第25話 配られた草
坂を下りきると草の丈が低くなり、旧流路が横切った低地が見えてくる。荷車を柵の脇へ着けると、外れ牧場の前でドルフが待っていた。
ドルフは、ケインが抱えた記録の束へ目をやった。
「診るのか、書くのか。どっちだ」
「書く方です。最初に来たときは、ここの草がどこへ運ばれたかを聞いていません」
「どういうことだ」
「南原で、同じ跡の出た牛がいました。旧流路から遠い土地です。この牧場の中だけ見ていても、あれは説明がつかないので」
ケインは柵の横木の上へ紙を広げた。沢中共同牧と南原大牧では、受け取った草の欄を埋めた。ここで埋めるのは、出した草の欄になる。救済用に刈り出した区画。刈った年と、運び出したおおよその量。積み出すまで束を置いた場所。ほかの草と混ざったかどうか。そして、同じ区から刈った草を、この牧場の羊がどれだけ食べていたか。
「ここを埋めさせてください。出た先が分かれば、よその牧場の受け取りとつながるので」
ドルフは紙を一度見て、牧夫を二人呼んだ。ギルが、話を終えた者とこれから話す者を分けて柵の脇へ通す。
倒れる羊が西の区へ偏っていたことは、前に確かめてある。今日埋まったのは、その西で刈った草がどこへ行ったかだった。牧夫の一人が、荷車を出した年と、積んだおおよその数を覚えていた。アリアが牧場の控えと突き合わせる。西の刈り場は、救済用に買い上げられた干し草の、主な刈り取り場所だった。
同じ区から刈った束は、冬のあいだ、この牧場の囲いでも使われていた。
給餌を止めてから、新しく倒れた羊は出ていない。あのとき処置して牧場に残っている個体は、その後の経過だけを欄へ足した。
昼を回ってから、ドルフの案内で$段丘$へ上がった。
ドルフの牧場は、外れ牧場と柵一つ分しか離れていない。それでも坂を上がりきると足元の草が乾いた。黒い跡のある個体は少なく、倒れた羊はいなかった。
ここで広げるのは、沢中や南原と同じ、受け取った草の紙になる。ドルフは高地で刈った自分の干し草を先に使い、足りない分だけ配給を受けていた。量は、外れ牧場が冬に囲いで使った西の草に比べても、ずっと少ない。下の草地で草に口をつけない羊がいれば、追い立てずに、上へ回していた。
「どうして、上へ回したんですか」
ドルフは柵に肘を置いた。
「食わねえ草を、食わせなかっただけだ」
「羊が嫌がる理由に、心当たりは」
「羊が食わねえもんを、俺が知ってると思うか」
ケインは、その答えをそのまま書き取った。
柵一つ隔てただけで、重い症例の数が違う。近い土地なら同じだけ傷むという説明は、ここで止まる。
記録紙を仕舞う頃には、日が傾いていた。ドルフは坂を下り、外れ牧場へ戻っていく。
ケインは荷台へ上がり、四枚になった記録紙を膝の上で揃えた。
「明日、配給の帳簿を見せてもらえますか」
「父に話しておきます。記録室なら、朝から使えるはずです」
記録室は東を向いていて、朝のうちだけ机の端に光が届く。アリアは執務室から運んできた帳面を置き、順に並べ直した。
「配給の帳簿と、買い上げの控えです。納入帳は食料庫から借りました。閲覧の許しは、昨夜のうちに父から取ってあります」
「助かります」
「わたしは査定の立ち会いに出ます。監察官は別の部屋です。終わったら母の様子を見ますから、昼は待たないでください」
扉が閉まり、廊下の足音が遠ざかった。ケインは机の上を空け、四枚の記録紙を左から並べた。外れ牧場、ドルフ牧場、沢中共同牧、南原大牧。欄の位置は昨日で揃っている。その手前へ配給帳簿と買い上げの控え、領館の納入帳を重ね、端に、イレーネの病歴と食歴を書いた年表を置いた。
最初は、土地の順に並べ替えた。外れ牧場は旧流路の横切った低地で、急性と亜急性が集まっている。ドルフの牧場は柵一つ隔てた段丘で、黒い跡のある個体は少ない。沢中は今の沢の中流にあり、配給より前から衰えていた羊と、配給のあとで跡の出た羊が混じる。南原は旧流路からも沢からも遠く、土も乾いている。それでも跡のある牛がいた。
