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第20話 病人の食卓

 午後、窓から差す光が寝台の足元へ移った頃、ケインはイレーネの部屋をもう一度訪れた。


 イレーネは背に枕を重ね、寝台の上で身体を起こしていた。アリアはすぐ手を貸せるよう、寝台のそばに椅子を寄せて座っている。


「長くは取りません。最初に具合が悪くなった時期だけ、確認させてください」


「ええ。そのくらいなら」


 ケインは記録紙を膝に置いた。


「初めは、突然倒れたのでしょうか」


「いいえ。いつから病気だったのかと聞かれると、今でも困るのです。熱を出した日や、起き上がれなくなった日があったわけではなくて」


 イレーネは窓の方へ目を向けた。


「疲れやすくなったのが先だったと思います。朝から屋敷のことを見て回ると、翌日まで身体が重くて。食事も、少しずつ残すようになりました」


「衣服が合わなくなった時期は覚えていますか」


「仕立て直したのは、その年の冬です。腰まわりが緩くなってしまって」


 疲労、食欲低下、体重減少。症状は一度に出たのではなく、少しずつ重なっている。


「その年に、何か覚えている出来事はありますか。季節を確かめたいんです」


「大水がありました」


 答えたのはアリアだった。


「五年前です。何日も雨が続いて沢があふれました。道が崩れ、牧場も被害を受けています。母も屋敷で人の手配をしていました」


「具合が悪くなったのは、その直後ですか」


 イレーネは首を横に振った。


「すぐではありません。水が引いて、道の修繕も始まって……しばらく経ってからです」


「大水は春の終わりでした。夏の終わり頃には、母が昼間に休むことが増えていましたから、三か月ほどでしょうか」


 ケインは紙へ、大水、その下へ数か月、と書いた。さらに疲労、食欲低下、衣服が緩くなる、と続ける。


 時期は重なっている。大水の後始末で無理をしたのかもしれない。食べるものや水が変わった可能性も、別の病にかかった可能性もある。分かったのは、疑うべき時期が一つ増えたことだけだ。


「大水が関わっているのでしょうか」


「まだ分かりません。今は、順番が分かったというだけです」


 アリアは母へ目を向けた。


 イレーネは会話を追っていたが、先ほどより呼吸が深い。掛け布の上に置いた手からも力が抜けていた。


「今日はここまでにしましょう。続きは、ご本人に同じことを何度も聞かずに調べられます。明日、男爵にもお話を伺って、食事や食料庫の記録を確認させてください」


 イレーネが頷くと、アリアはすぐ母の背へ腕を回した。ケインは記録紙を革袋へ収め、二人が姿勢を整えるのを待ってから部屋を出た。


 音を立てないよう、扉を閉めた。


 翌朝、ケインは小食堂の机に、前日までの記録を広げた。


 五年前に始まった衰弱と、その後に受けた三度の治癒。症状の変化は書き出してあるが、普段の暮らしについては、まだ聞けていないことが多い。


 しばらくして、ゲルハルトとアリアが入ってきた。


「待たせたな」


「いえ。お時間をいただき、ありがとうございます」


 二人が向かいへ座るのを待ち、ケインは記録紙を手元へ引き寄せた。


「昨日は、夫人が最初に具合を崩した頃まで伺いました。今日は、それから食事をどう変えていったのか教えてください」


「食事か」


「はい。初めに食べる量が減った頃、厨房では何を用意しましたか」


 ゲルハルトは少し考えた。


「乳粥や、内臓を煮込んだスープだ。この辺りでは、身体が弱った者にはよく食べさせる。妻にも、食事を残すようになってから出させていた」


「最初から毎日ですか」


「いや。初めの頃は、普段の食事も取れていた。ほとんど食べられなかった日に、代わりに出すくらいだ」


 ケインは、発症の横へ乳粥、内臓のスープと書き添えた。


「一度目の治癒を受けたあとは?」


「食欲が戻って、しばらくは家族と同じものを食べていた。乳粥も朝に出ることはあったが、妻だけのためではない」


「では、出す回数が増えたのはいつ頃でしょう」


「二度目の治癒のあとだ」


 ゲルハルトは記録紙に並んだ文字を見ながら答えた。


「あのときも、治癒を受けてから食べられるようになった。ただ、身体はずいぶん痩せていた。厨房には、乳粥やチーズを毎日出すよう命じた。内臓のスープも、それまでより増やしている」


