第24話 二度目の水晶
朝食を終えて離れを出ると、門の前にはアリアとギルが待っていた。セヴランは灰色の外套を羽織り、書き付けを挟んだ革の袋を脇に抱えている。
四人は坂を下り、中心集落へ続く道へ入った。水を汲みに出た女や、菜を積んだ荷車が行き交っている。アリアは声をかけられるたびに応え、ギルはその半歩後ろから道の先を見ていた。セヴランも急ぐ様子はなく、畑や柵へ目を向けながら歩いている。
ケインはアリアの少し後ろを歩いた。左手の爪が掌に当たっている。一度力を抜いたはずなのに、数歩も行かないうちにまた握り込んでいた。
やがて、道の先に石造りの低い建物が見えてきた。集落の広場に面した小神殿だ。扉の上には、春に訪れた神殿と同じ印が刻まれている。
あの日も、水晶は白い布をかけた台の上にあった。右手を置くと、指先から冷たさが伝わってきた。
水晶の奥に浮かんだのは、丸みを帯びた二つの形だった。神官は顔を近づけ、角度を変え、長いあいだ答えなかった。
帰りの馬車でも、屋敷へ着いてからも、ケインがどうしたいのかを尋ねる者はいなかった。翌朝には旅支度が揃えられ、行き先を告げられた。
アリアが隣へ並んだ。ケインの左手を見てから、顔を上げる。
「大丈夫ですか」
「はい」
答えたあとも、握った手はほどけなかった。
「……少し、緊張しています」
「そうですよね」
アリアはケインに歩調を合わせた。
「水晶に触れるのはケインです。わたしには代われません」
小神殿の石段が近づいてくる。
「でも、わたしはここにいます。終わるまで、どこにも行きません」
「ありがとうございます」
ケインが答えると、後ろを歩いていたセヴランが口を開いた。
「同じ結果でも、記録する意味はあります」
ケインが振り返ると、セヴランは脇に抱えた革の袋へ手を添えた。
「今日は表示が再現するかを確かめ、ここで記録に残します」
小神殿の扉は開いていた。中から出てきた神官がセヴランの祭服に気づき、足を止めて頭を下げる。ギルは扉の脇へ寄り、アリアが入るのを待った。
ケインは左手を開いた。掌に残った四つの爪跡を見てから顔を上げ、自分から扉をくぐった。
神官は一行を、広間の奥にある小部屋へ案内した。そこには長椅子が二つ置かれ、正面の台には白い布がかかっていた。その上に、大人の拳ほどの水晶が載っている。
ケインは入口で足を止めた。大きさも、台の高さも、春に触れたものとよく似ていた。
小神殿の神官が台の脇へ立ち、記録用の紙を広げる。セヴランはその隣に立った。アリアとギルは、ケインの後ろにある長椅子のそばへ下がった。
「再鑑定の前に、本人の確認をします。名前を」
「ケインです」
「年齢は」
「十五歳です」
神官のペンが紙の上を進む。
「家名はありますか」
アリアもセヴランも、何も言わなかった。ケインは神官の顔を見て答えた。
「家名は申告しません」
神官は一度だけケインを見返し、紙へ視線を戻した。
「ケイン。家名、申告なし。最初の鑑定を受けたのは、今年の春で間違いありませんか」
「はい」
「場所は」
「西方のリーデンです。町外れの小神殿で受けました」
「初回の判定を、ご本人の言葉でお願いします」
「表示は判読不能。系統不明で、ランク外でした」
神官のペンが止まった。ケインの顔を見てから、セヴランへ視線を移す。
「判読不能で、ランク外……」
「本人から昨日、聞き取りました。手続きを続けてください」
神官はもう一度ケインを見た。書き終えてペンを置くと、セヴランが水晶を示した。
「始めてください」
ケインは台の前へ進んだ。神官に促され、右手を水晶へ置く。
水晶は、記憶にあるまま冷たかった。その奥に白い光が灯り、ゆっくりと中心へ集まっていく。
やがて、光の中に二つの文字が浮かんだ。
けん。
形も、並びも変わっていない。
神官は水晶へ顔を近づけた。目を細め、見る角度を変える。春の神官と同じ動きだった。
神官は水晶を見つめたまま、口を閉ざした。
セヴランが先に口を開いた。
「同じですか」
「見えた形は、同じです」
セヴランは頷き、神官の手元にある記録用紙へ目を向けた。
「判読できないまま記録してください。既存の神聖文字へ置き換えないように」
「図形として写します」
