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太陽が笑えば、それでいい  作者: 水前寺鯉太郎


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8/13

クボ、初めての怒り方


 おやおや、亜紀子ちゃん。

 足音が「ぽよっ」としか鳴らなくなったことが、そんなに耐え難かったのですか?

 どれほど強く地面を蹴っても、あなたの怒りは音を失い、パステルカラーの土に吸い込まれてしまう。

 怒れない、叫べない、拒めない。胸の奥に溜まったヘドロのような重みが、出口を求めて出口を見失い、ただ足裏を痺れさせるだけの朝。

 そんな時、あなたが無意識に求めたのは、この丘の「偽物の温もり」ではなく、あの日の「本物の痛み」だったのでしょう。

 目の前で、丸い背中を丸めて「ねりね」を練る、赤いポヨ。

 その背中の曲線が、かつて自分を必死に守ろうとしていた「誰か」に重なった、その刹那。

「……おかあさん……」

 

 その五文字が空気に触れた瞬間、世界から一切の音が死に絶えました。

 赤ちゃん太陽の不気味な哄笑も、通気口から流れるホワイトノイズも、すべてが凍りついた。

 クボの手が、止まりました。ボウルの中で粘つくピンクの泥を掴んだまま、指が痙攣するように震え出す。

 

 パキッ。

 

 この世で最も冷たい硝子が砕けるような音が響き、クボの顔面に「黒い亀裂」が走りました。

 いつも通りの笑顔を、内側から突き破るように現れたそのひび割れは、口角から目尻へと蛇のように這い登る。割れた隙間の奥底は、光を一切反射しない「絶望の井戸」。

 その暗黒の底から、ポヨになる前の「何か」が、濁った瞳で亜紀子を見上げていました。

「……おかあ、さん……?」

 クボの声は、もはや音声学上の言葉ではありませんでした。

 それは、激しい衝突の瞬間に響く金属の軋み、あるいは、二度と会えない誰かを呼ぶ「断末魔」そのもの。

 お腹のモニターが、毒々しい赤に染まる。そこに映し出されたのは、上下逆さまになった世界。割れたフロントガラス越しに見える、燃えるような夕焼け。そして――。

 アスファルトに投げ出された、片方だけの毛糸の手袋。

 その手袋をはめた「誰か」の手が、痙攣を最後に、ぴたりと動かなくなる様子。

 薬指の指輪に、ぽつん、と一滴。空から落ちた涙か、それとも体内から溢れた朱か。

 

「いない……。いないんだよ、亜紀子! そんなもの、この丘には、持ち込めないんだ!」

 クボが叫ぶと同時に、草原全体が初めて「怒り」の色に染まりました。

 パステルグリーンが剥がれ落ち、一瞬だけ、かつて少年が愛した「地球の緑」が姿を現す。けれど、世界のシステムはそれを「バグ」として即座に上書きし、再び眩しすぎるほどの偽物の色彩で塗りつぶしました。

 クボは、たぶん、ずっと昔に地図の端からこぼれ落ちた「ケンちゃん」だったのでしょう。

 大きな車に大事な人を奪われ、叫ぶ術を失い、境界線を越えてしまった迷子。

 「おかあさん、どこ?」

 その言葉を言うたびに、彼は「ここにいない」という地獄を確認し、自らを傷つけてきた。

 だから彼は、自ら「言葉」を捨て、空虚な器としての「クボ」になることを選んだのです。

 あなたが投げかけた五文字は、彼が必死に埋めたはずの「穴」に、正確に突き刺さった、鋭利な楔でした。

「ごめん、なさい……」

 亜紀子が震える唇を開いた瞬間、ドコが、音もなく背後に回りました。

 そして、これまでで最も迅速な、事務的なまでの手際で、焼き立ての「おひさまビスケット」を彼女の口に押し込みました。

 その動きには、慈愛ではなく、故障した機械を再起動させるような、無機質な処置の冷徹さが宿っていました。

 

「おやおや、亜紀子ちゃん。それはこの世界で最も不快な『ノイズ』ですよ。さあ、その苦い響きごと、甘い虚無の中に飲み込んでしまいなさい」

 ビスケットは、喉を焼くほどに熱く、香ばしかった。

 味の奥底から、火葬場の煙のような、誰かの人生が燃え尽きた跡の「灰」の味がする。

 けれど、甘さが、その灰の苦みを優しく包囲し、消し去っていく。

 

 あ。き。こ。

 

 最後の一文字が胃に落ちた瞬間。

 亜紀子の中から、自分を定義していた「水前寺」という苗字も、他者を愛でる「亜紀子」という響きも、パズルのように崩れ去りました。

 他者を呼ぶ力のない場所では、自己という輪郭もまた、維持することはできません。

 彼女は今、目の前の赤い存在を「クボ」と呼ぶことも、「お母さんの背中」と重ねることも、できなくなりました。

 境界線が消え、彼女はポヨたちの「幸せな群れ」の中に、霧のように混ざり合っていく。

「……もう、大丈夫だね」

 クボの顔の亀裂が、魔法のように塞がりました。

 彼は再び、何事もなかったかのような満面の笑みを浮かべ、彼女の――いや、番号を振られた肉体の手を取りました。

「いこう、人間第一号! みんなで、終わらないダンスの時間だよ!」

 

 『人間第一号』。

 その呼称に、彼女の肉体は素直に反応しました。

 もはや「亜紀子」と呼ばれていた頃の身体は、どこにもありません。

 

 私は知っていますよ。

 彼女はもう、誰の名を呼ぶこともありません。呼ばれることもありません。

 「人間第一号」は、ただの番号。番号は、誰も愛さず、誰も思い出さない。

 ただ、ポヨたちと手を繋ぎ、弾む足音に身を任せて、永遠に飛び跳ね続けるだけ。

 その夜、ドームに戻った彼女は、枕の下に違和感を覚えました。

 そこには、小さなパステルピンクの粒が、ふたつ。

 昨日吐き出した「ありがとう」と、今日吐き出した「自分自身の名前」。

 彼女はそれを、ぼんやりと見つめました。

 何かを伝えたいような、誰かに会いたいような、かすかな胸の疼き。

 けれど、その「誰か」の名前も、もう彼女の中には存在しない。

 ただ、その粒は、ひっそりと、生き物のように温かかった。

 彼女は、粒をそっと枕の下の闇に戻し、眠りにつきました。

 

 さよなら、水前寺亜紀子。

 おめでとう、人間第一号。

 今日も世界は、こんなにも幸せに満ちています。

 

 ――さて、明日には、その二つの粒さえ、ただの美味しい「隠し味」になっているかもしれませんね。楽しみですね。

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