「その後、また食欲が落ちてからも?」


「ああ。普通の食事を残すようになっても、乳粥やスープなら口にできることがあったからな」


 ケインは、時々出していた滋養食を二度目の治癒後に増やし、その後も続けた経過を、病状の変化に沿って書き留めた。


「乳やチーズ、内臓は、領館で普段使っているものと同じですか」


「同じだ。妻のために、特別な仕入れをしたわけではない」


「どの牧場から納められたものか分かりますか」


「領内の牧場だが、納入元は季節によって変わる。そこまでは覚えていない」


「記録は残っていますか」


「食料庫に納入帳がある。厨房にも、何を使ったかは残しているはずだ」


 ケインは紙の端へ、納入帳、厨房の記録、と書き加えた。


 顔を上げると、アリアは記録紙を見ていた。やがて、何かを確かめるように口を開いた。


「ケイン。一つ、確かめてもいいですか」


「はい」


「母が食べているものは、わたしも食べています。乳粥も、チーズも、内臓のスープも。けれど、わたしには母のような症状がありません」


「それは大事な違いです。どのくらい食べていたか、教えてもらえますか」


「乳粥は朝に出ることがあります。チーズも食べます。内臓のスープは、母の分を作った日に、家族の食卓へ出ることがありました」


「夫人と同じ回数ではありませんね」


「はい。母には毎日出していましたが、わたしはそこまで多くありません」


「領館の外で食事をすることは?」


「あります。牧場や村を回る日は、出先でいただくこともあります」


 同じものを食べていても、回数や食事をした場所は違う。ケインは、イレーネの記録とは別にアリアの食事を書き出した。


「これまでに、お母様と同じような症状が出たことはありますか。疲れやすくなったり、食べる量が減ったりした時期は?」


「いいえ。少なくとも、自分では気づいていません」


「アリアも診る必要があるのか」


 ゲルハルトが娘へ顔を向けた。


「今、病気を疑っているわけではありません。夫人と同じものを食べていて、症状が出ていない。その違いを調べたいんです」


「では、症状がないなら、わたしは大丈夫なのでしょうか」


「分かりません。今、症状が出ていないことは分かります。でも、この先も出ないとは言えませんし、食事が関係していない証拠にもなりません」


 アリアの指先が、反対の手のひらを一度なぞった。


「母だけに出したものと、普段の食卓にも出ていたものを、分けて確認した方がいいですね」


「はい。お願いします」


「厨房の記録を見れば、ある程度は分かると思います。料理長にも聞いてみます」


 アリアは立ち上がった。


「食料庫の納入帳は、倉番に用意させます。そこから確認しましょう」


 食料庫の作業台には、納入帳と厨房の記録が年代ごとに積まれていた。アリアが古いものから並べ直し、食料庫を預かる男が一冊目を開いた。


「乳については、入った日と量、その日のうちに厨房へ渡した分を記しています」


「羊と牛の区別はつきますか」


「印を分けています。領内では羊乳の方が多いので、何もなければ羊乳です。こちらの印が牛乳になります」


 男の指が、日付の横に付いた小さな印を追った。牛乳は羊乳よりも入る量が少なく、値も高い。普段の料理には羊乳を使い、病人や身体の弱った者へ出すときは、牛乳を回すことがあるという。