神官は新しい紙を水晶の脇へ置き、浮かんでいる形を一つずつ描き始めた。何度も水晶と紙を見比べ、線の曲がりまで確かめている。
最後の線が紙へ移されるのを見届けて、ケインは水晶から手を離した。
アリアは長椅子のそばにいた。ギルも扉の脇から動かない。セヴランは写し終えるのを待っている。
誰も、ケインに部屋を出るようには言わなかった。
神官は水晶の脇に置いた紙を持ち上げ、写した二つの形を確かめた。線の曲がりを一か所直してから、最初の記録用紙へ戻る。
ケインたちは、広間の長椅子へ移った。神官は正面の机に座り、二枚の紙を並べる。再鑑定の記録を読み上げた。
「対象者、ケイン。家名申告なし。十五歳、男性。初回鑑定は今年の春、リーデンの小神殿。初回の申告結果は判読不能、系統不明、ランク外」
神官は図形を写した紙へ目を落とした。
「本日の表示は、別紙の写しのとおり。既知の神聖文字、および当神殿で確認できる系統表示には該当しません。系統不明、ランク外と記録します」
二つの形は、神官が見た線のまま紙に残った。
「内容に間違いはありますか」
ケインは二枚の紙を見比べた。
「ありません」
「照会先の記録で所属家が確認された場合は、こちらの記録にも追記します」
「分かりました」
神官が記録の末尾へ署名し、セヴランも立会人の欄へ名を書いた。二つの形を写した紙には小神殿の印が押され、記録用紙へ重ねて綴じられた。
セヴランは革の袋から別の紙を取り出した。
「次に、春の記録を照会します」
机に向かったまま、再鑑定の日付と小神殿の名を書き込んでいく。その下に、ケイン、家名申告なし、と記した。
「家名を申告しなくても、照会できるのですか」
「できます。照会先はリーデンの小神殿です」
セヴランは図形の写しを指した。
「今年の春に行われた成人の儀。十五歳前後の男子。神聖文字に属さない表示で、系統不明、ランク外。これと同じ形が原本に残っているかを確認させます」
「ケインという名前ではなく?」
「名前も記します。ただ、照合するのは名前だけではありません。表示の写しと判定を原本で確認します」
セヴランは、返答に必要な項目を照会状へ並べた。鑑定の日付と場所、本人の名、年齢、所属した家、表示の写し、系統とランク、神官の所見、立会人。
所属した家、という項目で、ケインの目が止まった。
「原本も、こちらへ届くのですか」
「いいえ。原本は鑑定を行った神殿に残します。届くのは、該当したかどうかの返答と、記録の写しです」
「どのくらいかかりますか」
「別の管轄です。原本を確認し、正式な写しを作って返すまで、数週間は見てください」
返答は数週間先になる。そのあいだに、春の水晶に浮かんだ形を、誰かが記録の中から探す。
セヴランは書き上げた照会状を神官へ渡した。神官が内容を確かめ、小神殿の印を押す。紙を折って封をしたあと、その日の文書便へ載せるため、助祭を呼んだ。
助祭が封書を抱えて広間を出ていく。ケインは、その背中が扉の向こうへ消えるまで見送った。
小神殿での手続きを終えた頃には、昼を回っていた。四人は来た道を領館へ戻った。
門をくぐったケインは、前庭に止まっている馬車へ目を向けた。領館で使われているものより車体が大きく、扉と窓枠には磨かれた金具がついている。馬のそばでは、見覚えのない男が手綱を外していた。
玄関では、使用人が荷箱を運び込んでいる。領館の者たちは声を抑えていたが、廊下を行き来する足は速かった。
アリアを見つけた従者が、玄関から駆け寄ってきた。
「領務監察官のオスヴァルト・レーナー様がお着きです。すでに旦那様とのお話が始まっています」
アリアは一度、前庭の馬車を振り返った。
「先触れがあったのですか」
「今朝、届きました」
アリアの眉が寄った。セヴランへ顔を向ける。
「父は、わたしたちを?」
「お戻りになり次第、アリア様とセヴラン様、それからケインを応接室へ案内するようにと」
ケインは自分の名が呼ばれたことに顔を上げた。領務監察官が何を調べる役職なのか、ケインには分からない。領館の空気は、神殿へ向かう前とは変わっていた。
一行は外套を預け、そのまま応接室へ向かった。ギルが扉を開け、アリアに続いて中へ入る。
