第18話 幕間:名のない噂
町の門が見えてきた頃には、日が屋根の向こうへ落ちかけていた。
騎士様が納めている町だ。グレアムとかいう、剣で食っている家の。塩と針の売れ行きには関わりがないので、男が知っているのはそこまでだった。門は日暮れで閉まる。男は荷馬を急かした。
門前には、槍を持った兵が二人。検めの台の奥に、仕立てのいい上着に剣を帯びた若いのが立っていた。
兵の一人が振り返る。
「ダリオ様、こいつで最後ですかね」
若いのは返事をしなかった。当番の騎士らしい。
「どこから来た」
兵が訊いてきた。
「東からだ。男爵領を抜けてきた」
「ヴァンデンガルフか。よく通るな、あんな所。呪われてるって話だぞ」
「おかげで商売敵がいねえ」
男は荷台の覆いを開けた。塩の残り、針の束、油の壺、革。兵が槍の柄で覆いの奥を軽く突く。
「で、どうだった、呪いの土地は」
「それがな、解けたんだと。呪い」
「はあ?」
「倒れて動けなくなってた羊が、起きて飯を食ってる。牧場は動いてた。この目で見た」
「呪いってのは、解けるもんなのか」
「呪いじゃなかったんだと。毒草だ。西の刈り場の草に、毒の混じったのがあった。悪い草と、いい草を選り分けたそうだ」
「へえ」
兵は気のない返事をして、革の束を持ち上げ、戻した。
「誰がそんな器用な真似を」
「流れの若いのだと。素手で草に触って、毒のある場所を当てるらしい。まだガキだそうだ」
「妙な芸もあるもんだ」
もう一人の兵が笑った。
「その毒草、こっちに流れて来やしねえだろうな」
「草だぞ。歩くかよ」
兵同士で言い合って、それで終いだった。検めは済んだらしい。男が覆いを直していると、それまで黙っていた騎士が口を開いた。
「その流れ者。名は」
「さあ……聞いたはずだが、出てこねえな」
男は思い出そうとした。囲いの前で、牧夫の誰かが確かに口にした。だが、駄目だった。塩の目方なら十日前のものでも覚えているが、売り買いに関わらない流れ者の名前は、袋の破れ目から零れるように落ちていく。
「家名はねえそうだ。訊いても、誰も答えなかった。ただの流れ者だよ」
「……通れ」
騎士は顎で門を示した。それきり、こちらを見もしなかった。
男は宿の囲いに荷馬を入れ、飼い葉を頼んでから、左前の脚に手を這わせた。腫れはない。熱もない。蹄の石を出してから、歩みは揃っている。
——左の前を、庇っています。
思い出して、手が止まった。虫の好かないガキだった。目が合っただけで、値切られたような気分になった。だが、蹄の石は本物だった。あのまま二日歩かせていたら、今頃この馬は脚を引きずっていた。
飯を食って、寝る。明日は残りの革を捌いて、帰りの荷を仕入れる。それが済めば、あとは東の街まで、来た道を戻るだけだ。
♢♢♢♢♢♢
夜の報告は、灯を一つだけ点けた執務室で行われる。
門番の割りを三日ぶんまとめて組み直したこと。蔵の南の錠が緩んでいたので、鍛冶に出したこと。馬房の二番の蹄鉄が明日替わること。レオンが順に述べる間、父は机の帳面から顔を上げず、筆だけを動かしていた。聞いていないのではなく、聞き終えた側から仕分けている。長年見てきた、父の型だ。
騎士の家に、剣のほかの財産はない。あるのは預かった町と、任される役目と、それを支える評判だけだ。だから帳面は毎晩検められ、報告は欠かさず上がる。
扉が叩かれたのは、報告が終わりに掛かった頃だった。
「夜分に失礼します。門の当番から、一件」
ダリオだった。剣を帯びたままの、当番明けの姿だ。父が顎を引くのを待って、入ってくる。
「日暮れに、東から行商人が入りました。男爵領を抜けてきたそうです。——妙な話を運んでいます」
「噂か」
「呪いが解けた、と。倒れていた羊が起きて、飯を食っている。呪いではなく毒草で、西の刈り場の草に毒が混じっていた。流れ者がそれを選り分けた——素手で草に触って、毒のある場所を当てるそうです。まだ若い。ついこの間からの話だと」