土地の遠近だけでは、南原の一頭を置く場所がない。柵一つで分かれた二つの牧場の差も、土地の違いでは埋まらない。
並べ替えを崩し、配給帳簿を開いた。最初の冬は、不足を訴えた牧場だけに配られている。翌年は配る先が増え、その冬に出した荷車は、二百二十台を少し超えていた。運び出した日、行き先、荷の数が、集落ごとに続いている。今年の第一番刈りは荷車八十台分ほど買い上げてあるが、出したという記載はわずかで、残りは倉のままだった。ケインは四枚へ受け取った量を書き入れた。南原がいちばん多い。外れ牧場は出す側なので、欄は空く。ドルフ牧場は南原の五分の一に届かず、沢中はその中ほどだった。
配給を多く受けた牧場ほど、直近の黒い跡が多い。
ケインは四枚の下の余白へ、まだ回っていない牧場が残ると書き添えた。それから南原の欄の脇に、小屋で草を広げたときのことを足した。同じ荷で運ばれた束の中に、指へ返ってくるものと、返ってこないものが混じっていた。どの区で刈った束か、までは分かっていない。
最後に、領館の納入帳を引き寄せた。前に読んだときは、二年ほど前から仕入れ先が細かく散っていることまでしか分からなかった。今日は、散った先の名を四枚と照らせる。配給を受けた牧場が、そのまま乳と内臓の仕入れ先として並んでいた。それらは領内のものを買い支えるために厨房へ回り、乳粥と、内臓を使ったスープになった。
年表を横へ寄せた。イレーネが衰え始めたのは五年前の大水のあとで、配給が始まるより前になる。そこは動かない。動くのはそのあとだ。二度目の治癒で持ち直していた期間より、三度目のあとの期間は短かった。短くなった時期と、配る先を広げた時期が、同じ欄に並んでいる。
ケインは、二つを別々の行に書いた。上の行に、大水より前から続いていたもの。下の行に、二年前から重なったもの。下の行は、口へ入る量を増やしたはずだった。上の行は、配給では説明がつかない。
四枚とも、欄が埋まった。結びの一行を書く前に、ケインは筆を置いた。
日付が重なっていることは、あの日、領主も同じ帳面で見ている。この四枚はその先だ。草を配った先の牧場から、そのまま乳と内臓が館へ入っていた。ゲルハルトは、自分の決めた買い上げが通った道を、牧場の名で辿ることになる。決めるのは領主だ。最初に誰へ渡すかは、自分で決められる。
ケインは記録紙と写しを揃えて抱え、アリアが母の部屋から下りてくるのを待つことにした。
ケインは記録の束を抱えて、階段の下で待った。アリアは下りてくる途中で足を止めた。
「話す時間をいただけますか。二人だけで」
アリアはケインの腕の束を見て、廊下の先へ目をやった。
「小応接室が空いています」
ギルはアリアが入るのを見届け、廊下側から扉を閉めた。
ケインは四枚だけを卓へ置いた。帳簿は記録室へ残してある。水差しと杯を頼み、アリアが座るのを待ってから、向かいへ腰を下ろした。
「南原で疑ったことを、四つの牧場と帳簿で確かめました。お母様の食事まで続く経路があります。確かめられたことから話します」
アリアは杯へ触れず、卓の束へ目をやった。
「ドルフの牧場を並べたのが、決め手になりました。アリア様が言われたとおりです。外れ牧場と柵一つですが、受け取った草はごく少なく、重い症例も少ない。南原はその逆で、いちばん遠いのに、いちばん多く受け取っていました。土地では、この二つを同時に説明できません」
「配給を多く受けた牧場ほど、跡の出た家畜が多い、ということですか」
「調べた四つでは、そうなっています」
ケインは納入帳の写しを、四枚の横へ並べた。
「配給を受けた牧場の名が、館の乳と内臓の仕入れ先にも並んでいます。それが乳粥と、内臓のスープになっていました」
アリアの指が、記録紙の縁で止まった。
「母の食事です」
「はい」
