第17話 根を下ろす
「会うのは構いませんが」
ケインはアリアの顔を見て、先に伝えておくべきことを続けた。
「僕が診てきたのは、人ではなく動物です。お母様に会っても、病の原因が分かるとは限りません。治せるとも約束できない」
「分かっています」
アリアの返事は早かった。ただ、開いていた手をゆっくりと握るまでに、わずかな間があった。
「今日は、会っていただくだけで構いません。母にも、牧場で何があったのかを聞いてほしいのです」
それなら、断る理由はなかった。ケインが頷くと、アリアは階段を上がり、館の奥へ向かった。
先ほどまでいた部屋から離れるにつれ、廊下は静かになっていく。燭台の火は一つ置きに消され、二人の足音だけが石壁に返ってきた。突き当たりに近い扉の前で、アリアが立ち止まり、控えめに二度叩く。
「お母様。アリアです」
少し間を置いて、中から返事があった。声は小さかったが、聞き返すほどではない。
アリアが扉を開けると、薬湯と、長く火を焚いている部屋の匂いがした。窓には厚い布が引かれ、寝台の脇には水差しと閉じた本が置かれている。炉では細い薪が、火を絶やさない程度に燃えていた。
寝台の上で、女が上体を起こしている。肩には薄い掛け布を重ねていた。顔立ちはアリアに似ているが、目元は娘より柔らかかった。
「ケイン。母のイレーネ・ヴァンデンガルフです」
「ケインと申します」
頭を下げると、イレーネは静かに頷いた。
「どうぞ、こちらへ。扉のそばに立たれていると、追い返しているようで落ち着きません」
勧められた椅子へ腰を下ろす。
人の顔を見れば、色や息遣いを確かめる癖は止められなかった。手の置き方や声の張り、身体を起こすときの動きまで目に入る。異変の兆しなら、ある程度は拾える。だが、人の病を診断し、治療する知識は別だった。見えたものだけで分かったふりをするつもりはなかった。
アリアは寝台のそばへ進み、椅子の位置を直した。イレーネの手が娘の袖へ一度だけ触れ、アリアは何も言わずに水差しへ手を伸ばす。
「この数日は、ずいぶん話が長かったのですよ」
イレーネが言うと、杯へ水を注いでいたアリアの手が止まった。
「羊が倒れた順番と、刈り場の位置。それから、水をどこから引いているか。眠る前まで、何度も聞かされました」
「必要な報告です」
「ええ。久しぶりに、続きを聞きたい報告でした」
アリアは杯を母親へ渡したが、それ以上は何も言わなかった。イレーネは一口だけ水を含んでから、ケインへ視線を戻す。
「牧場で何があったのか、あなたからも聞かせていただけますか」
ケインは、倒れる羊が西側の区画に偏っていたことから話し始めた。水と草を分けて確かめ、刈り場の一部に原因らしいものを見つけたこと。餌を替えた羊が、少しずつ食べ始めていること。
それから、山で見つけた狐型の魔獣についても話した。身体に刺さっていた黒い異物を抜き、処置のあと、自分の脚で山へ戻れたことまでを順に伝える。イレーネは途中で口を挟まず、最後まで聞いていた。
「羊だけでなく、犬型魔獣も。それに、山の獣まで診てくださったのですね」
「山の獣は、たまたまです。目の前に運ばれてきたので」
「運ばれてきた?」
「犬型魔獣が、人を呼びに来ました」
イレーネは娘の方を見た。
「そこは、まだ聞いていませんでした」
「話す順番を考えていたのです」
「夜が明けてしまいそうですね」
アリアは僅かに眉を寄せたものの、反論はしなかった。
イレーネはケインへ向き直った。
「この領の半分は、もうあなたの患者ですね」
「……半分は、多すぎる気がします」
「では、三分の一にしておきましょうか」
「それでも、ずいぶん多いです」
イレーネの口元が緩み、隣でアリアも小さく息を吐いた。ケインは膝の上の手を一度握り、すぐに力を抜く。
「明日は、西の刈り場へ行くのですよね」
「はい。日の出る前に、草を確かめます」
「では、あまり引き留めてはいけませんね。アリアは仕事の話になると、相手が怪我人でも容赦をしませんから」
「ケインが行くと言ったのです」
「否定はしません」
