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第19話 治ったあと

 日の出前に目が覚めた。炉へ火を入れる前に外へ出ると、空の端がようやく白み始めたところで、土はまだ夜の冷たさを残していた。離れの裏手には、薪小屋との間に狭い空き地がある。


 ケインは壁際から枝を取った。昨日、薪の束から外れて転がっていたものだ。腕より少し長く、節が少ない。重さは剣の半分もない。両手で握りを確かめ、正面へ構えた。


 振り下ろし、構えへ戻り、足を送る。グレアム家で、日の出前に何年も繰り返してきた型だった。目線の高さも、息を合わせるところも、考えるより先に身体が動く。振り終わりの角度を直す声は、どこからも飛んでこない。ただ、振るたびに重心が前へ流れた。踏み込みは浅く、切っ先は線を描かずに揺れる。左腕の傷が引き攣れて、途中で二度、型が止まった。誰かに見せられる水準ではない。実戦なら、なおさらだ。


 それでも、最後までは通した。息が上がるほどの運動でもないのに、終わる頃には、掌に節の跡が赤くついていた。


 空が明るみ、館の方から井戸の縄の音が聞こえ始める。ケインは枝の泥を払い、軒下の雨に濡れない壁際へ立てかけた。屋敷で稽古のあと、木剣を架へ戻すのと同じ手つきだった。それから水桶の水で顔と手を洗い、火を入れるために中へ戻った。


 火を入れて湯を沸かしたころ、戸が叩かれた。開けると、ドルフが立っていた。


「昨日見た仔羊は、三頭とも朝の餌を食ってる。腹の張りも増えてない。糞も、まあ、ましになった」


「水は」


「飲んでる。桶の減りも昨日と同じくらいだ」


 報告は短く、余計な見立てを挟まなかった。ただ、水の減りを答えるころには、ドルフの視線は机の上で止まっていた。ケインもつられて見る。記録紙の束と、伏せた椀と、布の包み。何が気になったのかは分からなかった。


「ありがとうございます。昼を過ぎたら、僕も見に行きます」


「あれはなんだ」


「魔獣から抜いた黒い棘です。抜いたあとに崩れて、砂になったので、そのまま包んであります」


 ドルフは部屋へ一歩入り、包みの隣に伏せてある椀を顎で示した。


「そんなもんを横に置いて、飯食ってるのか」


「え、ああ、はい」


「あんた、餌小屋でも飼料の横にこんなもんを置かせねぇだろ」


「……はい」


 答えてから、ケインは机を見た。離れへ入った夜から、ずっとそうして並べていた。餌小屋でこれを見つけたら、その日のうちに置き場を分けさせているはずだ。


 棚に、蓋の付いた小さな陶の器が伏せてあった。塩か何かを入れるために館から回された物で、まだ使っていない。ケインは器を机へ下ろし、布の包みをそのまま中へ収めて蓋を閉じた。中の砂は、匙に二、三杯もない。


 器は棚の上段の奥へ置き、食器や替えの布から離した。処分の仕方が決まるまでの置き場としては、机の上よりましだった。


 机の上を濡らした布で拭き、桶の水で手を洗う。ドルフは戸口に立ったまま、それが終わるまで動かなかった。


「昼までに変わったら、また来る」


 短く言って、牧場の方へ戻っていった。


 ドルフを見送ってから、ケインは記録紙へ仔羊の様子を書き留めた。三頭とも餌と水は取れている。昼を過ぎたら、自分の目でも見に行くつもりだった。


「ケイン、いらっしゃいますか」


 戸の外から、アリアの声がした。


 扉を開けると、アリアは一人で立っていた。朝の挨拶を交わしたあとも、すぐには用件を口にしない。


「お母様が、診てほしいとおっしゃっています」


「夫人が?」


「はい。先日、ケインと話したあと、ご自分から」


 ケインはすぐには答えなかった。動物と人では、身体の仕組みも、使える薬も違う。


「先日も申し上げましたが、診れば原因が分かるとは約束できません」


「それも、母には伝えました」


 アリアは返事を待っていた。急かす様子はない。身体の前で重ねた指にだけ、いつもより強く力が入っていた。


「分かりました。ただ、途中でお疲れになるようなら、そこで止めます」


「はい。母が大丈夫だと言っても、私が止めます」


 ケインは机へ戻り、記録紙とペンを革袋へ入れた。ほかに何を持てばよいのか考えたが、思いつく物はなかった。肩へ掛けた革袋は、牧場へ向かうときよりも心許なく感じるほど軽かった。


