第16話 牙の借り
「……こいつが、撃ってるってのか。犬を殺して、犬から生えて」
朝の骸の前で、ドルフはそう言った。夜明けとともに牧場を出て、杭の列に沿って坂を登り直す間、彼は一度も口を開かなかった。露の残る縄の前に立って、最初に出てきたのが、それだった。骨の間から伸びる黒い茎を見下ろして、一晩かけて組み上げたらしい問いを、組み上がった形のまま。
「分かりません」
ケインは答えた。それから、付け足した。
「ですが、僕も同じことを、昨日から考えています」
縄の際に膝をつく。骸まで二歩。昨日と同じ距離で止まり、両手は膝の上に置いた。触れない。それは決めてある。指先には昨日から続く低い圧が居座ったままで、ここでは何の目印にもならない。目で見る。朝の光が、夕闇に奪われた細部をひとつずつ返してくれる。
茎は、膝の高さ。表面に艶はなく、節もない。先端に、指二本分ほどの莢がついていた。縦にひとすじ、合わせ目が走っている。閉じている、というより——張り詰めている。膨らみきる途中で縫い合わせて、中身がまだ内側から押している。そういう見え方だった。
頭の抽斗から、似た作りの草が引き出される。熟れた莢に指が触れた途端、殻を内へ捩って種を弾き飛ばす草。庭先に生える、何でもない草だ。ただ、あれは指先がくすぐったい程度の力だった。これは違う。あの棘は、犬の首の肉に、深々と潜っていた。
「二歩、下がってください」
振り向かずに言った。背後で、足音が素直に下がった。ケインも立ち上がり、一歩引く。どこまで飛ぶのか、いつ弾けるのか、分からない。分からないものとの間合いは、多めに取る。
「棘は、打ち込まれたのではないと思います」
縄の外へ戻ってから、三人に向き直った。
「莢が熟れて、弾けたとき、近くにいるものへ刺さるんだと思います。同じ作りで種を飛ばす草を、僕は知っています」
「棘が、種だってのか」
ドルフの声は低かった。
「なら、刺さった犬は」
答えは、四人の足元に横たわっていた。誰もそちらを見なかったし、誰もがそれを見ていた。
「……全部が、こうなるとは限りません」
ケインは言った。
「ソロは、戻りました。早くに抜けば、間に合います」
ドルフは何も言わず、莢を睨んでいた。
「回収は、止めましょう」
ケインは図面を抱えたアリアへ向いた。
「僕の知っている草は、触れた途端に弾きます。これが同じなら、抜こうとした手がいちばんの的です。それに、懐の砂のことがあります。運べる形で残るのかも、分かりません。……位置と数だけ、図に残してください。茎は一本。莢は、一つ」
「囲いは、足しますか」
「杭を二本。縄も、一段高くしましょう」
アリアの手が図面の余白に囲いの印を書き足し、ドルフが無言で杭を取りに坂を下りていく。
ケインは、窪みの上手へ目をやった。
野のやつだ、と昨日ドルフは言った。首輪のない、名を呼ばれたことのない一頭。この領で、犬はあらかた山へ消えた。消えた先で、何頭がこうして横たわっているのか——窪みの続く方角、朝の山肌はただ明るく、藪の中までは見せてくれない。
数えかけて、やめた。
いま数えられるのは、目の前の一本だけだ。ケインは莢の位置をもう一度目に焼き付けてから、杭を運ぶ音の方へ足を返した。
二本の杭は昼前に打ち上がり、縄は胸の高さまで嵩を増した。骸の囲いは、遠目にもそれと分かる目印になった。
最初の声は、縄を結び終える前に来た。
短く、一度。山側の斜面の上からだった。手が、いっせいに止まる。ギルの手だけが動いて腰の柄に落ち、半歩でアリアを自分の背の後ろへ入れた。二声目。同じ高さ、同じ短さ。
掛矢を下ろしたのは、ドルフだった。
「……ソロ」
名前が、先に出た。姿はまだ、どこにも見えていない。
「間違いねえ。あの声だ」
三声目で、方角が定まった。藪の切れ目の上、岩の張り出し。そこに、犬型の魔獣が立っていた。距離は五十歩ほど。ケインの目は、まず首筋へ行った——あの棘を抜いた場所。遠目に確かめられる痕ではない。それでも、見ずにはいられなかった。あの昼、泥の中で萎えかけていた四肢は、いま岩の上で確かに身体を支えている。立てている。ここからでもそれは分かった。
ソロは、下りて来なかった。岩の上から、こちらを見る。首を回して、山の奥を見る。また、こちら。短く一声。また、奥。
ケインは目で測った。牙は見えていない。毛は逆立っていない。重心は四肢の真ん中にあり、逃げる形にも、掛かる形にも寄っていない。威嚇の身体ではなかった。かといって、痛みや助けを求める声でもない。
「……あれは」
