果だと決めるには早いです。回復が続くかは、私も診ます」
ゲルハルトは、膝の上で両手を組んだ。
「配給は止めることにした。残っている草も集める。この配給を決めたのが私だということも、領内へ話すつもりだ。お前の病状や名は出さない」
イレーネは夫ではなく、ケインを見た。
「私の身体について、ほかに伏せられていることは?」
「ありません。ただ、まだ分からないことは残っています」
「そう」
イレーネは目を閉じ、枕へ背を戻した。
マルタは記録を開き直し、次に状態を確かめる時刻をイレーネへ伝えた。ゲルハルトは妻へ声をかけ、立ち上がった。
執務室へ戻ると、まだ印のない通達が待っていた。ゲルハルトはセヴランを呼ばせた。
ほどなく、セヴランが執務室へ入ってきた。ゲルハルトに示された椅子へ座ると、アリアが一枚の記録紙を卓へ置いた。
四つの牧場で確かめた症例と、救済用干し草の配給量。領館へ乳と内臓を納めた牧場の名。その下には、配給より前から続く衰弱と、まだ調べていない牧場があることも記されていた。
セヴランは最後まで読み、記録紙を卓へ戻した。
「配られた干し草が、すべての異変の原因だと確かめたわけではないのですね」
「はい。調べた範囲では、配った量と直近の症例に重なりがあります。領全体で続いてきた衰弱は、それだけでは説明できません」
ケインが答えると、セヴランは記録紙へもう一度目を落とした。
「この内容なら、神殿で確かめたこととも食い違いません。干し草を呪いと結びつける材料はなく、原因も確定していない」
ゲルハルトはセヴランへ尋ねた。
「使用を止めることについては、どう考える」
「それを決めるのはゲルハルト様です。呪いだという確証のない今は、神殿から使用停止を求めることはありません」
ゲルハルトが礼を言うと、セヴランは一礼して執務室を出た。
入れ替わりにオスヴァルトが呼ばれた。少し間をおいて扉が開き、書類を抱えたオスヴァルトが入ってきた。
オスヴァルトは通達と回収命令を順に読んだ。読み終えると、二枚の端を揃えて卓へ置いた。
「巡察祭司も、原因はまだ確定できないと話していました」
オスヴァルトは回収命令へ指を移した。
「全配給分が危険だという証明もない。回収には荷車と人手が要り、代わりの飼料にも費用がかかります。乳と内臓を流通から外せば、牧場の収入と領の税収も落ちる。次回の上納にも影響します」
オスヴァルトは通達へ指を置いた。
「公表した事実は、あとから取り消せません。調査が終わるまで、延期してください」
ゲルハルトは椅子へ座ったまま、首を横に振った。
「延期はしない。確定を待つあいだも、家畜は食べる。そのままにはしておけない」
オスヴァルトは声を変えず、別の案を出した。
「回収の準備だけを進め、理由の公表は待つこともできるのでは」
ゲルハルトは首を横に振った。
「それでは足りない。理由を伏せれば、使える草だと思われる。ほかの飼料へ混ぜる者も、別の牧場へ譲る者も出る。止めたことにはならない」
オスヴァルトは反論を重ねなかった。通達をゲルハルトの前へ戻す。
「では、公表の延期を求めたことを、記録に残してください」
ゲルハルトは領務を扱う男へ顔を向けた。
「記録してくれ」
男が新しい記録紙へ日付と発言者を書き、オスヴァルトの要求を記した。ゲルハルトは通達へ署名し、領主の印を押す。五集落へ送る封書にも、一通ずつ封がされた。
伝令への引き渡しは、まだ行われない。前庭で領主の説明と質疑を聞いてから、それぞれの集落へ出ることになっていた。
封書の準備と並行して、領務を扱う者が領館の使いを中心集落と近隣の牧場へ走らせた。救済用の干し草について領主から知らせがあるため、午前のうちに前庭へ来られる者は来てほしいと伝えさせた。
セヴランにも、前庭での公表に立ち会うよう使いが出された。
知らせを受けた中心集落の住民と、近くの牧場で働く者たちが前庭へ集まった。領館の役人と回収を担当する者は、封をした通達と空の残量表を抱えていた。五集落へ向かう伝令は、荷を付けた馬のそばで待っている。遠方の集落には、これから通達が運ばれる。