 アリアとともに館へ入り、イレーネの寝室へ向かった。廊下では使用人たちが朝の仕事に行き交っている。アリアは足を速めず、ケインも隣で歩調を合わせた。


 寝室の前で、アリアが扉を叩いた。


「お母様。ケインをお連れしました」


「どうぞ」


 中にはゲルハルトもいた。窓際の椅子から立ち上がり、二人を迎える。寝台では、イレーネが背に枕を重ねて身体を起こしていた。


「来てくださって、ありがとうございます」


「いえ。アリア様から伺いました」


 ケインは寝台から距離を置いたところで足を止めた。


「念のため、夫人にも確認させてください。本当に、僕が診てもよろしいんですか」


「ええ。私からアリアに頼みました」


 声は小さいが、答えははっきりしていた。


「僕が診てきたのは動物です。今日だけで病の原因が分かるとは限りません。まずは今の状態と、これまでの経過を伺いたいと思っています」


「承知しています。それでも、お願いします」


「疲れたら、その時点で止めます。遠慮せずに言ってください」


 イレーネが頷く。その隣で、アリアは身体の前で重ねていた指をほどいた。


 ケインは椅子へ腰を下ろし、記録紙を膝の上に広げた。向かい合ってみると、顔色は前に会ったときよりもよく見える。それでも頬は痩せ、掛け布の上に置かれた手には骨の形が浮いていた。


「今、一番つらいのは、どんなことですか」


 イレーネは少し考えた。


「身体が、長くもたないことですね。起きていることも、食べることも、途中で疲れてしまいます」


「息苦しくなることはありますか」


「苦しいというほどではありません。ただ、動いたあとは横になりたくなります」


「痛みは」


「長く座っていると、背中が。今はありません」


 答えている間、呼吸や声に目立った乱れはなかった。会話も途切れずに続いている。


「普段は、どのくらい歩けますか」


 イレーネは窓際の椅子へ目を向けた。


「調子のよい朝なら、あそこまで。毎日ではありませんけれど」


 十歩もない距離だった。


「昨日は歩いていません。その前の日は、途中で戻りました」


 アリアが静かに付け加える。


「アリア」


「きちんと答えると約束しましたよね」


 咎める口調ではなかった。イレーネは困ったように笑い、それ以上は否定しなかった。


「食事は取れていますか」


「日によります。昨夜は半分ほど食べました」


「熱が出たことは?」


「このところはないな」


 答えたのはゲルハルトだった。


「以前はどうでしょう」


「病が重くなった頃には何度かあった。少なくとも半年は出ていない」


 ケインは記録紙へ書き留めた。


 高い熱も、強い痛みもない。呼吸は落ち着いており、意識もはっきりしている。それでも、痩せ方と体力の落ち方は軽くなかった。


「手首に触れてもよろしいですか」


 イレーネが頷いてから、ケインは手を伸ばした。皮膚は乾き、やや冷たい。脈を数える。速さは一定で、大きく乱れることもなかった。


 掌は静かなままだった。西の草に触れたときのような疼きも、押し返してくる圧もない。この手が何に応えているのか分からない以上、反応がないことを判断の材料にはできなかった。


