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第15話 刈り場の底

 境の縄を潜って、刈り場に一歩踏み込んだ瞬間——右手の指先が、疼いた。


 足が止まる。何にも触れていない。草にも、土にも、まだ手を伸ばしてさえいない。それなのに指先の奥で、あの拒絶の感覚が一度。二歩目で——消えた。黒い液に触れた夜から、何度も繰り返してきた感覚。ただ、これまでは必ず、触れた後に来た。そして一度来た反応が、勝手に消えたことも、なかった。


 ケインは右手を目の高さに上げ、開いて、閉じた。指はいつも通りに動く。疼きだけが、皮膚の内側で続いている。


「どうした」


 縄を杭に掛け直していたドルフが振り向いた。すぐには答えられなかった。距離で応えているのか。それとも、濃さか。


「……今、何かを跨ぎました」


 ドルフは眉を寄せ、それから、足元の草を見下ろした。朝の光の中で、草はどこまでも同じ緑に見える。見た目では、何も区別がつかない。それはこの十日、全員で確かめてきたことだった。


 給餌を止めてから、新たに倒れる羊は出ていない。今朝の放牧地で、ドルフは礼の代わりに報告を寄越した——あっちの三頭も反芻が戻った、あんたの言った通りの順番だ。悪化の早かった個体から、回復も早い。摂取さえ断てば、身体は自力で坂を登り返す。見立ては群れの数だけ裏付けられた。


 だが、答え合わせはまだ半分だ。なぜ、この刈り場なのか。同じ沢の水を引き、同じ空の下にある土地で、なぜここの草だけが毒を持つのか。それが分からない限り、立入を禁じた縄は『呪いの目印』のままで、いつか誰かが、知らずに同じ轍を踏む。


「では、手順を確認します」


 ケインは振り返った。縄の外に、アリアとドルフ。少し離れた岩の上から、ギルが刈り場全体を見渡す位置に立っている。アリアの腕には、領の絵図面が抱えられていた。昨夜のうちに頼んでおいたものだ。


「僕が草と土に触れて回って、反応の出る場所と、出ない場所を、図面に落としていきます。アリア様は記録を。ドルフさんは、刈り場の使われ方を教えてください。どこを刈って、どこを干したか」


「あんた一人が触るのか」


「反応が出るのは、僕の指だけですから」


 ドルフは何か言いかけ、言わなかった。代わりに、腰の鉈の位置を直した。付き合う、という意味らしい。


「ですが——」


 ケインはもう一度、刈り場の奥へ目を向けた。指先の疼きは、消えていない。むしろ、風下に立ったときの匂いのように、奥から流れてくる何かを拾い続けている。


「触れなくても、拾えるものがあるようです。ただし、どこでも出るわけでは、ありません」


 一歩、奥へ進む。何もない。もう一歩。まだ、何もない。——足を返し、縄の際まで戻って、今度は斜めに横切った。指先が、また一度だけ疼いて、沈黙した。


「線を、引けるかもしれません」


 やり方は、単純にした。ケインが歩き、しゃがみ、草の根元と土に指先で触れる。出るか、出ないか。それだけを口にして、アリアが図面に印を付ける。反応の強さは記録しない。記録できるほどの差が、そもそも出ないからだ。出る場所では、必ず同じ強さで出る。出ない場所では、何度触れても沈黙する。中間が、ない。


「出ます。……こちらは、出ません。三歩戻って——出ます」


 声に出す数と呼び方は、アリアが決めた。図面には丸い印が打たれ、出た場所は塗り潰され、出なかった場所は白い丸のまま残る。塗るか、白いままか。図面の上にも、中間はなかった。爪の間が土で黒くなる頃には、問いと答えは呼吸のように短くなっていた。


 岩の上のギルは動かず、ケインが位置を変えるたび、視線だけが同じ距離でついてきた。最初のうちは、当てずっぽうに近かった。縄の際で出た二点を結び、延長線上を探る。外れる。角度を変えて探り直す。また外れる。指を土に沈め、立ち上がり、また屈む。単調で、腰にくる仕事だった。それでも印は一つずつ増え、ドルフが要所に折った枝を立てていく。図面と土の上、二か所に同じ模様が育っていった。


 陽が高くなりかけた頃、アリアが図面から顔を上げた。


「ケイン。……見てください」


 差し出された図面の上で、印の並びは、散らばっていなかった。


 線だった。


 刈り場の下手の入り口から、緩くうねりながら上手へ——幅にして十歩たらずの帯が、一筋。帯の外で出た印は、一つもない。アリアの指が、開いた手のひらの上を往復し、止まった。


