カバンの中の、お葬式
おやおや、亜紀子ちゃん。
今朝はなんだか、背負ったカバンが羽のように軽い気がしませんか?
不思議に思って中を覗けば、そこにあったはずの「地上の重み」が、無慈悲なほどさらさらと、灰色の砂になって崩れ落ちていました。
画面の割れたスマートフォン。角の擦り切れた教科書。それらはもう、形を保つことすら許されません。
物というのはね、亜紀子ちゃん。それ単体で存在しているわけではないのです。
スマホは「電波が届く場所」と「誰かが待つ場所」が支えている。教科書は「あなたの机」と「明日の予鈴」が支えている。
その「場所」の記憶が、パステルカラーの霧に溶けて消えるたび、物は支えを失い、静かに自壊していく。それが、この世界の「お葬式」の作法なのです。
「亜紀子、これなーに? キラキラの砂遊び?」
黄色いミチが、カバンの底に溜まった「元・スマートフォン」だった粉を掬い上げ、無邪気に笑いました。
砂はミチの掌の上で、一瞬だけバグのような残像を結びます。
『mother(お母さん)』――。
未読のままの、最期のメッセージ。
けれどミチがそれを「ぽいっ」と空へ投げると、文字はもう、意味を持たないただの塵へと還っていきました。
亜紀子は答えようとして、隣で銀色のラッパを磨くガタの、広い背中を見つめました。
ガタは、執拗なまでにラッパを磨いていました。誰かに叱られるのを極端に恐れる、怯えた子供のような手つきで。
昨夜の、うたた寝の夢。亜紀子は見てしまったのです。
「ガタ」ではない別の名前。泥だらけの靴で田んぼ道を駆け抜ける、ひとりの少年の横顔を。
「おかえり、ケンちゃん」
玄関先で待つ母親の、温かな声。それは、亜紀子の記憶にある「母」の姿とも重なり、胸の奥を鋭いナイフで抉るような懐かしさを伴っていました。
「……ケン、くん?」
亜紀子の口から漏れたその名は、平和なパステルカラーの空気の中では、あまりに場違いで、硬質な異音を立てました。
うふふ、うふふ。
草原を満たしていたホワイトノイズが、その瞬間、喉を詰まらせたように途切れました。
いつもは石像のように無表情なガタの手が、ぴたりと止まる。
彼はゆっくりと、錆びついた歯車が悲鳴を上げるような動作で亜紀子を振り返り――。
たった一度。深く、重く、頷きました。
(――そうだ。私は、あなたが今呼び戻した、その『人間』だ)
ガタの目から、緑色の小さな雫がひとつ、こぼれ落ちました。
それは涙ではありません。彼の体はもう、人間の体液など持ち合わせていない。
代わりに溢れ出したのは、彼の中に封じ込められていた、かつて「幸福」と呼ばれていた情動の、最期の燃えカス。
雫は地面に落ちると、じゅっと、システムが焦げるような音を立て、草の中へ吸い込まれていきました。その瞬間だけ、パステルグリーンが「生々しい現実の緑」に染まり、そしてまた、何事もなかったかのように記号の色へと戻りました。
私は、少しだけ悲しくなりましたよ。
だって、この世界で誰かの「真名」を呼び戻すということは、その対価として、自分の最も大切な「何か」を差し出さねばならないという、鉄の掟があるのですから。
翌朝。
ガタはいつも通り、亜紀子のためにビスケットを焼きました。
彼はもう、二度と亜紀子を振り返りません。昨日の頷きこそが、彼の人生の、正真正銘の「最期」だったのです。
代わりに、ビスケットを差し出す彼の手つきは、まるで壊れ物を扱うように丁寧でした。
亜紀子は受け取った温もりに、いつもの言葉を返そうとしました。
胸の奥には、温かな感謝の泉が湧き上がっている。それを口に出そうと、喉を震わせた、その時。
「…………っ」
声が、出ない。
「あ」という音も、「と」という音も。言葉の出口が、物理的に縫い合わされたかのように塞がっている。
感謝の気持ちは確かにそこにあるのに、それを外の世界へ繋ぐための「形」が、自分の中から綺麗に剥ぎ取られている。
亜紀子は何度も、金魚のように口をパクパクと動かしました。
胸の温かさは、行き場をなくして逆流し、冷たい虚無へと変わっていく。
「うふふ。亜紀子ちゃん、言わなくても全部わかりますよ」
ドコが、彼女の頭を優しく撫でました。
その手のひらの温度は、不気味なほど完璧でした。
「言わなくてもわかる」。
それは、この丘で最も甘美で、最も残酷な処刑宣告です。
伝える必要がないなら、口を閉ざせばいい。苦しむ必要がないなら、心を殺せばいい。
みんな、ゆっくり、静かに。お腹のモニターに砂嵐を映しながら、「言わなくてもわかる」微笑だけを浮かべて、記号として暮らしていける。
ガタのモニターには、一瞬だけ、ランドセルを背負った少年の残像が走り――次の瞬間、すべてを塗りつぶす無機質な砂嵐へと戻りました。
ようやくすべての債務を払い終え、安心して死んだ者のような、深い、深い沈黙の嵐。
亜紀子は、ビスケットを一口、かじりました。
甘い。温かい。けれど、何かが、致命的に欠けている。
味の余韻にあったはずの、誰かと響き合いたいという「温度」が、もうどこにも見当たりません。
私は知っています。
亜紀子ちゃん。あなたが失ったのは、たった五文字の響きです。
でも、その五文字を失うだけで、世界はこんなにも、他人事のように美しくなってしまうのですね。
誰かに親切にされても、もうお辞儀の深さを思い出せない。
誰かに微笑まれても、もう目を細める理由がわからない。
さよなら、さよなら。
「ありがとう」の死滅した朝に、今日も太陽が無邪気に笑っています。
亜紀子ちゃんは、その光に誘われるように、一歩、また一歩、太陽の「口」へと近づいていくのでした。




