第23話 系統不明
翌朝、ケインがイレーネの寝室へ入ると、マルタはすでに寝台の脇にいた。
寝台の脇には、昨夜の記録が置かれている。マルタは記録より先に、イレーネへ眠れたかを尋ねた。自分の指で脈を取り、胸元へ手を添えて呼吸を確かめていく。
ケインは反対側に立ち、その手が離れるのを待った。
「杯を持ってみていただけますか」
マルタに言われ、イレーネは卓上の杯へ手を伸ばした。片手で持ち上げたものの、口へ運ぶ前に一度、卓へ戻す。
昨日の治癒直後には、休まず二口飲めていた。
「腕が重いですか」
「少し。でも、昨日より悪いというほどではありません」
声は明瞭だった。短い返事だけで息を継ぐこともない。ただ、枕から離していた背は、話し終える前にゆっくり沈んだ。
マルタはもう一度手首へ触れた。
「今は休んでください」
イレーネが目を閉じてから、ようやく卓上の記録を開く。昨夜、目を覚ました回数。息苦しさを訴えた時刻。夕食と水の量。マルタは一つずつ、侍女へ確かめた。
「朝食は」
「粥を五口ほど。昨夕より少ないですが、水は今朝の方が飲めています」
マルタは昨夜の記録と侍女の答えを見比べ、紙を閉じて卓上へ戻した。
「呼吸は施術前より深い。声も保たれています」
ケインは卓へ戻された杯を見た。
「ただ、昨日の直後よりは起きていられません」
「治癒の直後より疲れて見える。それは認めます」
マルタの声が硬くなった。
「ですが、長く衰弱していた方です。治癒を受けた翌朝に同じだけ動けないからといって、施術の結果まで判断されては困ります」
「判断していません」
「では、何を言いたいのですか」
「良くなったことと、今朝できなかったことを分けて残します」
ケインは閉じられた記録へ目を落とした。
「昨日の直後と今朝だけでは足りません。そのために、朝と夕方で同じことを見たいです」
マルタの視線が、ケインの顔から閉じた記録へ移る。やがて、記録をもう一度開いた。
「食事と水、眠り、声が弱くなるまでの様子、起きていられた時間。手足の冷えと息苦しさ」
前日までの項目を、指先で順に確かめていく。
「これを朝と夕方に?」
「はい」
「記録は毎回わたしにも見せてください。食事を替えたことへ、先に結びつけないでください」
「分かりました。原因は後で考えて、変わったことを残します」
ケインは紙を受け取り、今朝の欄へ、杯を一度卓へ戻したことと、短い返事では声が保たれていたことを分けて書いた。その下に、夕方、と新しい欄を作る。
診察を終えて廊下へ出ると、セヴランが窓際で待っていた。
「昨日の続きを、正式に伺います。人の出入りがない部屋を借りています」
「分かりました」
ケインは答えてから、閉じた寝室の扉へ目をやった。昨日、成人の儀について問われたとき、アリアはケインへ視線を向け、返事を待っていた。
「アリア様にも、同席をお願いできますか。成人の儀の結果について、事情を知っています」
セヴランは一度頷いた。
「本人が承知するなら、構いません」
ケインはアリアを捜すため、セヴランとともに階段へ向かった。
アリアは事情を聞くと、すぐに同席を承知した。
案内された小応接室には、四人掛けの卓と椅子があるだけだった。ギルはアリアが入るのを見届け、廊下側から扉を閉める。
セヴランはケインと向かい合い、昨日の二通目を卓上へ置いた。アリアはケインの隣に座った。
「報告には、ケインという名しかありません。まず、あなた自身のことから確認します」
「はい」
「年齢は」
「十五歳です」
「成人の儀を受けたのは、今年ですか」
「今年の春です」
セヴランは聞いた順に紙へ記した。
「出身は」
「西です」
「家を出たあとは、どちらへ」
「街道を東へ進みました。その途中で森へ入り、アリア様たちと会いました」
「この領では、家名を名乗っていないのですね」
「はい」
「家名を失ったのですか。それとも、名乗らないと決めたのですか」
「名乗らないと決めました」
隣で、アリアは膝の上に両手を重ねていた。
セヴランは家名の欄を空けたまま、別の行へペンを移した。
「家を出たのは、あなたの意思ですか」
「違います」
「追放された、と考えてよいですか」
「はい」
