第22話 治す順番
南原大牧で一夜を明かした翌朝、ケインたちはノラをもう一度診た。
まだ長くは立てず、黒い跡も残っている。それでも、水を飲み、わずかに草を食べ、腹も動き始めていた。
疑わしい干し草を使わないこと、搾った乳を流通させないこと、ノラの状態を記録することを牧夫たちへ頼み、南原を発った。領館へ戻ったのは、日が落ちてからだった。
ドルフは連絡の手順を確かめると、翌朝早く外れ牧場へ戻った。仔羊三頭と、回復途中の羊たちが残っている。
ケインはその日、持ち帰った紙を整理した。
さらに一夜が明けた朝も、離れの机には南原の記録が広がっていた。
黒い跡の位置。食べた草の量。水を飲んだ回数。反芻、排便、乳量、立っていられた時間。
最後の一行を書き足したところで、戸が叩かれた。
「ケイン様。領館へお越しください。地方中枢神殿から、巡察祭司様と治癒師様がお着きになりました」
迎えに来た使用人の声は、普段より硬い。
「僕も、ですか」
「領内の異変と、これまでに行った処置について確認したいとのことです」
ケインは机の紙へ目を落とした。南原で調べたばかりの記録も、その中に含まれるだろう。
紙を重ねて上着を羽織り、使用人のあとについて離れを出た。
応接室には、アリアとゲルハルトが先にいた。ギルは扉の脇に立ち、ケインが入ると一度だけこちらを見る。すぐに、視線を来訪者へ戻した。
灰色の外套を重ねた男は、長身で痩せている。白い祭服は裾が擦れ、袖口にも旅の汚れが残っていた。
隣の女性は小柄だが、肩や腕には厚みがある。治療具らしい鞄を自分で持ち、椅子へ座るより先に、床の乾いた場所へ置いた。
「巡察祭司のセヴランです。こちらは助祭治癒師のマルタ」
二人とも、昨夕には中心集落へ着いていたという。小神殿で報告を確認し、今朝、領館まで来たらしい。
セヴランは挨拶を長引かせなかった。卓上に二通の書状を置く。
「最初の報告を受け、この領は巡察予定に入っていました。二通目が届いたため、回る順を早めました」
古い方の書状には、前年の冬から今年の春までに確認された異変がまとめられていた。
家畜の衰弱。羊の皮膚に現れた、境の曖昧な黒い跡。犬型魔獣の一部に起きた狂乱。
犬型魔獣のくだりで、ケインは顔を上げた。
「ソロも、その報告に?」
セヴランは書状へ視線を落とした。
「個体の名は記されていません。ソロというのは?」
「外れ牧場で、家畜の群れを任されていた犬型魔獣です」
アリアが答えた。
「異変のあと山へ戻った一頭で、小神殿へ伝えた事例にも含まれています」
「では、この報告に含まれる一頭でしょう。ただ、書かれているのは、何頭も山へ戻り、その一部が人や家畜を襲ったということまでです」
ソロ一頭の話ではなかった。
報告を書いた神官は、病とも毒とも呪いとも決めていない。起きたことだけを紙に残している。
セヴランは二通目を開いた。
「こちらには、素性の分からない若者が処置へ加わったとあります」
倒れていた羊が、再び餌を食べ始めた。
狂乱していた狐型魔獣が、処置を受けたあと、自分の脚で山へ戻った。
通常の治癒や祈祷だけでは説明しにくい快復が、続けて確認された。
「狐型魔獣は、治ったと確認できたわけではありません」
ケインは言った。
「処置のあと、自分で歩いて山へ戻った。分かっているのは、そこまでです」
セヴランは反論せず、書状の余白へ短く書き込んだ。
「では、そのように分けます」
それから顔を上げ、ケインを見た。書状に書かれた人物と、目の前の少年を照らしているようだった。
「呪いと断じるには、まだ材料が足りません。ただ、ありふれた病や毒だけで、離れた場所の家畜と魔獣にこれほど異なる異変が重なるとは考えにくい」
セヴランは二通の書状へ指を置いた。
「私はまず、呪いか、何者かの干渉を疑っています。違うというなら、それを確かめるためにも、異変がどこまで広がっているのかを見なければならない」
セヴランが書状を閉じたところで、ゲルハルトがマルタへ向き直った。
「巡察とは別に、頼みがある」
領主として話していた声が、そこでわずかに鈍った。