「母の乳粥には、どちらを使っていましたか」


「できるだけ牛乳を使うよう申しつけられていました。足りない日は羊乳です」


 厨房の記録を開くと、イレーネの食事に牛乳を使った日が残っていた。二度目の治癒を受けたあとの頁から、その印がほぼ毎日続いている。


「チーズは?」


「羊乳のものが中心です。牛乳で作ったものも入りますが、多くはありません」


「内臓は、どの家畜のものか分かりますか」


「ほとんどが羊です。肉と一緒に入ることもあれば、屠畜をした牧場から内臓だけ入ることもあります」


 乳も内臓も、決まった一つの牧場から納められてはいなかった。季節や屠畜の時期によって名が入れ替わり、同じ日の欄に二つ、三つの仕入れ先が並ぶこともある。


「領外から買ったものはありますか」


「足りないときには。ただ、領内で用意できるものは、なるべく領内の牧場から買っています」


「私がそうさせている」


 ゲルハルトが言った。


「領外へ売れないものまで領館が買わなくなれば、家畜を手放す牧場が増える。多少高くついても、領内から買う方針にしてきた」


 ケインは頷き、頁を遡った。二年ほど前を境に、一つの牧場からまとまった量が入る日が減っている。足りない分を別の牧場から集めたらしく、少量の記載が同じ日にいくつも続いていた。内臓も、以前より納入の間隔が空いている。


「この頃から、仕入れ方が変わっていますね」


「乳を出せる家が減ったんです」


 食料庫の男が答えた。


「家畜が痩せて乳の量が落ちた、何頭か手放したという話は、あちこちから聞きました。入る日に入るだけ集めるようになって、それでも足りないときは領外から買いました」


「乳を受け取るとき、元の家畜の状態まで確認していましたか」


「そこまでは。牧場から何か言われれば別ですが、こちらで見るのは、運ばれてきた乳の色や臭いです。おかしければ受け取りません」


「家畜が痩せていると聞いていても、乳に異常がなければ?」


「受け取っていました。乳が減っただけなら、飲めないものだとは考えませんから」


 それは、当時としては当然の扱いだった。食料庫が見ていたのは、届いた食材に明らかな異常があるかどうかだ。どの個体から搾った乳か、その家畜が後にどうなったかまでは、納入帳には残っていない。


 ケインは、病状の経過を書いた紙を帳面の横へ置いた。すでに記した日付の脇に、仕入れ方が変わった時期を書き加える。


「牧草が足りなくなったのも、その頃だ」


 ゲルハルトが帳面を見たまま言った。


「家畜を減らすだけでは冬を越せない牧場が出始めた。男爵家で、比較的草の残っていた刈り場から干し草を買い上げ、不足している牧場へ配った」


「始めたのは、二年ほど前ですね」


「ああ。最初は特に厳しい牧場だけだ。翌年には不足を訴える家が増え、配る範囲を広げた」


「夫人が寝台を離れられない日が増えたのも、その頃ですか」


 ゲルハルトは記録紙へ目を落とした。


「……ああ。二年前には、少し休めば動けていたのが、朝から起き上がれない日も増えていた」


 五年前の大水から数か月後、イレーネの衰弱が目立ち始めた。三年ほど前、二度目の治癒後に滋養食を増やした。二年ほど前には救済用の干し草を配り始め、その頃から衰弱の進み方が速くなっている。配給を広げた翌年、三度目の治癒で改善していた期間は、さらに短かった。


 日付は重なっていた。


 ゲルハルトの手が、開いた帳面の端に置かれたまま動かなかった。


 けれど、帳面から分かるのはそこまでだ。干し草を受け取った牧場と、イレーネの食卓へ乳や内臓を納めた牧場がどこまで重なるのか。そもそも食事が病状に関係しているのか。そのどちらも、まだ確かめられていない。