ケインは杯を少し横へ寄せた。
「ここから先は、確かめたことではありません。配られた干し草が、跡の出る症例を領内へ運んだ可能性は高いと思います。その家畜から採れた乳や内臓が、お母様へ入る経路になった可能性も高い。どの一食が、どれだけ悪くしたかは分かりません。配った草が全部同じだったとも言えません。南原に残っていた束にも、指へ返らないものがありました」
「父が配った草で、母が悪くなったのですか」
「病気の始まりが、その草だとは言えません。お母様が弱り始めたのは大水のあとで、配給より前です。ただ、悪くなる速さと、治癒のあとで持ち直す期間には、重なる時期があります」
アリアは膝の上で手を組んだ。
「異常を知っていて配った記録は、帳簿にありません。生えている草なら獣が口をつけませんが、刈って干せば見分けがつきません。ほかの束と混ざれば、選り分けようもない。草の足りない牧場へ配るのにも、領内のものを買い支えるのにも、理由がありました」
「父は、草の足りない牧場を助けるつもりでした」
「はい」
「それでも、羊は倒れて、母は起きられない日が増えた」
ケインは頷いた。
「今から止められるものはありますか」
「あります。館の食卓は、もう変えてあります。今年の分は倉に残っています。去年までに配った分で牧場に残っているものを、ほかの飼料と分けて置くこと。それを食べた家畜の乳と内臓を、しばらく外へ出さないこと。牧場には損が出ますから、代わりの草も一緒に要ります」
ケインは束を卓の中ほどへ戻した。
「正式に配給を止めるか、配ったものを集め直すか、領民へ何を伝えるか。そこは僕には決められません。決める人の手元に、この記録が要ります」
杯の水は動いていない。アリアは記録紙ではなく、自分の手を見ていた。指の腹に、墨が薄く残っている。
ケインは待った。
「母に乳粥を運んだのは、わたしです」
アリアが言った。
「厨房から部屋まで、冷めないうちに。父が配ると決めた冬も、運んでいました」
組んだ指に、力が入っている。ケインは水差しを取り、杯へ足した。
「母を助けるはずのものだったのに」
「はい」
ケインは杯を、アリアの手の近くへ置いた。
「僕にも、やることをやった上で死なせた獣がいます。理由があとで分かっても、運んだ手は軽くなりませんでした。分かったぶんは、次の一頭に使いました」
アリアは杯を両手で包んだ。口はつけない。しばらくして、顔を上げた。
「父に伝えます。わたしから」
卓の上の束を、アリアが自分の側へ引き寄せた。
「一緒に来てください、ケイン」
昼を過ぎて、ゲルハルトは執務室にいた。アリアが扉を叩き、二人で話す時間をもらえないかと言うと、書きかけの紙が脇へ寄せられた。ケインが続いて入り、ギルは廊下側から扉を閉めた。
アリアは卓の上へ記録の束を置いた。
「お父様。救済用に配った干し草について、分かったことがあります」
ゲルハルトが顔を上げた。
「四つの牧場を、同じ項目で並べました。配給の帳簿と、館の納入帳も照らしています。配った草の行き先と、母の食卓が、つながっています」
ゲルハルトはすぐには答えず、束へ目を落とした。それから、座るよう二人へ椅子を示した。
「順に聞く。まず、なぜ干し草だと言える」
アリアがケインを見た。ケインは一枚目を前へ出した。
「南原大牧です。旧流路からも沢からも遠く、土も乾いています。土地のせいなら、跡の出る牛はいないはずでした。南原は、配給をいちばん多く受けています」
「隣り合った牧場ではどうだ」
「外れ牧場とドルフの牧場は柵一つです。ドルフは高地の草を先に使い、受け取った量は南原の五分の一に届きません。重い症例も少ない。近ければ同じだけ傷む、という説明も立ちません」
「四つで、領内すべてが分かるのか」
「分かりません。四つでは、配給を多く受けた牧場ほど直近の跡が多い、というところまでです。並べていない牧場と囲いが残っています」