「妻が数年前から衰弱している。これまで三度、治癒を受けさせた。そのたびに一度は持ち直したが、今は長く起きていられない。診てもらいたい。治癒が必要なら、その費用も領家で負担する」
マルタはすぐには鞄へ手を伸ばさなかった。
「イレーネ様のことは、地方神殿に残る治癒の記録で存じています。最後に治癒を受けたのは、昨年ですね」
「ああ。この領まで治癒師を回してもらえるのは、多くても年に一度だ。こちらの都合で時期を選ぶこともできない」
その治癒師が今、別の務めで領館にいる。
「まず診察します。治癒に耐えられる状態かを確かめたうえで、奥方ご本人にも意思を伺います。それでよろしければ」
「頼む」
ゲルハルトは控えていた使用人に、診察を頼んだことだけ先に妻へ伝えるよう命じた。
そこで初めて、マルタは足元の鞄を持ち上げた。
イレーネの寝室へ向かう途中、マルタは一度だけ足を止めた。
「先に確認します。奥方ご本人は、わたしが治癒を行う可能性をご存じですか」
「先ほど、侍女から伝えさせました。受けるかどうかは、母が決めます」
マルタは頷き、再び歩き出した。
ギルは寝室の前までアリアに付き添い、扉の外に残った。セヴランも室内へ入ったが、寝台から距離を取り、壁際に立つ。
イレーネは背に枕を重ね、上体を起こしていた。前に会ったときと同じ姿勢だが、今日は膝の上に掛けた布を片手で握っている。指先が白くなるほどではない。けれど、扉が開いてから、その手は一度も解かれていなかった。
マルタは寝台のそばまで進み、膝をついた。
「助祭治癒師のマルタと申します。お身体を診せていただき、耐えられる状態なら治癒を行いたいと考えています」
「治していただけるのなら、お願いします」
「始める前に、少し触れます。途中で苦しくなったら、すぐに仰ってください。続けるかどうかも、そのとき改めて決めます」
イレーネが頷く。
マルタは手首へ触れる前にも、胸元へ手を添える前にも、その都度短く断った。呼吸の間隔を見て、問いかけへの返事を待つ。返答が遅くなれば、次の質問を重ねなかった。
動きに迷いがない。人の身体がどこまで耐えられるのかを、何度も見てきた手だった。
「以前の治癒について伺います。三度とも、受けた直後には何か変化がありましたか」
「ええ。最初は、その日のうちに身体が楽になりました。寝台を離れられる日も増えて……数か月は、持ち直していたと思います」
イレーネはそこで息を継いだ。
「二度目も、食事は戻りました。ただ、前ほど長くは続きませんでした」
「三度目は?」
「話すのが少し楽になりました。けれど、それも……」
「数日後には、また食べる量が落ちた」
ゲルハルトが寝台の反対側から補った。
「数週間もしないうちに、寝台から離れられなくなった」
マルタは過去の治癒師について何も評さなかった。効かなかったとも、方法が間違っていたとも言わず、持ち直したものと、再び失われたものだけを聞いていく。
やがて、寝台脇の卓上に置かれた紙へ目を向けた。
「これは、誰が記録したものですか」
「ケインです。母の食事を替えた日から、毎日同じ項目を記録するよう頼まれました」
アリアが答えると、マルタはケインを見た。
ケインは紙を手渡した。
食事と水の量。起きていられた時間。会話の途中で声が弱くなるまでの長さ。発熱や痛みの有無。身体を起こすときに、どれだけ支えが必要だったか。
数字にできなかったものも、その日の言葉で残してある。
マルタは数枚を順に読み、一枚だけ戻って確かめた。
「人を診る仕事をしていたのですか」
「いいえ」
ケインは答えた。
「人を治療した経験はありません」
「では、何を基準に良し悪しを決めたのですか」
「決めていません。同じ時刻に同じことを確かめて、前の日よりできたか、できなくなったかを残しています」
マルタの指が、返事を重ねるうちに声が弱くなった、と書かれた箇所で止まった。
「治癒のあとに出る疲れや、身体が耐えられる量は?」
「僕には判断できません。そこは、治癒師であるあなたに診ていただきたいです」
言い切ると、マルタが紙から顔を上げた。
拒まれるかと思ったが、彼女は記録を閉じなかった。