ギルが玄関前の左右を空ける。ケインは柱の脇へ下がり、アリアは手順を書いた記録紙を持って父の横へ立った。セヴランとオスヴァルトは、玄関脇から前庭を見ていた。
ゲルハルトは演台を用意させず、玄関前の段差から前庭を見渡した。
痩せた身体には上着が余り、肩口に皺が寄っていた。顔には長く抜けない疲れが残っている。それでも背を伸ばし、集まった者たちを端から端まで見た。
「救済用の干し草について知らせる。今日から、領主家による配給を正式に中止する。倉に残る分は出さない。すでに配った草も、使用を止めて回収する」
集まった者たちのあいだから、低い声が上がった。ゲルハルトは声が静まるまで待った。
「対象の草を食べた家畜の乳と内臓は、確認が終わるまで売ることも譲ることも禁ずる」
ゲルハルトは手元の通達へ目を落とした。
「調べた範囲では、特定の刈り場から出た干し草を多く受け取った牧場と、黒い跡のある家畜が多く出た場所が重なっている。旧流路から離れた牧場でも、配給後に同じ跡が見つかった。領内で起きている異変のすべてを、この草だけで説明できるわけではない。だが、危険がないとも言えない。確定を待っているあいだにも、被害が増えるおそれがある。だから今、止めることとした」
通達を持つ役人たちが、ゲルハルトを見上げている。伝令も馬の手綱を持ったまま動かなかった。
「牧草の足りない牧場を助けるため、干し草の買い上げと配給を決めたのは私だ」
ゲルハルトはそこで言葉を切った。
「異常を知って配ったものではない。だが、知らなかったことを、受け取った牧場の責任にはできない。領館も、この草を食べた家畜から乳と内臓を買っていた。この問題の外にはいない」
ケインのいる位置から、前庭に並ぶ顔が一つずつ見えた。伏せられたものも、ゲルハルトを見たままのものもある。
「対象の干し草は、ほかの草へ混ぜないこと。売らず、譲らず、今ある場所で分けておけ。残っている量を届け出たあと、領主家の担当者が確認し、順に回収する。自分たちで運び出す必要はない」
ゲルハルトは役人が持つ残量表へ手を向けた。
「食欲が落ちた、反芻が減った、立てなくなった、皮膚に黒い跡が出た。そのどれかがあれば、干し草の残量と一緒に報告してほしい」
命令を並べていた声が、最後だけわずかに低くなった。
「領主家は、残量と損失を記録する。回収場所を決め、代わりの飼料を集める。数に限りがあれば、家畜の状態が重い牧場と、残りの飼料が少ない牧場から回す。すべての損失を埋められるとは、今は約束できない。調査で分かったことは、その都度知らせる」
ゲルハルトが半歩下がる。代わって、アリアが記録紙を開いた。
「残量の届け出は、領館の領務窓口で受けます。牧場名、草を置いている場所、おおよその残量を伝えてください。症状のある家畜がいる場合は、その数と、いつから変化があったかもお願いします」
アリアは次の行へ指を移した。
「それから、担当者が着くまでは、草を動かさず、別の飼料と分けてください。回収の順番と代替飼料については、残量と家畜の状態を確認したあと、各牧場へ伝えます」
記録紙を閉じても、前庭のざわめきは戻らなかった。
最初に動いたのは、牧夫の一人だった。役人の持つ残量表へ近づき、自分の働く牧場の名を告げる。その声をきっかけに、抑えられていた言葉が前庭のあちこちから上がった。
「明日から、何を食わせればいいんです。残っている草は、あれだけなんです」
「代わりの飼料がどれだけ要るか、まず残量と家畜の数を確かめる。今日中にすべてを届けられるとは言えない。足りないところから回す」
ゲルハルトが答え終わる前に、別の男が声を重ねた。
「乳を売れなければ、うちは金が入りません。草は領主家から来たのに、損をするのはこっちですか」
前に並んでいた者たちから、同意する声が上がった。ゲルハルトは遮らず、それが静まるのを待った。
「損失は一件ずつ記録する。だが、すべてを埋められるとは、今は約束できない」
「それでは暮らせないと言っているんです」