「腕も、見せていただけますか」


 袖をまくると、肘の内側まで肌が露わになった。黒い跡はない。刺された痕も、腫れも見当たらなかった。


 腕は細く、筋肉も落ちている。羊のように数日で削げた痩せ方とは違う。長い時間をかけて、少しずつ失われてきたように見えた。


 ケインは袖を戻し、今日の日付と、いま見たものを書いた。ペンを止めると、イレーネが紙を見ていた。


「羊のときも、そうやって書いていたのですか」


「はい。書かないと忘れるので」


「正直な方」


 イレーネが小さく笑う。


 いま診た範囲では、すぐ処置が必要な異常は見当たらない。だが、目の前の衰弱を説明できるものも見つかっていなかった。


「これまでの経過を、伺わせてください。治癒師の処置を、三度受けたと聞いています」


 ゲルハルトが窓際の椅子を引き寄せ、寝台のそばへ腰を下ろした。


「悪くなったときのことより先に、一度よくなったときのことを教えてください」


「最初に治癒師を招いたのは、四年前だ」


 ゲルハルトが答えた。


「その頃は、どんな状態でしたか」


「朝は起きられても、午後まで身体がもたなくなっていました。食堂へ行かず、こちらで食事を取る日も増えていましたね」


「治癒を受けたあとは?」


「疲れが残りにくくなりました。家族と食事をして、庭へも出られるようになって……しばらくは、以前の暮らしに近いところまで戻れたと思います」


「どのくらい続きましたか」


「四か月ほどだ。秋の終わりには、また寝室で休む時間が増えていた」


 ケインは紙へ、四年前、治癒、改善、四か月、と書き込んだ。


「二度目は?」


「その翌年だ」


「前と同じように、治癒のあとは楽になりましたか」


「ええ。ただ、最初のときほどではありませんでした」


 イレーネは掛け布の上で指を組み直した。


「朝から動ける日は増えましたし、食事も取りやすくなりました。午前中なら、屋敷のことを見て回ることもできました」


「よくなっていたのは、どのくらいですか」


「ひと月よりは長かったと思います」


「二か月は、もたなかった」


 ゲルハルトが言った。ケインは四か月と記した下へ、二か月未満、と書き加えた。


「三度目は、去年ですね」


 イレーネが頷く。


「その頃には、一日の多くをこちらで過ごしていました。それでも、調子のよい日は居間へ出ていましたし、食堂へ行くこともありました」


「治癒のあとは、どう変わりましたか」


「身体が軽くなりました。食事も増えて、昼間に横になる時間が減りました」


「それは、どのくらい続きましたか」


 ゲルハルトの手が、椅子の肘掛けに置かれた。


「……二週間も続かなかった」


 ケインは、一年前、治癒、改善、二週間未満、と書いた。


 三度とも、治癒のあとに軽くなっている。効かなかったのではない。効いて、そのあと戻っている。しかも、戻るまでの時間が回を追って短くなっていた。


「治癒を受けたあと、暮らしの中で変えたことはありませんでしたか。何でも構いません。部屋を移した、寝具を替えた、水を汲む場所を変えた、そういうことでも」


 イレーネがゲルハルトを見る。


「二度目のあと、私が厨房へ命じた」


「どのようなことを?」


「治癒を受けても、最初のときほど身体が戻らなかった。少しでも力がつくよう、滋養のあるものを増やさせた」


「それまでとは、食べるものを変えたということですか」


「ああ。量を増やせるものは増やし、食べやすいようにもさせた」


 ケインは二度目の治癒の下へ、食事を変更、と書き加えた。


「何を増やしたかは、次に詳しく伺わせてください」


「今、お話ししても構いませんよ」


 そう答えるまでの間が、先ほどよりわずかに長かった。イレーネは姿勢を崩してはいないが、背中を預ける枕へ身体が深く沈んでいる。寝台の脇では、アリアが母の様子を見ながら、枕へ手を添えていた。


「今日はここまでにします。僕の方でも、伺ったことを一度整理したいので」


「もう少しなら、大丈夫です」


「続きは、休んでからお願いします。同じことを何度も尋ねないように準備してきます」


 イレーネはケインを見てから、娘へ目を移した。アリアは何も言わなかったが、枕から手を離さない。


「分かりました。では、続きは次に」


「ありがとうございます」


 ケインは記録紙を重ね、革袋へ戻した。ゲルハルトが椅子から立ち上がり、アリアは母の背を支えながら、重ねていた枕を一つ抜いた。


 アリアが掛け布を整えると、イレーネは目を閉じた。すぐに眠ったわけではないらしく、枕元を離れようとしたアリアへ、小さな声で礼を言う。


 ケインは寝台から距離を取り、扉へ向かった。


「ケイン」


 呼び止めたアリアも、声を抑えていた。


「何か、分かったのですか」


 ケインは肩に掛けた革袋へ手を添えた。


「原因は、まだ分かりません。ただ、三度とも治癒のあとには持ち直しています。治癒が効かなかったわけではないと思います」


 アリアが父を見た。ゲルハルトも、寝台のそばで足を止めている。


「なら、なぜまた悪くなった」


「そこは、これから調べます。治したあとも身体を害するものが入り続けていたなら、また悪くなることはあります」


「入り続けるもの、ですか」


「まず調べるのは、毎日、口にするものです」

 

 ゲルハルトはしばらく答えず、横になった妻へ目を向けた。


「妻のために変えたものも、調べるということか」


「はい。身体に良いものを増やしたつもりでも、何を使い、どう作っているのかを見るまでは、関わりがないとは言えません」


 ゲルハルトは目を伏せ、それから頷いた。


「次は、具合を崩す前から今まで、何を食べ、何を飲んできたのかを伺います。病気になってから増やしたものは、時期も一緒に」


「厨房にも、記録は残っているはずだ」


「夫人のお話と突き合わせたいので、見せてください」

 

 アリアは母の様子を見てから、ケインを扉まで送ろうとした。


 そのとき、寝台脇の小卓が目に入った。


 盆の上には、まだ手をつけられていない乳粥が置かれていた。

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