「南原では、草そのものを見たと聞いたが」
「はい。残っていた束を広げて、手で確かめました。返ってくる束と、返ってこない束が混じっていました。どの区で刈った束かまでは分かりません」
ゲルハルトはケインの手を見て、それから帳簿を開いた。指が配給先の欄を下へ辿っていく。
「今年の分は」
「荷車八十台分ほど買い上げて、配ったのはごく一部です。残りは倉にあります。出た分の行き先は、帳簿から追えます」
「去年までの分は」
「牧場に残っているものがあります。どこにどれだけかは、これから確かめます」
ゲルハルトは帳簿から目を上げなかった。
「……イレーネは」
その先が続かなかった。
ケインは一度、言葉を切ってから答えた。
「イレーネ様が弱り始めたのは大水のあとで、配給より前です。始まりを、配った草では説明できません。速くなったのは、そのあとです。配る範囲を広げた年から、治癒のあとで持ち直す期間が短くなっています。その時期に、配給を受けた牧場の乳と内臓が館へ入っていました」
「乳粥だな」
「はい」
ゲルハルトは、そこで口を閉じた。しばらくしてから続けた。
「乳か。内臓か」
「分けられません。どちらも同じ牧場から来て、館では同じ時期に使われています。配った草が全部同じだったとも言えません。配給を受けていない土地の家畜が痩せている理由も、まだ説明できていません」
ゲルハルトは帳簿を閉じずに、両手を卓へ置いた。
「配れと決めたのは私だ。領内のものを使えと言ったのも、イレーネに食べさせたのも」
言葉は短くなっていったが、途中で止まらなかった。アリアは父を見たまま、膝の上で手を組み直した。
ケインは、最後まで聞いてから口を開いた。
「うかがいました」
ゲルハルトが目を上げる。
「そのうえで、順番があります。今も動いている経路を、先に止めなければなりません。正式に配給を止めて、配った分を集め直して、なぜ集めるのかを領民へ伝える。三つとも要ります」
「理由を言わずに集めるのでは、足りないか」
「足りません。使える草だと思えば、家畜へ与えます。ほかの餌へ混ぜます。よその牧場へ売ります。惜しんで隠す家も出ます」
「言えば、冬の草が無くなる」
「はい。ですから、集めることと、代わりを渡すことは、別々にはできません」
「代わりの草も、金も、いま領にはない」
「はい」
「無いものを、どう渡す」
「そこは、僕には答えが出せません。言えるのは、何を止めれば被害がこれ以上増えないか、というところまでです」
ゲルハルトは、開いたままの帳簿へ目を戻した。
沈黙が、しばらくの間、部屋を支配した。ゲルハルトは開いた帳簿の、配給先の欄を指で辿っていた。上から下へ一度辿り、前の頁へ戻って、また下へ。数えているようだった。
指が止まる。ケインは黙っていた。
「今夜のうちに、始めておけることがあります」
「どんなことだ」
「今年の分は、倉から出さないままにしてください。館の食卓も、今のままで。それから、配給先の一覧を写しておければ、明日どちらに決まっても使えます。出た分がどこへ行ったかも、今夜のうちに拾えます」
「回収の話か」
「回収は、まだしません。集めると決まったときに要るものを、数えておくだけです。荷車が何台使えるか。集めた草を、ほかの草と分けて置ける場所があるか」
ゲルハルトはアリアを見た。
「できるか」
「写しは今夜中に終わらせます。荷車と置き場は、明日の朝までに人を回します」
アリアは記録の束を抱え直した。
「どちらに決まっても、無駄にはなりません」
ゲルハルトはしばらく娘を見ていた。それから帳簿へ目を戻した。
「そうだな。集めるとも、領民へ言うとも、今は決めるのをやめよう」
「はい」
ケインとアリアは席を立った。扉に手をかけたところで、後ろから声がした。
「明日の朝までに決める」
ゲルハルトは帳簿を閉じず、前の年の冬に二百二十台を超える荷車が出た欄へ手を置いた。




