第14話 護衛の目
ギルの仕事は、疑うことだ。
主家の門をくぐる者。街道ですれ違う荷。差し出される笑顔と、その裏。疑って、外れれば、それでいい。護衛の疑いは、九割九分、外れるためにある。外れなかった一分のために、残りの全部を捨てずに抱えておく。そういう仕事だと、ギルは心得ている。
だから——あの少年を森で初めて見た瞬間に湧いたものにも、疑いを向けねばならない。
泥と血にまみれ、倒れた魔獣の傍らに膝をついていた少年。あのとき喉元まで上がってきたのは、警戒と呼べるほど整ったものではなかった。もっと手前の、もっと粗いもの。——斬っておくべきだ。そういう衝動だった。剣の柄に手が掛かるのと、それを己で不審に思うのが、ほとんど同時だった。
剣の師は口の重い男だったが、ひとつだけ、繰り返した教えがある。勘は財産だ。だが、勘に理由を付けられんときは、勘の方を疑え。理由の付かん勘は、勘の面をした別物だ——恐れか、驕りか、もっと性質の悪い何かだ。
あの日から今日まで、ギルは少年への嫌悪に、理由を付けようとし続けてきた。
材料なら、あった。素性の知れない流れ者。魔獣の隣にうずくまっていた状況。問うても明かされない家名。どれも疑うに値する。護衛として、筋は通る。
通るはずだった。
だが、材料を全部並べて、全部足しても——この、肌が粟立つような忌避の量には、届かない。
疑わしい人間なら、これまでいくらでも見てきた。街道の関で目の泳ぐ男。刃物を荷の底に沈めた行商。笑いながら間合いを詰めてくる類の物盗り。どれにも警戒は立った。だがそれは、材料に見合った警戒だった。相手が離れれば薄れ、正体が割れれば形を変えた。あの少年のこれは、違う。材料と釣り合わず、離れても薄れない。素性は今も知れんままだが、腕だけは割れた——診る腕と、引かない胆。それを勘定に入れてやっても、量が変わらない。
足りない分がどこから来るのか、ギルには言えない。言えないまま、量だけがそこにある。師の教えに照らせば、これは疑うべき勘ですらない。理由の付かない嫌悪など、護衛の道具にならない。分かっていて、捨てられずにいる。
靄が、囲いの柵を半分呑んでいた。ギルは、番小屋と囲いの双方が目に入る位置に立っている。夜明けとともにアリア様に付いてここへ来てから、その場をほとんど動いていない。目より先に、耳が現場を取っている。羊の鳴きは散発で、荒れた声は混じらない。牧夫頭の低い声が、数を数えるような間で続いている。アリア様はいま囲いの中だ。羊を診る順を、決めているのだろう。靄で遠目は利かないが、声の届く間合いは保っている。それでいい。護衛は、見えることより、間に合うことを優先して立つ。
立ち番には慣れている。慣れているから、こういう朝は頭の空く時間が長いことも、知っている。空いた頭は、放っておくと同じ場所へ戻る。
明け方の、あの掌だ。
ギルは、靄の水気を吸った柄巻きを、親指で一度なぞった。考えるなら、順を追う。警邏と同じだ。異状を探すときは、闇雲に見回すのではない。決めた道順で、端から歩き直す。
森の、あの日からだ。
泥と、血。倒れた犬型の魔獣と、その傍らに膝をついた少年。護衛の目が最初に拾ったのは、得物を持たない両手と、こちらへの反応の薄さだった。剣に手を掛けた男を前にすれば、並の流れ者は両手を上げるか、逃げ道を測る。少年は、どちらもしなかった。剣気を向けられながら、目は獣から離れなかった。
不遜、と取ることもできた。だが、不遜な者の目は必ずこちらを測りにくる。値踏みも挑発も、相手を見る目だ。少年の目には、それがなかった。獣の傷と、呼吸と、自分の手元——見るべきものの順が、あの泥の中でとうに決まっていて、こちらの剣は、その順の、どこにも入っていなかった。あの場の誰よりも斬られやすい位置にいた男が、斬る側を、勘定に入れていなかった。
牙が入った瞬間のことも、覚えている。処置の途中、獣の首がよじれて、少年の左腕を捉えた。引かなかった。引けば裂ける——分かった上での静止だ。恐怖で固まったのとも違う。固まった人間は、そのあとの手が乱れる。少年の手は、牙が離れたあとも、乱れなかった。胆力と呼ぶのは、おそらく違う。あれは判断だ。傷の大小を天秤にかけて、小さい方を選んだだけの。
妙な動きをすれば斬る、と告げた。少年は頷いて、それきり、こちらを見なかった。頷きは、はっきりしていた。聞き流したのではなく、条件として呑んだ頷きだった。呑んだ上で、目を戻した。