「危ねえもんが群れに寄ったとき、ああやって吠える」
ドルフが低く言った。
「人を呼ぶ声だ。……あいつはもう、群れなんか連れてねえのにな」
言いながら、ドルフの足が半歩、坂の上へ出かかって、止まった。
知らせに来た。何を——考えかけて、ケインは気づく。この場所で、自分の指は使いものにならない。窪みの際では圧が初めから上限に張りついていて、獣一頭ぶんの毒が近づいたところで、秤は動かないのだ。
だから、それが藪を割って出て来るまで、気づけなかった。
灰色の小さな獣が、斜面の藪から弾かれたように飛び出した。二度跳ねて、止まる。狐だ——形は。痩せているのが、その形だけで分かった。
次の息の間に、坂を下り始めていた。駆けている、というより、身体が坂に転がされていた。右へ流れ、戻り、石に躓いて、また下る。距離が半分に縮んで、細部が解けてくる。左右に振れ続ける頭。上下の合っていない顎。口の端から糸を引く泡。
そして肩口に——黒いものが、深々と立っていた。
狐が止まった。二十歩。泡を噛んだ口が、初めてまっすぐに、坂の下の四人へ向いた。
最初に動いたのは、ギルだった。
鞘走りの音もなく抜いて、狐とアリアの間に身体を入れる。刃は低く構えたまま、動かない。
狐が掛かった。
速さは、もう残っていなかった。それでも牙は牙だ。ギルの刃が上がり——
「斬らないでください!」
声が先に出た。刃が止まり、半歩の体さばきが獣の突進を外へ流す。外された獣は距離を取り、荒い息で頭を振っている。ギルの視線だけが、こちらへ来た。
「——理由は」
「殺すと、骸が残ります。骸から、あれが生えるかもしれない。今朝の、あれと同じものが」
「燃やしゃ済む」
ドルフだった。掛矢を低く構え、目は獣から離さない。そのまま、誰にともなく続けた。
「済む——はずなんだがな」
目だけが、一度、岩の上へ動いた。
「あいつが連れてきたんだ。牧の犬ってのは、手に負えねえのを人のところへ連れてくる。群れでやってた頃は、それも仕事のうちだった。……連れてこられたもんを、燃やすのか」
誰も答えなかった。ギルの刃が、下段へ戻った。
「なら、待ちだ」
ドルフが掛矢を担ぎ直し、獣の左へ回り込む。
「追うな、逃がすな。突っ込んで来たら、かわすだけでいい。あの痩せ方だ——先に切れるのは、向こうだ」
視界の端で、アリアが身を翻して駆けた。向かう先は馬。荷には水袋と、当て布の束がある。この十日、草と干し草を素手で確かめて回る仕事に、欠かしたことのない備えだった。
獣は、二度掛かって、二度外された。一度目はギルへ。半歩でかわされ、牙が空を噛む。二度目はドルフの側へ。掛矢の頭が地面を叩き、乾いた音に軸がぶれて、突進が横へ逸れた。誰も追わない。誰も傷つけない。獣だけが、走るたびに削れていく。斬れる間合いは、少なくとも二度あった。ギルは、二度とも斬らなかった。
三度目は、来なかった。狐は四肢を突っ張って立ち、頭を振り、泡を散らし——前肢から、崩れた。
ケインは走った。アリアはもう戻っていて、水袋の栓を歯で抜き、布を濡らしていた。差し出されたそれを受け取り、倒れた小さな身体へ膝をつく。
目を、まず塞ぐ。見えなくなった獣は、暴れる理由を半分失う。もう一枚の布ごと顎を握り込む。閉じた顎は、閉じさせておく限り、力が出ない。膝で胴を柔らかく挟んだ。覆いの下でもがく力が、すぐに細くなる。肋が手に当たった。数えられた。一本、一本。飢えて、走らされて、毒に灼かれて——この身体は、もう空に近かった。棘は、左の肩口に立っていた。
「大丈夫。しっかり」
声が、自分の喉から低く出た。あの夜と同じ高さで。
右手を、棘の根元へ当てる。指先の熱は、もう来ていた。窪みの際で潰れきっていた秤が、それでも、堰としては動く。害の流れる道筋を、掌の下に思い描く。棘から、血へ。血から、頭へ。そこを——
拒め。
声には、もう出さなかった。熱が掌全体へ広がった。覆いの下の痙攣が、一拍、遅くなる。視界の端が白く欠けて、戻った。長くは保たない。数十を数える間だけ、保てばいい。抜くのに、それだけあれば足りる。
「抜きます」
誰にともなく言って、左手の布越しに棘を摘み、真っ直ぐに引いた。黒いものは浅く、素直に抜けた。周りの肉が、まだ棘を抱き込んでいない。刺さって一日、せいぜい二日の傷だった。傷口から黒い液が一筋伝い、その上へ、横からアリアの布が被さった。押さえる場所も、強さも、正しかった。教えたことは、一度もない。抜いた棘は布ごと包み、傍らの石の上に置いた。数刻で砂に崩れるのか、崩れずに残るのか——夕方まで待てば、それも一つの答えになる。