「病んだのは、刈り場全体ではないのですね」


「ええ。この帯の上だけです」


 ケインは顔を上げ、土の上の枝の列を目で辿った。折れた枝が、草の海の中をうねって続いている。その曲がり方には、見覚えがあった。まっすぐではなく、急でもなく、低い方へ低い方へと逃げていく——川の形だ。


 同じものを、ドルフは土の上に見ていた。枝の列の途中に突っ立ったまま、動かない。


「……嘘だろ」


「ドルフさん」


「ここは、沢だ」


 振り向いたドルフの顔から、日焼けの下の血の気が引いていた。


「昔の、沢筋だ。大水の年まで、ここを水が流れてた」


 それから、枝の列の端から端までを、もう一度目で辿った。


「……埋まったあとに、ここを刈り場に足したのは、俺だ」


 ケインは急がず、頭の中で順番を組み立てた。大水。道を変えた沢。取り残されて、湿ったまま窪んだ帯。——繋がった。


「数年前の大水で、沢は道を変えています。旧い流路に何かが溜まって、その上に根を張った草だけが、それを吸い上げていたんだと思います。……水の道が変わった。この刈り場に起きたのは、それだけです」


「……放牧より、囲いの方が倒れた。干し草を食わせてた群れだ」


 ドルフが低く言った。ケインは頷いた。


「生えている間は、羊が自分で避けたんだと思います。ですが、刈って干せば」


「選べねえ」


 ドルフは折れた枝の列を見渡し、それから、自分の両手に目を落とした。アリアが何か言いかけて、やめた。代わりに、静かに告げた。


「知りようが、ありませんでした。水の下に何が溜まっているかなど、誰にも」


 ドルフは答えなかった。ただ、枝を一本拾い直して、帯の際に深く突き立てた。仕事の手つきだった。


 ケインは図面に目を戻した。線には、まだ続きがある。帯は刈り場の上手の縁で途切れず、柵の外へ——山の方へ向かって、伸びていた。


 頭の中で、古い分類が引き出される。進みの速さで言えば、羊のこれは亜急性。棘のあれが、急性。——名前を付けたところで、毒の正体には一歩も近づかない。それでも名前があれば、次に誰かへ説明するとき、迷わずに済む。


「この線は、ここで始まっていません」


 指先で、図面の上の帯を上流へ辿る。行き着く先は、領境の山だった。


 昼を回ってから、四人は帯を上流へ辿った。


 刈り場の柵を越えると、土地は緩やかな登りに変わる。草丈が低くなり、石が増え、旧い流路の窪みは藪に半ば呑まれながらも、途切れずに続いていた。ケインはもう、しゃがんで触れることをやめていた。その必要がなくなったからだ。窪みに沿って歩けば、指先が疼く。逸れれば、止む。境を跨ぐたびに、それが分かる。


 変わったのは、疼き始める距離だった。刈り場では、跨いだ瞬間だった。柵を出て少し登ると、二歩手前で疼いた。いまは五歩手前で来る。近づくほどに、指はより遠くから拾う。同じ帯を辿っているのに、こんなことは下流では起きなかった。


 先頭を行くギルが足を止めた。


「この先、足場が崩れている。視界も悪い」


 短い報告だった。ケインは前方を見た。藪の切れ目の向こうで地形は一段険しくなり、その先に、領境の山が午後の光を鈍く照り返している。窪みは——旧い流路は、まっすぐそちらへ延びていた。


 一歩、進んでみる。疼きの質が、変わった。来ては途切れる断続ではなく、低く続く一本の圧。触れてもいない。窪みの中に立ってすらいない。それでも指の奥で、拒絶が絶えなくなっていた。秤の上限を、超えている。ここから先は、どれだけ濃くなっても、指は同じ答えしか返さない。


 ケインは足を止めた。


「ここまでにします」


 振り返って、アリアに告げた。


「帯はまだ続いています。濃さも、上流ほど強い。ですが、この先は僕の手に余ります。何が溜まっているのか、どれだけあるのか、指一本では測りきれません——測れないものに、素手で近づくべきではないと思います」


「山に、何かがあると?」


「分かりません」


 即答した。アリアの目をまっすぐ受けて、続ける。


「言えるのは、帯が山の方から来ている、そこまでです。僕が学んだ場所でも、原因の分からない毒に当たったときの手順は決まっていました。まず、人と獣を毒から離す。原因を追うのは、そのあとです」