筆は止まらない。頁の擦れる音がして、父は短く言った。
「名は」
「出ていません。商人に確かめました」
確かめたのか、とレオンは思った。
「家名のない流れ者だそうです。名乗りも、誰も覚えていない」
ダリオはそこで、薄く笑った。
「歳恰好は合いますが——あれのはずがない。素手で毒を当てる? 逆でしょう。あれは、そばに立つだけで人の気分を悪くさせる質だった。剣も振れず、ギフトも読めなかった男が、領地一つ救うものですか」
誰も答えなかった。
「その商人は」
レオンが訊いた。
「宿に入れました。残りの荷を捌いたら、東へ戻るのでしょう」
父は帳面を一枚繰った。
「……いい。下がれ」
「はい。失礼します」
ダリオは一礼して出て行った。扉が閉まり、レオンは報告の残りを述べて、執務室を出た。
廊下は冷えていた。噂はいま、名を持っていない。名無しのままなら、東の与太話で終わる。だが、儀の判定は神殿の記録に残っている。あの場には、領主家の使いも立っていた。判読不能。系統不明。十五の三男。——噂に名がひとつ乗れば、あとは家の外の人間が勝手に帳尻を合わせる。家に、それを止める手はない。
誰も、名を口にしなかった。
父も、弟も、自分もだ。あの名は、家から出て行く荷と一緒に、この屋敷の帳面から落とされている。落としたのは、この家だ。
儀から、まだひと月と経っていない。まだ若い。素手で、毒を。東の男爵領で、ついこの間から——
そこで打ち切った。可能性で剣は振れん。父の言葉は正しく、あの日の判断は家の判断として正しい。仮定に帳尻を合わせる理由は、どこにもない。
自室へ戻り、レオンは手入れの途中だった剣を取った。砥石に水を打ち、刃を寝かせ、引く。規則正しい音が戻ってくる。門番の割り、蔵の錠、明日の蹄鉄。頭の中で、今日の残りが順に片づいていく。
しばらくして、レオンは手を止めた。
研ぎ終えていた側の刃を、もう一度、砥石に当てていた。
♢♢♢♢♢♢
町では、二晩を過ごした。革は思ったより良い値で捌け、帰りの荷には麦と鉄物を積んだ。三日目の夜明け、男は荷馬を曳いて門を出た。朝の門は、出る者を検めない。
街道は空いていた。日が上がるにつれ、荷馬の足取りも軽くなる。石を出した左の前は、もうすっかり揃っていた。悪くない商いだった。それに、呪いが解けたのなら、来年は羊毛が動く。あの道筋は、また使える。
道の先、東の空の下には、森が低く霞んで見えた。あの縁を回った先が、男爵領だ。
昼前に、村が見えてきた。街道沿いに、木造の家が数軒並ぶだけの村だ。旅人相手の小さな店と、馬を休ませるための囲いがある。男はいつもどおり、井戸の脇に荷馬を寄せた。
「おう、もう戻りかい」
店先の男が声を掛けてきた。
「ああ。商いが早く済んだ」
「東はどうだった。呪いの土地は、まだ呪われてるかい」
「それが、解けたそうだ」
「へえ」
店先の男は、たいして驚いた風もなく、そうかい、と言って奥へ引っ込んだ。ここらの連中にとって、東の男爵領がどうなろうと、遠い話なのだろう。
村は静かだった。どこかで鶏が鳴き、家の間に張られた縄で洗い物が揺れている。昼餉の煙が一筋、屋根の上に立っていた。
男は桶に水を汲み、荷馬に飲ませた。飲み終えるのを待って、村外れまで曳いていく。道の脇で馬を停め、左の前脚を持ち上げた。蹄の裏に石はない。石を出してからこっち、つい見るようになった。
脚を下ろして顔を上げたとき、藪の中の黒が目に入った。
道から数歩外れた、膝ほどの高さの疎らな藪だ。その中に、黒い茎が一本、立っていた。
艶のない、焦げたような黒。枯れ枝にしては真っ直ぐで、丈は藪と変わらない。根元は絡んだ枝に隠れて、見通せない。
焚き火の燃え残りか、と男は思った。妙な所で火を焚くものだ。
近寄って確かめる気は起きなかった。急ぐ旅ではないが、寄るほどの物でもない。
男は手綱を取り、歩き出した。荷馬が続く。黒い茎が、視界の端を流れて、消えた。