ケインが答えると、アリアの視線が向いた。
「傷が悪化したら、牧場へ着く前でも戻します」
「気をつけます」
「気をつける人は、噛まれた腕で棘を抜きません」
返す言葉が見つからずにいると、イレーネが二人を見比べて、また僅かに笑った。
ケインは椅子から立ち上がった。
「今日は、お会いいただきありがとうございました」
「こちらの言葉です。羊たちのことを、よろしくお願いします」
「できることから、やります」
イレーネは静かに頷いた。ケインももう一度頭を下げ、アリアとともに部屋を出る。
扉を閉めて廊下を歩き始めると、アリアが小さく息を吐いた。
「ありがとうございました」
「会って、話をしただけです」
「それでもです」
アリアはそれ以上説明せず、廊下の先へ視線を向けた。
「離れは、もう整っているはずです。明日の朝は早いので、今日は休んでください」
「努力します」
「努力ではなく、休んでくださいね」
足を止めずに言われた。ケインは返事をせず、その隣を歩いた。
離れは、領館の裏手にあった。
館の壁沿いに続く石畳を抜け、薪小屋と古い厩舎の間を通ると、小さな建物が見えてくる。石積みの土台に木の壁を載せた簡素な造りで、正面の狭い窓から灯りが漏れていた。
「以前は、牧場を預かる者が使っていました。領館の表を回らずに、牧場へ向かう道に出られます」
アリアが扉を開けると、炉で暖められた空気が流れてきた。
中は一部屋だけだった。奥に寝台があり、壁際には机と棚、小さな炉が置かれている。机には水差し、土間には水桶と湯を入れた桶が並び、寝台には新しい敷布が張られていた。壁の隅や窓枠には古い染みが残っているが、床には急いで掃き清めた跡がある。
「十分すぎます」
「今日は、最低限しか用意できませんでした。足りないものは、明日以降に揃えます」
これで最低限らしい。
ケインは肩の革袋を下ろし、机へ置いた。残った路銀と水袋、黒い砂を包んだ布。それから腰の短剣を外し、隣へ並べる。
荷物は、それで全部だった。
三段ある棚の一角すら埋まらない。追い出されたときに持たされた物も少なかった。屋敷に置いてきた物を、取り戻したいとも思わなかった。
アリアは机の上を見たものの、そこには触れなかった。
「明朝は、日の出る前に出ます。ドルフには伝えてあります」
「西の割りを刈る前に、反応の残る場所を確かめます。境を間違えれば、刈ったあとで分け直すことになりますから」
アリアは水差しと炉の火を確かめた。
「食事は机にあります。何かあれば、夜でも館へ来てください」
「分かりました」
アリアは念を押すように一度こちらを見てから、離れを出た。扉が閉まり、石畳を遠ざかる足音が聞こえなくなると、部屋には炉の薪が爆ぜる音だけが残った。
ケインは外套を脱ぎ、壁の木釘へ掛けた。揺れていた裾が、やがて壁際で止まる。
桶の湯で腕や身体についた汚れを落とし、脇腹と左腕の傷を確かめた。赤みは広がっておらず、熱も朝と大きくは変わらない。布を替えてから、机の上の盆に手を伸ばす。
食事は黒パンと、肉を少し入れた煮込みだった。塩気は強かったが、疲れた身体にはありがたい。残さず食べ、器を土間の端へ寄せた。
西の刈り場。黒い砂。戻らない犬たち。
机の包みへ手を伸ばしかけ、やめる。
灯りを落として寝台へ横になると、敷布から日に干した布の匂いがした。炉の中で小さく薪が崩れ、その音を聞いているうちに、瞼が重くなっていった。
西の割りの刈り取りは、翌朝から始まった。
ケインが指を通した列から刈る。縄の内側で刈った草は、ほかの束と混ぜない。際の草は一度脇へ置き、迷えばドルフかケインを呼ぶ。それが手順になった。初日は何度も声がかかったが、二日目には、牧夫たちだけで決まる場所が増えていた。誰も理由を訊かない。訊く代わりに、迷えば残す。
羊の群れにも、変化が出ていた。立てなかった一頭は、まだ長くは歩けないものの、自分で餌の前まで行くようになった。食べる量も戻り始めている。痩せた腹も荒れた毛もそのままだが、朝の見回りで、呼びかけても顔を上げない羊は見当たらなくなっていた。