「分からないことを、分かることと一緒に書いていない。それなら使えます」
マルタはケインへ紙を返し、もう一度イレーネの手首へ触れた。
手は冷え、食欲も戻っていない。
一方で、呼吸が切迫している様子はなかった。強い熱も、急な痛みもない。
マルタはしばらく黙っていた。
何を確かめているのか、ケインには分からない。見えている動作から先を、分かったふりはできなかった。
やがてマルタは、イレーネの手を布団の上へ戻した。
「治癒を受ける力は、まだ残っています」
その声を聞いて、ゲルハルトの肩がわずかに下がった。
「今から始めます」
「少しだけ、お待ちください」
マルタの手が止まった。
アリアとゲルハルトの視線も、ケインへ向く。イレーネだけは驚かなかった。枕へ背を預けたまま、続きを待っている。
「治癒をしないでほしいわけではありません」
言葉の順を間違えれば、そう聞こえる。ケインは卓上の記録を開いた。
「食事を替えたのは四日前です。治癒のあとも、領内の乳と内臓を外した食事を続けられますか」
「手配は済んでいます。領外から届くまでの分も、領館にある穀物と野菜で賄います」
アリアの返事に、ケインは頷いた。開いている頁をマルタへ向ける。
「治癒を始める前に、もう一度だけ同じ項目を確認させてください。呼吸と脈、どれくらい話せるか、自分で杯を持てるか。治癒後にも同じように見ます」
「確認には、どれくらいかかりますか」
「数分です」
「それなら待ちます。ただし、治癒の前後で変化が出ても、それだけで食事が原因だったとは決めないでください」
「はい。今日だけで決めるつもりはありません」
ケインは紙を押さえた。
「治癒のあとも同じ時刻に記録します。また弱るなら、いつから何が戻ったのかを残したいんです」
マルタはイレーネへ顔を向けた。
「数分だけ、確認を先にしてもよろしいですか」
「お願いします。そのあとで、治癒を」
「はい」
マルタはケインが開いている記録へ目を落とした。
ケインは頷き、開いた記録を卓の端へ寄せた。ペンを取り、今朝の日付の下へ、治癒前と書き添える。
イレーネは枕から背を離す。自分だけでは長く保てず、ゲルハルトが肩を支えた。水の入った杯を渡すと、両手で受け取ったものの、口へ運ぶ前に一度、膝の上へ戻した。
呼吸の数を確かめる。手首へ触れ、脈を取る。短い問いを二つ続けると、二つ目の返事で声が薄くなった。
ケインは時刻とともに書き留め、マルタへ紙を見せた。
「終わりました」
マルタは寝台のそばへ膝をつき直した。
マルタはイレーネの両手を取った。
「身体が重くなったり、息が苦しくなったりしたら、すぐに教えてください」
「分かりました」
マルタは目を閉じた。
重ねられた手は動かない。マルタの呼吸だけが、ゆっくりと整っていく。
ケインは寝台から少し下がり、イレーネの胸元を見た。
初めは、呼吸のたびに肩がわずかに持ち上がっていた。やがて、その動きが小さくなる。浅い息を急いで継ぐのではなく、胸がゆっくり膨らみ、吐く息も途中で途切れなくなった。
マルタは手を離さない。
イレーネの指先に急に色が戻ることはなかった。頬が健康な赤みに染まることもない。それでも、重ねた枕へ沈んでいた背が、ほんの少し起きた。
しばらくして、マルタが目を開けた。
「今、苦しいところはありますか」
「いいえ。先ほどより、息が入りやすいように思います」
一息でそこまで答えても、声はすぐには細くならなかった。
ゲルハルトが水差しへ手を伸ばした。杯へ水を注ぎ、妻へ渡そうとする。
イレーネは片手を伸ばした。
ゲルハルトの手が、途中で止まる。
杯は少し揺れたが、イレーネはもう一方の手を添え、自分で口元まで運んだ。二口だけ飲み、膝へ戻す。先ほどのように、口へ運ぶ前に休むことはなかった。
「もう少し、飲んでもよろしいかしら」
「少しずつにしてください。いったん休みましょう」
マルタが答える。イレーネは素直に杯をゲルハルトへ返した。
ゲルハルトは受け取ったまま、しばらく妻の顔を見ていた。
「……効いているのか」
「はい。変化は出ています」