 アリアは一拍だけ黙った。それから、言った。


「布告は、家の名で出します。この窪みには、人も家畜も近づけない。……境の印を」


「刈り場は、どうしますか」


 ドルフだった。ケインは図面の帯の外側を指した。


「使えます。ただし刈る前に、僕が触れて確かめます。囲いに残っている干し草も、全部」


「区割りは引き直します」アリアが図面の余白に線を足した。「窪みに掛かる区画は、外します」


「打ちましょう」


 ドルフが短く言って、もう馬の方へ歩き出していた。


 杭は牧場から運ばれた。午後のあいだ、四人は帯に沿って杭を打ち、縄を渡した。刈り場の中は細かく、柵の外は要所だけ。ケインが指で境を拾い、ドルフが打ち込み、ギルが遠目の利く位置から抜けを見張り、アリアが図面に写した。掛矢を振るうたび、ドルフの息が白く散った。


「あんたの指は便利だな。杭より正確だ」


「便利な道具ほど、こき使われるんです。今日一日で、よく分かりました」


 ドルフが鼻で笑って、次の杭を土に立てた。何本目かを打ち終えたとき、彼は掛矢に寄りかかって、ふいに言った。


「……これが終わったら、あんた、どうするんだ」


 手が、止まった。


 羊は登り坂に戻った。帯には縄が張られる。干し草は、順に触れていけばいい。この領の病の、少なくとも見えている分には、出口が見え始めている。終わったら。その先を、考えていなかった。行く当てがあって、ここに来たわけでもない。


「……鶏も、診られますよ」


「そういう話じゃねえよ」


 ドルフは取り合わず、掛矢を担ぎ直して次の杭へ歩いていった。答えを待つ様子も、なかった。


 西に傾いた陽が、縄の影を長く伸ばし始めていた。


 最後の杭を打ち終えたのは、陽が山の端に触れる頃だった。


 張り終えた縄が、夕光の中で一本の淡い線になり、窪みに沿って下っていく。冷えが足元から這い上がる時刻だった。アリアが図面を巻き、ギルが馬を寄せる。引き上げる、その間際だった。


 道具をまとめていたドルフが、ふいに手を止めた。


 視線は坂の上——打ったばかりの杭の列の、そのさらに先へ向いている。傾いた陽が窪みの縁を斜めに照らし、それまで藪の影に沈んでいたものを、浮かび上がらせていた。


「……おい」


 低く、平らな声。大声を出すまいとしている声、と言った方が近かった。ケインはその視線を辿り、縄の際まで登った。指先の疼きは絶えないままで、もう何の目印にもならない。目で、探した。


 窪みの縁、枯れた藪の根元に、白い骨が横たわっていた。大型の犬——あるいは、犬型の魔獣。肋は崩れずに残り、頭骨は横を向き、毛皮の名残が土の色になって貼りついている。ケインの目は骨格を辿り、大きさを測り、それから、止まった。


 肋の間から、黒い茎が一本、立っていた。


 膝の高さほど。枝はなく、葉もない。ただまっすぐに、骨の内から夕空へ向かって伸びている。表面には艶がなく、それでいて、枯れてもいない。ソロの首から抜いた棘と同じ黒だった。


 誰も、すぐには口を開かなかった。ケインは縄を跨ぎ、骸から二歩の距離で足を止めた。


 しゃがんで、両手を膝の上に置いた。触れない。それだけを先に決めた。指はここでは役に立たない。窪みの中はどこへ向けても同じ疼きが返るだけで、この茎が周りより濃いのかどうかさえ、測りようがなかった。目で見るしかない。そして夕闇は、細部から先に奪っていく。


 首の骨の周りには、何もなかった。紐も、首輪の名残も。ドルフが、同じ場所を見ていた。


「……うちのじゃねえ。野のやつだ」


 それきり、黙った。何かを数えている沈黙だった。


 棘は、打ち込まれるものだと思っていた。あの首にも、深々と埋まっていた。外から来たのだと、そうとしか見えなかった。


 だが、目の前のこれは、刺さっていない。


 骨の内から、伸びている。


 だとしたら——。


 ケインは立ち上がった。膝の土を払う自分の手が、いつもより丁寧に動いていた。


「……夜が来ます」


 自分の声が、思ったより硬く出た。


「ここも囲います。触れるのは、明るくなってから。それまでは誰も——僕もです」


 ギルが目を上げた。何も言わなかった。


 骸の周りに杭が打たれ、縄が張られた。今日打った中で、いちばん狭い囲いだった。


 四人は馬を曳いて坂を下りた。窪みを離れる前に、ケインは一度だけ振り返った。


 夕闇の底で、白い骨はもう見分けられなかった。


 黒い茎だけが、残った光を吸って、まだそこに立っていた。

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