「理由は」
ケインは、膝の上で指を組み直した。
「成人の儀で受けた、鑑定の結果です」
セヴランのペンが止まった。
「水晶は反応しましたか」
「はい。表示が出ました」
「神官は、何と言いましたか」
「正規の神聖文字ではなく、読めないと言いました」
「神官は、何と記録しましたか」
「判読不能、系統不明、ランク外です。表示そのものが、どのように記録されたかは知りません」
丸みを帯びた二つの文字は、今なら読める。
けん。
その読み方は、胸の内に留めた。
「家では、その判定を理由に?」
「欠陥のあるギフトだと扱われました。翌朝、追放を告げられました」
セヴランは書き終えてから、昨日の二通目を開いた。
「羊と狐型魔獣を処置した際、右手に反応があったと言いましたね」
「はい」
「その反応と、成人の儀の表示は関係していると考えていますか」
「可能性を最初に指摘したのは、アリア様です。僕も疑っていますが、証明はできていません」
「分かっていることは」
「症状のある動物や、黒い棘のような危険物へ近づけると、右手に圧迫感や痛みが出ます。触れている間、何かが身体へ広がるのを堰き止められることがあります」
「毎回ですか」
「黒い跡や棘に触れたときは反応しました。ただ、強さは同じではありません。圧迫感だけのときも、痛みまで出るときもあります」
「傷を治す力ではない」
「はい。傷の処置は別に必要です」
セヴランはそこでアリアへ顔を向けた。
「あなたは、鑑定結果を知っていたのですね」
「判読不能の表示が出て、それを理由に家を出されたことは、ケインから聞いていました」
「第二報にはありません」
「ケインが自分から話してくれたことです。神殿へ伝えるかは、本人が決めることだと判断しました」
セヴランの指が、二通目の書状の端を押さえた。
「読めないことと、存在しないことは別です」
セヴランは、判読不能の表示あり、と書状の余白へ書き加えた。
「この町の小神殿に、鑑定用の水晶があります。明日の朝、再鑑定を受けてください。同じ表示が出るか確認します」
ケインは右手を膝の上へ置いた。
「分かりました。明日の朝、小神殿へ行きます」
面談を終え、昼食を済ませると、ケインたちは沢中共同牧へ向かった。マルタはイレーネの診察のため領館に残り、ギルがアリアに付き添う。セヴランも、領内の異変を見るため同行した。
沢沿いの道を進むにつれ、水音が近くなった。
共同牧の柵は、流れから少し上がった場所に広がっている。羊の囲いの奥には搾乳小屋があり、その隣の石造りの建物から、温めた乳の匂いが漂っていた。ここで集めた羊乳と牛乳の一部を、チーズに加工しているという。
共同牧を取りまとめる男は、ケインたちを羊の囲いへ案内した。
「黒い跡が出たのは、あの雌です」
示された羊は、自分の脚で立っていた。呼吸は乱れていない。こちらを警戒して顔を上げるが、すぐに足元の草へ鼻先を戻した。右の後ろ脚、その内側の毛を分けると、境の曖昧な黒い跡がある。
ケインは囲いの外で紙を開いた。
「跡に気づいたのは、いつですか」
「春です。毛を刈ったときに」
「その前に、食べる量や乳の出方は変わっていましたか」
「冬の終わり頃から、乳が少し落ちていました。ただ、こいつだけじゃありません」
「救済の干し草が届く前から、調子を落としていた羊はいますか」
男は腕を組み、囲いの中を見回した。
「いました。乳が減ったり、仔をつけにくくなったりしたのは、もっと前からです」
「配給のあと、初めて出たものは」
「ああいう跡と、急に餌を残すやつです。全部じゃありませんが」
ケインは配給が始まった時期と、冬ごとに受け取った量を尋ねた。自家の干し草だけで足りた時期。配給分を半ばほど混ぜた時期。冬の終わりに自家分が尽き、配給分へ頼った囲い。
男は記憶をたどり、曖昧なところでは言葉を止めた。アリアが持参した配給の控えを開き、荷が届いた年と量だけを確かめる。
「この羊は、どの囲いに?」
「去年の冬は、奥の囲いです」
「同じ囲いで、黒い跡のない羊はいますか」
「います。半分以上は出ていません」
「その羊たちも、同じ干し草を?」
「同じ束からやっています」
「水は」