「救済用の干し草を調べるのですか」


 アリアが尋ねた。


「調べる必要はあります。ただ、その前に、どの食材がどこから来たのかを分けたいです。今の記録では、複数の牧場のものが同じ食卓に入っています」


 アリアは納入帳へ目を落とした。乳、チーズ、内臓。その横には、領内の牧場名がいくつも並んでいる。


「では、今夜の母の食事はどうしますか」


 ケインは、開かれたままの厨房記録へ目を戻した。


「乳粥は止めてください。チーズと、内臓を使った料理もです」


「母の分だけですか」


「いえ。当面は、領館の食事から外した方がいいと思います。厨房が同じなら、取り違える可能性があります。それに、アリア様も同じものを食べていますから」


 アリアの指が、記録紙の端に触れた。


「領内から入ったものは、すべて止めるのですか」


「乳と、それを使ったチーズ、内臓だけです。領内の食材がすべて悪いと分かったわけではありません」


 イレーネが治癒後に摂る量を増やしたもの。その仕入れ方が変わった時期と、病状の悪化が速くなった時期が重なるもの。今の段階で外す理由があるのは、その三つだった。


「原因だと確かめられていなくても、止めるのか」


 ゲルハルトが尋ねた。


「はい。確かめてからでは、遅くなるかもしれません。今は候補を一度外して、そのあとの変化を見たいです」


「替わりに何を食べさせる」


「仕入れ先を確認できる穀物と豆を中心にしてください。領外から入ったものが残っているなら、今夜はそれを使えます」


「それなら、倉庫にあります」


 食料庫の男が答えた。


「安全だと言えるのですか」


 アリアの問いに、ケインは首を横へ振った。


「そこまでは言えません。ただ、今調べている乳や内臓とは仕入れの経路が違います。少なくとも、同じ候補を摂り続けることは避けられます」


 食事を替えた日から、イレーネが口にしたものと量を残す。疲れ方や食欲に変化があれば、それも記録してもらう。すぐに状態が変わらなくても、それだけで関係がないとは判断しない。


 ケインが説明すると、ゲルハルトは積まれた帳面へ視線を落とした。


「領館で使う分を、すべて領外から回せば金がかかる」


「はい」


「領内から買う量を減らせば、牧場にも響く」


 ケインは返事を急かさず、待った。


 ゲルハルトはしばらく黙ったあと、顔を上げた。


「どれほど続ける」


「これまで食材を納めた牧場で、家畜の状態と飼料の履歴を確認するまでです。何も関係がないと分かれば、戻せます」


「分かった。今は止めろ」


 アリアが頷き、食料庫の男へ向き直った。


「今夜から、領内産の乳とチーズ、内臓は厨房へ出さないでください。残っているものは捨てず、仕入れ先と納入日が分かるように分けておいてください」


「乳もですか」


「出所の分かるものは、容器を分けて保管してください。日持ちする間だけで構いません。すでに混ぜたものは、そのことが分かるように印をつけて」


「承知しました」


「領外から入った麦と豆の残りを確認して、厨房へ回してください。明日以降の分も手配します。それから、これまで乳と内臓を納めた牧場を、日付ごとに書き出してもらえますか」


 男が頷くと、アリアは続けた。


「今も納入している牧場には、今日のうちに使いを出します。明日から数日、領館への納入を保留するよう伝えてください」


「すべての牧場ですか」


「はい。特定の牧場を疑っているのではなく、母の食事と体調の関係を調べるための措置だと説明してください。再開するまで、乳や内臓は領館へ運ばないようにと」


「承知しました」


 男は帳面を抱え、厨房へ続く扉から出ていった。


 原因が確定したわけではない。特定の牧場を原因と決めつけることも、領内全体の流通を止めることもできない。それでも、領館への納入を一時的に保留し、イレーネの食卓から候補を外すことはできる。


 アリアは納入帳を引き寄せた。


「食材を納めた牧場の家畜から調べるのですね」


「はい。今見た記録だけでは、乳や内臓をどの個体から取ったのか分かりません。牧場へ行って、家畜の状態と、何を食べていたかを確認したいです」


「仕入れ先は、ここにある牧場すべてですか」


「いずれは確認する必要があります。でも、最初は土地の条件が違う場所を見たいです」


 アリアは、納入帳で牛乳の仕入れ先として確認できた牧場だけを別の紙へ書き出した。食料庫の男に頼んだのは、過去の納入日と品目を含む詳しい一覧だ。今は最初に向かう場所を決めるため、各牧場のおおよその位置を添えていく。


「ここからここまでは、西側の牧場です。救済用の干し草を集めた刈り場にも近いです」


「一番離れているのは?」


 アリアの指が、紙の下端に書いた名で止まった。


「南原大牧です。領の南端にある大きな牧場です。羊が中心ですが、牛も飼っていて、領館へ牛乳を納めた記録があります」


 西の刈り場から離れ、土地の条件も違う。それでも家畜に同じ変化が出ているなら、別の共通点を探せる。


「まず、どこへ行きますか」


 ケインは、アリアの指先にある名を示した。


「西の刈り場から、一番離れている牧場へ」


「では、南原大牧ですね」

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