ケインは朝に羊を診てから刈り場へ出て、夕方になると離れへ戻った。傷の布を替え、外した布を洗って炉の前へ掛ける。その日の餌の量と羊の様子を紙へ書き残し、翌朝に見る順番を決める。外套を掛ける木釘も、水差しを置く場所も、もう手を伸ばす前に考えなくなっていた。
アリアとギルが刈り場に立ったのは、初めの二日だけだった。三日目からは、布告を持って村を回っているらしい。
三日目の夕方、ドルフは荷車から縄を下ろしながら言った。
「親と同じ草を食い始めた仔がいる。明日、そっちも見てくれ」
「分かりました」
ドルフは荷車を押していった。その先、犬舎の壁際の杭には、古い革紐が巻かれたままだ。手前に浅い木皿が二つ置かれ、一つには干し肉の切れ端が、もう一つには水が入っている。昨日までは、なかった。
ケインは足を止めた。
「余ってたから置いただけだ」
先を歩いていたドルフは、振り返らなかった。
ケインは木皿を見たが、それ以上は訊かなかった。
翌朝、干し肉は半分ほどなくなっていた。皿の周りの土には犬型魔獣のものらしい足跡が残り、犬舎の入口まで続いている。中へ入った形跡はなく、杭の手前で向きを変えていた。
屈んで見ていると、ドルフが後ろから覗き込んだ。
「ソロかもしれません」
ドルフはしばらく土の跡を見てから、水の入った木皿へ目を移した。
「水、足しといてくれ」
「はい」
ケインは井戸から汲んだ水を足した。足跡は追わなかった。
昼を回った頃、番小屋の前に荷馬が一頭、停まっていた。
荷を解いて広げているのは、痩せた中年の男だった。塩の袋、針の束、油の壺、革の切れ端。牧夫たちが手を止めて集まっていく。行商が回ってくるのは久しぶりだと、誰かが言った。
ケインはパンを齧りながら、離れた石に腰を下ろしていた。目は、自然と荷馬の方へ行く。
肋は浮いていない。毛艶も悪くない。よく使われて、よく食わされている馬だ。ただ、四肢に体重が均等に乗っていない。左の前を、庇っている。
「呪いが解けたってのは、本当かい」
男の声が飛んだ。牧夫たちの何人かが、いっせいに喋り出す。
「本当さ」
「羊が立った。倒れてたやつが、飯を食ってる」
「草だよ。西の草に毒があった。それを、素手で触って当てちまうんだ」
「魔獣も手懐けた。山から下りてきて、人を呼ぶんだぜ」
ケインはパンを飲み込んだ。半分は合っている。
行商人は手を止めない。塩の袋を秤に載せ、目盛りを読みながら聞いている。
「そりゃ、羊毛はどうなる」
牧夫たちが黙った。
「来年、毛は出るのかい。買い手に、なんて言えばいい」
「……出る」
ドルフだった。荷車の陰から出てきて、秤の目盛りを覗き込む。
「今年のは無理だ。来年から、だんだんとな」
「ほう」
男の手が、初めて止まった。
「そりゃ、いい話だ。この辺りは、もう終いだと言われてるからな」
「終いじゃねえ」
ドルフは秤から目を離さずに言った。
「草を分けただけだ。悪いのと、いいのを」
行商人は、しばらくドルフを見ていた。
「で、どこの誰だい。その、草を分けたってのは」
牧夫たちが、いっせいにこちらを向いた。行商人の目も、それを追った。
目が合った。男の目が、ほんの少し長くこちらに留まった。それから、何でもない顔で逸れていく。値の合わない品を、棚に戻すときの目だった。
牧夫の一人へ向き直る。
「……ふうん。名前は」
「ケインさんだ」
「どこのケインさんだ」
誰も答えなかった。牧夫たちが顔を見合わせ、ドルフは秤の分銅を並べ直している。ケインも、口を開かなかった。開いたところで、続きがない。
男は肩をすくめ、塩の袋を牧夫へ渡した。話は、そこで終わった。
荷を積み直す音を聞きながら、ケインはパンの最後を口へ入れる。立ち上がり、荷馬の脇を通った。
「左の前を、庇っています」
男の手が止まった。
「蹄の裏を見てください。奥に何か挟まっているかもしれません。今日明日で潰れるほどではありませんが、放っておくと、山道で困りますよ」
男はケインを見た。それから、馬を見た。しゃがんで、左の前肢を持ち上げる。指で蹄の底をなぞって——止まった。