マルタが答えた。ゲルハルトの視線が、開いた記録へ落ちる。
ケインも記録から目を上げた。
「呼吸も、杯を持つ手も、治癒の前とは違います」
三度とも、治癒の直後にはこうして持ち直したのだろう。
ケインは治癒後と書き、時刻と、いま確かめた変化を書き留めた。
マルタが横から記録を確かめる。
「明日の朝も、同じ頃に見てください。わたしも診ます」
「分かりました」
「食事も、替えたものを続けて構いません」
ケインは頷いた。
マルタはイレーネへ向き直る。
「今日はもう休んでください。食べられそうでも、急に量を戻さないように」
それから扉を開け、外に控えていた侍女へ新しい水を頼んだ。
新しい水が運ばれるのを待ち、ケインたちは寝室を出た。
扉が閉じる前、ゲルハルトは寝台の脇へ杯を置いた。イレーネは枕へ身体を預けていたが、目を閉じる前に夫へ何か囁いた。ゲルハルトは短く頷き、掛け布を直してから廊下へ出てきた。
ギルは扉の外に立ったまま、アリアが出ると半歩だけ位置を変えた。
廊下の窓辺に置かれた小卓で、ケインは治癒後の記録を確かめた。向かいではマルタが神殿へ残す施術記録を開き、治癒を行った時刻と、施術を終えた時点の状態を書いている。
セヴランは二人の手が止まるまで待った。
「第二報にある処置について、もう少し聞かせてください」
ケインはペンを置いた。
「倒れていた羊には、何をしましたか」
「冷えないようにして、身体の向きを変え、口を湿らせました。疑わしい草を止めて、黒い跡へ右手を当てました」
「手を当てたのは、なぜですか」
「最初は、何もできないまま離したくなかっただけです。でも、当てている間は呼吸が少し深くなって、離すと浅くなった。黒い跡の縁も、わずかに退きました」
「狐型魔獣にも、同じことを?」
「狐型魔獣には黒い棘が刺さっていました。棘の根元へ同じ手を当ててから抜き、濡らした布で傷を押さえました。そのときも、手が反応しました」
セヴランの目が、ケインの右手へ落ちる。
「どのように」
「熱くなりました。何かが身体の中へ広がろうとするのを、そこで堰き止めたような感触があったんです」
「傷を治したのですか」
「いいえ。傷は残っていました。僕がしたのは、広がるのを止めたところまでだと思います」
思います、としか言えなかった。掌に起きたことを、身体の中で確かめる方法はない。
セヴランは二通目の書状を開いた。
「保温や給水、餌を替えたこと。棘を抜き、傷を押さえたこと。それで説明できる快復もあるでしょう」
指先が、書状の一行で止まる。
「ですが、その手に起きたことは別に考える必要があります」
ケインはその手を握らず、膝の上へ置いた。
「狐型魔獣を見つけた経緯も確認します。あなた方が山で探し当てたのですか」
「先に、ソロが現れました」
「先ほど話に出た犬型魔獣ですね」
「はい。山側の岩に現れて、こちらと山の奥を交互に見ながら吠えました。そのあと、狐型魔獣が藪から出てきたんです」
「あなたが命じたのではない?」
「違います。ソロはもう山へ戻っていました。来ることも知りませんでした」
セヴランはすぐには書き込まなかった。
「偶然とは考えませんでしたか」
「考えました」
「ただ、ドルフさんは、人を呼ぶときの声だと言いました。ソロは僕たちを見て、山の奥を見て、何度も吠えていました」
セヴランは、ようやく余白へ数行を書き足した。
「あなたがした処置は分かりました」
書状を閉じる。
「では、その手に働いたものについて、あなたは何を知っていますか」
廊下には、ペン先が紙を擦る音もなくなっていた。
アリアは何も言わない。ゲルハルトも、答えを促さなかった。
掌の熱。止まった黒い跡。水晶に浮かんだ、自分以外には読めなかった文字。
どこから話せばいいのか、すぐには決められなかった。
セヴランは返事を急かさなかった。
「詳しい話は、明日の朝に改めて聞きます」
そう告げたあと、ケインの顔を見た。
「成人の儀は、済ませていますね」
ケインは、手元の記録から顔を上げた。
「受けました」
廊下の向こうで、水差しから器へ水を注ぐ音がした。