「沢から引いた水を、ここの桶へ。囲いで分けちゃいません」
ケインは紙の水と干し草の欄に、それぞれ同じ印をつけた。
「放牧する場所は同じですか」
「日によって群れを分けます。上の草地へ出す群れと、沢に近い平場へ出す群れで」
「この羊が入っていたのは」
男はすぐには答えず、近くにいた牧夫を呼んだ。ギルが聞き取りを終えた者と、これから話す者を分け、一人ずつ囲いの脇へ通す。
三人の記憶を合わせると、黒い跡のある羊が使っていた草地は、沢沿いと上の草地の両方に分かれた。どちらにも、発症していない個体がいた。
ケインはそこで初めて囲いへ入った。羊の斜め前から近づき、逃げ道を塞がない位置でしゃがむ。目と鼻、口の中、呼吸、腹の動き、脚の運びを順に見る。黒い跡の周囲に熱や腫れはなく、触れられるのを強く嫌がる様子もなかった。
右手は使わず、紙へ所見を足した。
「手を当てないのですか」
柵の外から、セヴランが尋ねた。
「使うなら最後です。この一頭に反応しても、どこで何を受けたのかまでは分かりません」
ケインは立ち上がり、黒い跡のない羊を示した。
「同じものを食べ、同じ水を飲んでいる羊も見ます。違うところがあるなら、そこから探したいです」
次の羊は、同じ囲いで冬を越し、現在も乳量が落ちていなかった。さらに、黒い跡はないが、配給前から少しずつ痩せた羊もいる。症状の始まり方も、その後の経過も、個体ごとに違っていた。
その間に、アリアは加工小屋の担当者と納入帳を開いていた。
「領館へ納めた乳とチーズを、日付と量で確認させてください」
「奥方様のお食事に使われたものですか」
担当者の手が、帳面の上で固くなる。
「まず、ここから何が届いたかを確かめます。使い道は領館の記録と照らし合わせます」
担当者は頷き、印のついた頁を開いた。帳面に残る日付と量はアリアが写し、記憶による話は別の紙へ書き分ける。それぞれの紙の上に「帳面」「聞き取り」と記した。
帰る支度を始める頃には、ケインの紙に三種類の印が増えていた。
配給前から緩やかに衰えたもの。配給後に黒い跡や食欲低下が出たもの。同じ条件に見えても、症状のないもの。
聞き取りを終えたケインたちは、沢沿いの道を領館へ戻った。門をくぐる頃には、空の赤みも薄れ始めていた。
ケインは離れの机へ三枚の紙を並べた。外れ牧場、南原大牧、沢中共同牧。発症した時期、黒い跡、飲み水、放牧地、自家の干し草、配給の干し草、食欲と乳量。同じ項目が同じ位置に来るよう、沢中で増えた欄をほかの二枚にも足していく。
アリアは向かいに座り、納入帳から写した紙を広げた。セヴランは机の端から、三枚を見比べている。
「外れ牧場は、旧流路に近い。急に倒れた羊も、黒い跡も多いです」
ケインは一枚目へ指を置いた。
「南原は旧流路から離れています。それでも、配給の干し草を多く食べたノラに、同じような跡が出ていました」
指を三枚目へ移す。
「沢中は、今の沢の水も、配給の干し草も使っています。でも、配給より前から衰えていた羊と、配給後に症状が目立った羊が混じっています」
「三か所を並べても、水と干し草のどちらか一つには絞れない」
セヴランが言った。
「はい。それに、同じ牧場の中にも違いがあります」
ケインは外れ牧場の紙を手元へ引いた。倒れた羊や狂乱した魔獣に対処したときは、命をつなぐことが先だった。処置の内容は記録してあるが、沢中で尋ねた項目のいくつかが空いている。
「外れ牧場を、同じ項目でもう一度確認したいです」
「比較するなら、ドルフの牧場も必要ですね」
アリアが言った。
「外れ牧場と隣り合っていますが、土地は一段高い場所にあります。ドルフは自分の牧場では高地で刈った干し草を優先していて、配給を受けた量も少ない。領館へ上がった報告では、重い症例も外れ牧場より少ないです」
「明後日の午前に外れ牧場、午後にドルフの牧場を回れますか」
「手配します。ドルフにも、朝から立ち会うよう伝えます」
ケインは二つの牧場名を、明後日の日付の下へ書いた。
翌日の日付に、小神殿と書いてペンを置いた。右手の指先が少し強張る。水晶の冷たさと、神官が答えるまでの長い沈黙を思い出した。
明日、もう一度あの水晶に触れる。