男が列から出て、玄関前へ歩み寄った。ギルが反射的に半歩前へ出る。ゲルハルトが片手を上げると、ギルはそこで止まった。
「分かっている。だが、危険を取り除き、原因を突き止めなければ、被害はさらに広がる。だから、代わりの飼料をどこへどれだけ回せるか、損失に対して何ができるかを同時に調べる。足りないものまで、あるとは言わない。新しく分かったことも隠さず知らせる」
男はなおゲルハルトを見上げていたが、それ以上は近づかなかった。
「黒い跡のない牛まで、乳を止めるんですか」
今度の声は、近くの牧場で働く女からだった。ゲルハルトがケインへ目を向ける。ケインは柱の脇から一歩だけ出た。
「跡が出る前に、食欲や反芻が減ることがあります。今、跡がないことだけでは分けられません。対象の草を食べた家畜は、いったん乳と内臓をほかから分けてください。調査が進めば、止める範囲を狭められる可能性はあります」
「草は、倉の隅へ移してもいいんですか」
「動かす途中で、落ちた葉がほかの飼料へ混じります。今ある場所で分けられるなら、担当者が着くまで動かさないでください。難しければ、どこにあるかを届け出るときに伝えてください」
ケインは答えると、元の位置へ下がった。
通達を受け取る伝令の一人が、セヴランへ声を向けた。
「神殿は、この草が呪われていると認めたのですか」
「いいえ。呪いだと確かめたものではありません」
まだ問いは続いた。残っている束の数え方、同じ囲いにいる家畜の分け方、すでに売った乳の扱い。アリアと役人が一つずつ書き留め、すぐに答えられないものには、確認後に知らせると答えた。通達を開いたまま、黙って読み続ける者もいた。
やがて新しい質問が途切れると、役人が伝令へ封書を渡した。五人はそれぞれ行き先を確かめ、馬へ上がる。蹄の音が一つずつ門の外へ遠ざかっていった。
最後の一騎が見えなくなってから、オスヴァルトが玄関脇を離れた。手にしていた一枚の文書を、領務を扱う男へ差し出す。
「救済用干し草の買い上げ記録と配給帳簿、回収計画、代替飼料の支出見込み、上納計画への影響を、正式に提出してください。提出まで、関係する記録は今の状態で保存するよう求めます」
男はゲルハルトを見た。
「受け取ってくれ」
ゲルハルトが言うと、男は文書を受け取り、日付を記した。オスヴァルトはそれ以上、公表について話さなかった。
前庭では、残量を届け出る者たちが役人の前に列を作り始めていた。
ケインとアリアは事務室へ移り、回収対象の一覧を卓へ広げた。配給先ごとに、過去に出した荷車の数、残量、回収担当、代替飼料、損失を記す欄が並んでいる。残量の欄は、前庭や遠方の集落から報告が届くまで空いていた。
アリアは、届け出の始まった牧場へ印を付けた。ケインはその横で、対象となる家畜の範囲を確かめていく。
南原大牧の行で、指が止まった。
南原を訪ねたとき、ノラの乳だけは、館にも市場にも出さず分けておくよう頼んだ。ほかの二頭には黒い跡がなく、領館への納入を調べるための保留が解ければ、乳を出せるはずだった。
今日からは違う。黒い跡の有無ではなく、対象の干し草を食べたかどうかで分ける。南原の家畜すべてではない。それでも、止める乳と内臓は増える。
ケインは南原を回収対象に残したまま、代替飼料と損失記録の欄にも印を付けた。
「南原は、受け取った量がいちばん多かったですね」
アリアが言った。
「はい。残っている草だけでなく、それを食べた家畜の数も確かめる必要があります」
「ベルントさんたちの暮らしにも、そのまま響きます」
「今は対象から外せません。その分、代わりの飼料と、止めたことで出る損失も記録してください」
アリアは頷き、南原の行へ、優先して残量と家畜の数を確認すると書き加えた。
領務を扱う男が、配給帳簿を見ながら次の行を指した。
「山裾には、回収を回さなくてよさそうです。あそこへは配っていませんから」
山裾集落の配給数は空欄だった。ケインは前日の帳簿でも見ている。
「山裾の家畜の状態は分かりますか」
「いいえ。あちらからの報告は、まだ届いていません」
アリアは山裾の行の余白に、家畜の状態、と書き加えた。