小さな石が一つ、土の上に落ちた。
男は立ち上がり、手を払った。礼は言わなかった。ケインの方を見もせずに荷を締め、手綱を引いて道へ出る。
荷馬が向いたのは、西だった。
街道を二日も行けば、森の縁を回って、村があり、宿があり、その先に町がある。ケインが歩いてきた道だ。
ドルフの声で、我に返った。
「……あんた、なんで馬の話なんかした」
「気づいたので」
「気づいても、黙ってる奴の方が多いぞ」
ドルフは袋の口を締め、荷車の方へ歩き出した。
その日の午後、羊を東の囲いへ移している途中で、先頭を歩いていたドルフが足を止めた。
山側の丘に、犬型の魔獣が立っていた。
距離はあった。それでも、首から垂れた編み革は見間違えようがない。ソロは丘の上から群れを見下ろし、羊が一頭ずつ柵の中へ入っていくのを見ていた。
ドルフは名前を呼ばなかった。牧夫たちにも何も言わず、最後の一頭が柵を越えるまで、いつもどおり声に出して数を確認する。
四十頭すべてが入ると、ソロは丘の向こうへ姿を消した。
「数えてたのかもしれませんね」
ケインが言うと、ドルフは柵の留め具を確かめながら答えた。
「……さあな」
留め具を二度引き、ドルフは次の囲いへ歩いていった。
その二日後、朝の見回りへ向かっていたケインは、犬舎の前で足を止めた。
入口の内側に、ソロが伏せている。
首には、山へ消えたときの編み革が残っていた。切れかけた端が胸元へ垂れ、毛には枯れ草と乾いた泥が絡んでいる。二人の気配に気づいて顔を上げたが、逃げようとはしなかった。
隣を歩いていたドルフも、動きを止めた。
「ソロ」
耳がドルフの方へ向く。
ドルフが一歩近づくと、ソロの前脚に力が入り、伏せていた身体がわずかに浮いた。ドルフはそこで止まり、犬舎脇の杭へ目をやる。予備の革紐が巻かれていたが、手を伸ばすことはなかった。
「……遅えんだよ」
ソロはドルフを見たまま動かない。
ケインも距離を保ち、目だけを動かした。呼吸は深く、速くない。四肢の置き方に偏りはなく、森で見たときのように首を庇う動きもなかった。
あばらは浮いている。ただ、腰から後ろに肉は残っていた。山で自分の食い扶持を見つけていた獣の、痩せ方だった。
ドルフが数歩下がると、ソロはゆっくり立ち上がった。犬舎から前脚だけを出し、二人の様子を窺ってから、水の入った木皿へ鼻先を寄せる。
「今日は誰も近づくな」
ドルフは、近くにいた牧夫へ声をかけた。
「餌と水だけ置いとけ。群れにも出すなよ」
ソロは水を飲み終えると、犬舎の内側へ戻った。横にはならず、入口で前脚を揃え、牧場の方へ顔を向けている。
遠くから羊の鳴き声が聞こえた。ソロの耳がそちらへ動いたが、立ち上がることはなかった。
「行くぞ。羊が待ってる」
「はい」
二人が歩き出しても、ソロは追ってこなかった。
それでいい。この犬は一度、自分の脚で山へ帰っている。
その日は、親と同じ草を食べ始めた三頭も改めて確認した。食べ方は前に見たときと変わらず、腹の張りや便にも気になるところはない。今の餌を続け、朝の見回りで様子を追うことをドルフへ伝えた。
離れへ戻る頃には、空はもう暗かった。
館の壁沿いの石畳を抜け、薪小屋と古い厩舎の間を通る。ここ数日で、足が勝手に道を選ぶようになっていた。布を替えて、今日の分を書いて、寝る。明日は日の出前に西へ出る。頭の中で順番を並べながら、閂を外し、軋む扉を押し開けた。
中は暗く、冷えていた。
「ただいま」
口にしてから、外套の留め具に掛けた指が止まった。
染みついた癖というのは、案外しぶとい。
あの夜は、結局、言いそびれたままだった。
炉には朝の灰が残っている。机の上には昨日使ったペンと紙があり、棚の一角には畳んだ布と空の革袋が並んでいた。
ケインは外套を木釘へ掛け、炉の前に屈んだ。灰を掻くと、奥に赤い火が残っている。そこへ細い薪を重ね、火が広がるのを待った。
手を洗って椅子へ腰を下ろし、机の紙を開く。今日の日付を書き、その横へ、仔羊三頭の食べ方と腹の様子を記していった。