抜けた棘が黒い砂に崩れたとき、その包みを少年に持たせたのは、自分だ。持っていろ、抜いたのはお前だ——そう言った。証拠は、疑わしい者の手に置くな。それが定石だ。あのときは、定石を思い出しもしなかった。
トマの手当ても、傍で見ていた。太腿から木屑を二つ抜き、洗って、布を当てる。あのときは手際、という言葉で片づけた。いま思い返せば、あれは手際ではない。順序だ。何を先にやり、何を後に回すか、迷いの拍がひとつもなかった。慣れている。それも、剣とは別の筋の慣れだ。名は偽れるが、手の順序は偽れない。
そして、車輪と、あの背中だ。溝に落ちた車輪を出し、振り返ると、少年は泥の中に倒れていた。置いていくわけにもいかん——そう言って、背負った。義務の言葉だった。いまでも、義務だったと思っている。
ただ、ひとつ、引っかかる。
背負っているあいだ、総毛立つ感覚は、消えなかった。肌は最初から最後まで嫌がっていた。それでも、手は仕事をした。嫌悪と、手と、どちらが本当の自分の判断だったのか。あのときは考えなかった。考えなかったこと自体を、いまは材料として拾っておく。
靄の奥で、牧夫頭の声が、少年を呼んだ。
番小屋の戸が軋み、やがて靄の中を、細い影がひとつ、囲いの方へ渡っていく。ギルは、その足取りを目で追った。歩幅が狭い。踵が上がりきっていない。昨夜の消耗を、まだ返しきっていない足だ。——追ってから、追っていた自分に気づいた。警戒の目ではなかった。あれは、様子を見る目だ。
道順の続きへ、戻る。牧場に入ってからの、あの地味な日々だ。
牧場の日々は、静かだった。
少年のやることは、幾日見ても地味だった。区割りの図を引き、井戸と沢の使い分けを訊き、干し草の置き場を突き合わせ、倒れた羊と無事な羊の帳面を比べる。呪い祓いを名乗る流れ者なら、香を焚くなり祈るなり、見栄えのする手をいくらでも打てたはずだ。少年は打たなかった。杭を一本ずつ打つような手順だけを、黙々と積んだ。
干し草の置き場を検分した日のことは、よく覚えている。少年は積み藁の前で足を止め、崩して、束の中ほどの草を抜いて、日に透かした。長いこと、そうしていた。何が見えたのかは、その場では誰にも言わなかった。言わずに、翌日から羊の餌が変わった。口より先に、手当てが動く。あの男の順序は、あそこでも同じだった。
剣も、同じやり方でしか強くならない。派手な剣筋は見世物で、身体に残るのは反復だけだ。積み上げの価値を知る者が、積み上げる人間を見誤ることは、あまりない。あの頃から、ギルの疑いは据わりが悪くなっていた。何者だ、という問いが、この手際は何だ、に変わり始めていた。問いの向きが変わったことに、気づかないふりをしていたのは、ギル自身だ。
そして、明け方だ。戸の外に立っていた。小屋の中は狭く、声はよく通った。薄闇の中の背中と、羊の首の下に置かれた右の掌。見えたのは、それだけだ。光りもしなければ、唸りもしない。まやかしを疑おうにも、疑う種がなかった。少年は羊に何かを低く言い——聞き取れたのは、大丈夫、という一語だけだ——それから、しばらくして、崩れた。牧夫頭の腕が、それを受け止めた。
ギルの目が拾ったのは、その次だ。崩れた少年は、支えられた姿勢のまま、真っ先に、羊の息を確かめた。自分の息より、先にだ。耳を羊へ寄せ、確かめ終えてから、ようやく自分の呼吸を数え始めた。人間は、力の抜けた瞬間に、順序を偽れない。あの順序が、あの男の中身だ。
もうひとつ、拾ったものがある。掌を置き直す前、少年は牧夫頭に言った。倒れそうに見えたら、引き剥がしてくれ。そのときは抗わない、と。——自分では止まらないと、自分で知っている男の言い方だった。あの少年は、自分の消耗を、自分の勘定に入れていない。護衛の目には、掌の得体の知れなさよりも、そちらの方がよほど危うく映る。
牧夫頭が囲いへ出たのを潮に、ギルは戸口を離れ、小屋の周りをひと回りした。夜明けは、物陰を見て回る刻限だ。中の話し声は、遠い低さになった。聞かずに済む距離を取るのも、護衛の礼儀のうちに入っている。戻ったとき、話は終わっていた。
敵か、敵でないか。その問いになら、いまは答えられる。敵ではない。九分まで、そう見る。残る一分は、仕事のために空けておく。あの掌が何なのかは、分からない。だが、剣と同じだ。危ないかどうかは、物より、持ち主がどこへ向けるかで決まる。向けた先なら、この目で見てきた。獣と、羊と、トマの太腿だ。