ゲルハルトは長卓の奥に座っていた。向かいには、書類を揃えた男がいる。卓の脇には革張りの箱が置かれ、蓋は閉じたままだった。
「戻ったか。こちらは、領務監察官のオスヴァルト・レーナー殿だ」
ゲルハルトが紹介すると、オスヴァルトは椅子から立ち、短く一礼した。アリアとセヴランを順に見て、最後にケインへ視線を止める。
「男爵令嬢と巡察祭司の同席は分かります。そちらの少年は?」
「ケインだ。領内で起きている家畜の異変と、妻の状態を調べている。私が協力を求めた」
「神殿に所属する者ですか」
「いいえ」
答えたのはケインだった。オスヴァルトの視線は動かない。
「治癒師、あるいは家畜を扱う公的な資格を?」
「ありません」
ゲルハルトが椅子の肘掛けへ手を置いた。
「資格がないことは承知している。それでも、倒れた家畜を診て、被害の違いを調べてきたのは彼です。領内での滞在と調査は、私が認めている」
「男爵の責任で置いている協力者、ということですね」
「そうだ」
オスヴァルトは手元の紙へ、ケインの名を書き加えた。
「では、家畜の被害と夫人の状態に関わる範囲で同席を認めます。財政と上納については、尋ねられた場合だけ答えてください」
「分かりました」
ケインは空いている椅子へ座った。卓上には、オスヴァルトが持参した紙が、もう一枚伏せて置かれていた。
オスヴァルトは伏せていた一枚を返し、卓の中央へ置いた。上から順に、提出を求めるものと、その期限が並んでいる。
「まず、現在の収支概要、借財の一覧、次回上納の見込み、救済事業に使った支出の概要。この四点を、明日の正午までにお願いします」
ゲルハルトはそれを手元へ寄せた。
「収支と借財は、今日中に揃えられる。上納の見込みと救済支出は、明日の朝までに確認させよう」
「正式な帳簿は、どちらに保管されていますか」
「執務室の隣にある記録庫だ。必要な帳簿は指定してもらいたい」
「一覧を確認してから指定します。現時点で、全てをこちらへ移す必要はありません」
オスヴァルトはゲルハルトの返答を記し、次にセヴランへ顔を向けた。
「巡察祭司殿。領内の異変について、現時点の所見を伺えますか」
「家畜だけでなく、人にも関わる可能性を調べています。複数の場所で異なる症状が出ていますが、原因を一つに絞れる段階ではありません」
「呪いの可能性は」
「第一に疑っています。ただし、断定できる材料はありません。病や毒で説明できるかも含めて調べています」
「神殿として、隔離や浄化を求める予定は」
「必要と判断すれば勧告します。今は、症例と経路の確認を続けています」
オスヴァルトは、セヴランの返答も記した。
「原因が確定していない以上、新たな支出と人員の動きも確認します」
街道の補修、橋の架け替え、水路の浚渫。オスヴァルトは項目を一つずつ読み上げ、予定の有無と、おおよその人数を尋ねた。
ゲルハルトは、春から続けている街道の小規模な補修だけを挙げた。橋の架け替えと、大がかりな水路工事の予定はない。オスヴァルトは返答の横へ短く印をつけ、次の行へ進んだ。
「新たな普請は」
「今のところはない」
「森林での伐採や、採石の予定は」
「ない」
オスヴァルトは返答を書き留め、次の項目へ移った。
「山地で、新たな普請や人員の投入を予定していますか」
ゲルハルトは顔を上げた。
「予定はない。現在は、牧場ごとの被害と配給の経路を調べている」
「山地で普請を行うか、人を入れることになった場合は、着手前に報告してください。査定中の新規支出と事故は、上納計画へ影響します」
「分かった」
オスヴァルトは山地の項目にも印をつけた。声も、ペンを動かす速さも、それまでと変わらない。
続いて、救済用の干し草をどの牧場へ、どれだけ配ったのかを尋ねた。アリアが、配給帳簿は執務室にあり、明日も調査に使う予定だと答える。
「提出を求める場合は、調査に必要な箇所を写したあとにしてください」
「明日の使用を妨げるつもりはありません。帳簿の所在と、記録を行った者だけ確認します」
アリアは帳簿の置き場所と、記録を担当した者の名を答えた。オスヴァルトは書き終えると、提出物の一覧をゲルハルトの前へ戻した。
ケインは一覧の項目を、最初から見直した。
オスヴァルトは、配給帳簿より先に、山へ入る予定を尋ねた。