掌を離し、覆いを目からゆっくりと外す。
至近で初めて見るその目は、光をばらばらに撥ねていた。瞬きが一つ。二つ。散っていた粒が、少しずつ寄っていく。三つ目の瞬きで、目は初めてケインを見た。獣の目だった。怯えて、疲れ果てた、ただの獣の目。
誰も、動かなかった。
ドルフが無言で顎を振り、山側に立っていたギルが道を空けた。狐は自分の四肢を確かめるように立ち上がり、二歩よろけ、開いた山側へ歩き出した。走る力は残っていない。それでも足は、迷わず山を選んだ。岩の上では、ソロがまだ、こちらを見ていた。
ケインは赤黒く染みた布を握ったまま、低く呼んだ。
「……ソロ。助かった」
片耳が、動いた。犬型の魔獣は身を翻し、狐の消えた藪の少し上を辿って、山へ戻っていく。
その背へ、ドルフが言った。
「……借りは返せよ。——二頭ぶんだ」
声は坂の上まで届いたはずだが、歩みは緩まなかった。
森では、噛まれながら抜いた。今日は、袖ひとつ破れていない。膝は森のときと同じに笑っていたが、それでも、立っていられた。ケインは布を畳み、二つの影の消えた山の際を、しばらく見ていた。
帰りぎわ、骸の囲いの前で、石の上の包みを開いた。棘は、すっかり砂になっていた。布をはたくと、砂は夜の土に紛れて消える。持ち帰る手間は、要らなくなった。
牧場まで戻り、片付けをする。今日はいつもより、身体が重い。
ギルに呼ばれて、馬車へ向かおうとしたところで、ドルフとすれ違った。ドルフは運んでいた掛矢を担ぎ直して、こちらを見もせずに言う。
「明日の朝、西の割りを刈る。……先に、指を通してくれ」
「行きます」
「なら寝ろ。ひでえ顔だ」
ドルフなりの労いだと、受け取ることにした。
領館に戻ったときには、とうに夜だった。書斎には、灯りが二つ点いていた。
卓の上に図面が広げられている。刈り場を横切る帯。山へ延びる線。囲いの位置と、引き直した放牧の割り。この十日、ケインが足で拾い、アリアが紙に写してきたものだ。ゲルハルトはその前に座っていて、二人が入っても、しばらく顔を上げなかった。
「……聞こう」
アリアが進み出て、骸と茎のこと、狐のこと、囲いを高くしたことを、順を追って話した。ケインは口を挟まなかった。数字も、位置も、間違いはない。
聞き終えて、ゲルハルトは長く息を吐いた。
「呪い、と皆が呼んだ」
静かな声だった。
「……呼ぶしか、なかったのだろうな。名前のないものは、遠ざけるより他にない。囲いの、打ちようもない」
「これからは、打てます」
ケインは言った。
「囲って、避けて、刈る前に確かめる。それで羊は守れます。……元を絶つのは、まだ先ですが」
ゲルハルトが立ち上がった。卓を回って、隣に立つ。図面を上から見るためだった。肘が触れそうな距離に、人がいる。初めての謁見の日、この人は広い卓の向こうから動かず、話は短く済まされた。あれから何が変わったのかは、分からない。隣に立たれることがどれほど珍しいかは、ケインの十五年が知っていた。
「布告は、家の名で出そうと思いますが……」
アリアがそう言うと、図面の端を指で押さえて、男爵は言った。
「当然だな。放牧の割り替え。帯の立入禁止。刈る前の、確かめ。……娘が書き上げたものに判を入れるだけの、楽な仕事だ。それくらいは、させてもらう」
アリアが目を伏せた。口の端だけが、わずかに動いていた。
「それと——」
言葉を探す間があった。
「離れを、空けさせる。客分の扱いは今日で終いだ。この領に、獣を診られる者はいない。……いなかった、が正しいか」
「あ、ありがとうございます」
そう言って、ケインは頭を下げた。
「明日も、ドルフのところにいくのだろう。自室でしっかり休むといい」
それから男爵は、図面の外——館の奥の方へ、目をやった。
「……良い報せというものを、この館は長く忘れていた。今夜のは、久しぶりのそれだ」
誰に向けた言葉なのかは、聞かなかった。
書斎を出ると、アリアが離れまで案内すると言った。初めて歩く廊下だった。燭台の灯が、二人の影を伸ばしては縮める。アリアは黙っていた。指先が、開いた手のひらの上を、ゆっくりとなぞっている。
階段の手前で、指が止まった。
「ケイン」
立ち止まったアリアへ、向き直る。
「今日の狐を、見ていました。ああいうものが相手でも、あなたの手つきは変わらないのですね。羊でも、犬でも、同じでした。……多分、人が相手でも」
燭台の灯が、一度だけ揺れた。
「母に、会っていただけませんか」




