クボ、初めての怒り方
おやおや、亜紀子ちゃん。
足音が「ぽよっ」としか鳴らなくなったことが、そんなに耐え難かったのですか?
どれほど強く地面を蹴っても、あなたの怒りは音を失い、パステルカラーの土に吸い込まれてしまう。
怒れない、叫べない、拒めない。胸の奥に溜まったヘドロのような重みが、出口を求めて出口を見失い、ただ足裏を痺れさせるだけの朝。
そんな時、あなたが無意識に求めたのは、この丘の「偽物の温もり」ではなく、あの日の「本物の痛み」だったのでしょう。
目の前で、丸い背中を丸めて「ねりね」を練る、赤いポヨ。
その背中の曲線が、かつて自分を必死に守ろうとしていた「誰か」に重なった、その刹那。
「……おかあさん……」
その五文字が空気に触れた瞬間、世界から一切の音が死に絶えました。
赤ちゃん太陽の不気味な哄笑も、通気口から流れるホワイトノイズも、すべてが凍りついた。
クボの手が、止まりました。ボウルの中で粘つくピンクの泥を掴んだまま、指が痙攣するように震え出す。
パキッ。
この世で最も冷たい硝子が砕けるような音が響き、クボの顔面に「黒い亀裂」が走りました。
いつも通りの笑顔を、内側から突き破るように現れたそのひび割れは、口角から目尻へと蛇のように這い登る。割れた隙間の奥底は、光を一切反射しない「絶望の井戸」。
その暗黒の底から、ポヨになる前の「何か」が、濁った瞳で亜紀子を見上げていました。
「……おかあ、さん……?」
クボの声は、もはや音声学上の言葉ではありませんでした。
それは、激しい衝突の瞬間に響く金属の軋み、あるいは、二度と会えない誰かを呼ぶ「断末魔」そのもの。
お腹のモニターが、毒々しい赤に染まる。そこに映し出されたのは、上下逆さまになった世界。割れたフロントガラス越しに見える、燃えるような夕焼け。そして――。
アスファルトに投げ出された、片方だけの毛糸の手袋。
その手袋をはめた「誰か」の手が、痙攣を最後に、ぴたりと動かなくなる様子。
薬指の指輪に、ぽつん、と一滴。空から落ちた涙か、それとも体内から溢れた朱か。
「いない……。いないんだよ、亜紀子! そんなもの、この丘には、持ち込めないんだ!」
クボが叫ぶと同時に、草原全体が初めて「怒り」の色に染まりました。
パステルグリーンが剥がれ落ち、一瞬だけ、かつて少年が愛した「地球の緑」が姿を現す。けれど、世界のシステムはそれを「バグ」として即座に上書きし、再び眩しすぎるほどの偽物の色彩で塗りつぶしました。
クボは、たぶん、ずっと昔に地図の端からこぼれ落ちた「ケンちゃん」だったのでしょう。
大きな車に大事な人を奪われ、叫ぶ術を失い、境界線を越えてしまった迷子。
「おかあさん、どこ?」
その言葉を言うたびに、彼は「ここにいない」という地獄を確認し、自らを傷つけてきた。
だから彼は、自ら「言葉」を捨て、空虚な器としての「クボ」になることを選んだのです。
あなたが投げかけた五文字は、彼が必死に埋めたはずの「穴」に、正確に突き刺さった、鋭利な楔でした。
「ごめん、なさい……」
亜紀子が震える唇を開いた瞬間、ドコが、音もなく背後に回りました。
そして、これまでで最も迅速な、事務的なまでの手際で、焼き立ての「おひさまビスケット」を彼女の口に押し込みました。
その動きには、慈愛ではなく、故障した機械を再起動させるような、無機質な処置の冷徹さが宿っていました。
「おやおや、亜紀子ちゃん。それはこの世界で最も不快な『ノイズ』ですよ。さあ、その苦い響きごと、甘い虚無の中に飲み込んでしまいなさい」
ビスケットは、喉を焼くほどに熱く、香ばしかった。
味の奥底から、火葬場の煙のような、誰かの人生が燃え尽きた跡の「灰」の味がする。
けれど、甘さが、その灰の苦みを優しく包囲し、消し去っていく。
あ。き。こ。
最後の一文字が胃に落ちた瞬間。
亜紀子の中から、自分を定義していた「水前寺」という苗字も、他者を愛でる「亜紀子」という響きも、パズルのように崩れ去りました。
他者を呼ぶ力のない場所では、自己という輪郭もまた、維持することはできません。
彼女は今、目の前の赤い存在を「クボ」と呼ぶことも、「お母さんの背中」と重ねることも、できなくなりました。
境界線が消え、彼女はポヨたちの「幸せな群れ」の中に、霧のように混ざり合っていく。
「……もう、大丈夫だね」
クボの顔の亀裂が、魔法のように塞がりました。
彼は再び、何事もなかったかのような満面の笑みを浮かべ、彼女の――いや、番号を振られた肉体の手を取りました。
「いこう、人間第一号! みんなで、終わらないダンスの時間だよ!」
『人間第一号』。
その呼称に、彼女の肉体は素直に反応しました。
もはや「亜紀子」と呼ばれていた頃の身体は、どこにもありません。
私は知っていますよ。
彼女はもう、誰の名を呼ぶこともありません。呼ばれることもありません。
「人間第一号」は、ただの番号。番号は、誰も愛さず、誰も思い出さない。
ただ、ポヨたちと手を繋ぎ、弾む足音に身を任せて、永遠に飛び跳ね続けるだけ。
その夜、ドームに戻った彼女は、枕の下に違和感を覚えました。
そこには、小さなパステルピンクの粒が、ふたつ。
昨日吐き出した「ありがとう」と、今日吐き出した「自分自身の名前」。
彼女はそれを、ぼんやりと見つめました。
何かを伝えたいような、誰かに会いたいような、かすかな胸の疼き。
けれど、その「誰か」の名前も、もう彼女の中には存在しない。
ただ、その粒は、ひっそりと、生き物のように温かかった。
彼女は、粒をそっと枕の下の闇に戻し、眠りにつきました。
さよなら、水前寺亜紀子。
おめでとう、人間第一号。
今日も世界は、こんなにも幸せに満ちています。
――さて、明日には、その二つの粒さえ、ただの美味しい「隠し味」になっているかもしれませんね。楽しみですね。