靄が、上がり始めていた。囲いの輪郭が戻り、日が柵の露を光らせている。アリア様は囲いの中で、牧夫頭と立ち話をしている。少年は水桶を提げて、柵沿いをこちらへ歩いてくる。ギルは、いつものように身構えた。近づかれる前に、肌の方が先に構える。ここへ来てからの常だった。少年が、数歩の距離を過ぎていく。
軽い。
来るはずの重さが、来ない。肌のざわつきはある。だが、森で隣に立ったときの、あの厚みがない。我慢の要る距離が、いつの間にか、縮んでいる。
慣れか。——いや。慣れなら、鈍るのはこちらの側だ。受け手が磨り減って、届いても感じなくなる。それなら知っている。これは、違う。届く前の、量そのものが減っている。まるで、相手から出ていた何かが、弱まっているような。
馬鹿げている。
人から、何かが出るものか。ギルは思考を打ち切った。打ち切って、柵の内へ目を戻した。少年は水桶を下ろし、次の羊の傍らに膝をついている。その姿は、もう靄に隠れていなかった。
昼を過ぎて、靄の名残も消えた。
囲いの作業がひと区切りつく頃、アリア様が柵を離れて、こちらへ歩いてきた。裾に藁が付いている。囲いの中で膝をついた者の付き方だ。ギルは黙って頭を下げた。主は、少年のいる方へ一度目をやってから、言った。
「ギル。あなたはまだ、彼を疑っていますか」
遠回しを挟まない問いだった。この主は、護衛の目がどこを向いているか、いつも知っている。ギルは、答えを探さなかった。探すまでもない。朝から、その答えばかりを検めていた。
「疑うのが仕事です」
アリア様は、頷いた。咎める色はなかった。それを承知で付けている護衛だ。
「……ですが、疑いの中身は変わりました」
アリア様は、わずかに目を見開いた。それから、それ以上は訊かなかった。問いをひとつで止める人だ。一礼して囲いへ戻っていく背を見送りながら、ギルは、口にした言葉の座りを、自分で確かめていた。
疑いの中身。何者なのか、という疑いなら、もうやめている。素性は、今も知れない。知れないまま、問いの方が先に形を変えた。——あの男が、何に、なっていくのか。
それを見届けることも、護衛の仕事の内に入れておく。
♢♢♢♢♢♢
夜の領館は、灯りが少ない。門の篝も、油を惜しんで半分に落としてある。ギルは夜番の巡回を、館の裏手から始めた。厩の錠。裏口の閂。塀の崩れかけた箇所——人手が足りず、直されないまま季節の過ぎた場所を、ギルは全部覚えている。覚えて、夜ごとに検めて回る。衰えた領の夜は静かで、静かすぎる夜は、耳の仕事が増える。その耳が拾ったのは、風でも獣でもなく、表門の外の、人の声だった。
門の脇に、灯りがひとつ。門番が誰かと話している。荷馬を引いた男——旅装の上に、行商の背負い箱。ギルが歩み寄ると、門番が振り返り、事情を短く告げた。西の街道から来た行商人で、明日の商いの許しを願いに来たが、着いたのが夜になった。許しが出るまで、門の脇で待たせてほしいと言っている。
西からの行商は、近頃では珍しい。衰えた土地に、商人は寄りつかない。それだけで、検める理由には足りた。
「検める」
ギルが灯りを寄せると、男は、へえ、と腰を低くして、背負い箱の蓋を自分から開けてみせた。針と糸。塩の小袋。安い小刀が数本——届け出の要る長さのものは、ない。箱の底も、二重にはなっていない。慣れた受け方だった。やましさで軽くなるのでも、初めてで硬くなるのでもない。方々の門で、何度も蓋を開けてきた手つきだ。
「商いか」
「へえ。明日、お許しが頂けますれば。……鋏と針は、どこの村でも切らしておりますもので」
「西から来たと言ったな。どこを通った」
「西の街道を、二日ばかりかけて参りました。手前どもは、グレアムの騎士様が納めてなさる町から、こちらへ」
西隣の、御領の町だ。行き来は薄いが、街道筋の名くらいは頭に入っている。ギルはその名を、道順の確かめとしてだけ受け取って、次を訊いた。
「道の具合は」
「乾いております。途中の村の外れで、荷崩れの馬車を一台、見かけましたが……賊の類は、とんと。おかげさまで」
賊はなし。道は乾いている。夜明けまで門の脇、火は焚かせない——段取りをそこまで決めかけた、そのときだった。
「……時に、旦那」
男が、声を半分に落とした。商いの値を切り出すときの、あの声だった。
「あちらの町で、妙な噂を聞きましてね。旦那がたなら、ご存じかと思いまして」
ギルは、灯りを一段、男の顔へ近づけた。




