名前が風邪を引いた日
おやおや、皆さん。亜紀子ちゃんの好奇心には困ったものですね。
昨夜の「警告」が、彼女の脳の柔らかい部分をチリチリと刺激してしまったようです。
ドコが温かなハチミツの準備をしている隙に、彼女は丘の裾野に鎮座する「白い建物」の重い扉を、その小さな手で押し開けてしまいました。
大人なら、決してそんな真似はしません。
大人とは、扉の重さだけで、その向こう側に「取り返しのつかない対価」が待っていることを察知できる、臆病な生き物のことですから。
けれど、亜紀子ちゃんはまだ十二歳。
「知ること」が常に美徳だと教え込まれた、残酷なほど純粋な季節にいます。
扉の向こう側――。
そこは、パステルグリーンの光さえ届かない、静止した空間でした。鼻を突くようなツンとした消毒液の匂い。それに、あの甘ったるい「ねりね」の香りが混ざり合い、腐りかけた果実のような異臭を放っています。
ぴ、ぴ、ぴ。
無機質な電子音が、誰かの心臓の鼓動を機械的に代行している。
「あら。新しい『お友達候補』かしら?」
真っ白な毛皮をまとったポヨの看護師――シロが、音もなく亜紀子の背後に立ちました。
シロのお腹のモニターには、波ひとつない水平線のような心電図が、静かに、ただ静かに流れています。
「ここ……何を、しているの?」
亜紀子の問いに、シロは答えず、ただ長い廊下を指し示しました。
そこには、無数のベッドが、まるで博物館の標本のように整然と並んでいました。
横たわっているのは、かつてこの丘を訪れた「大人たち」の成れの果て。
彼らは一様に目を見開き、窓のない天井の一点を、何も映さない硝子細工のような瞳で見つめています。瞬きひとつ、呼吸ひとつ、そこには意志の欠片も残っていません。
「この人たちはね、名前がひどい風邪を引いてしまったのよ」
シロは一人の青年の枕元に屈み、新鮮な「桃色のねりね」をスプーンで運びました。
青年は咀嚼さえしません。ただ、喉が反射的にそれを飲み込むだけ。口端からこぼれたピンク色の液が、彼の肌を「侵食」するように染めていく。
「自分は誰か。何を背負い、誰を恨んでいたか。……そんな『重たすぎる荷物』を捨てきれずに、心が自重で潰れてしまった、可哀想な空箱(入れ物)たち」
シロは、亜紀子の頬をそっと撫でました。その指先は、お母さんの手よりもずっと滑らかで、死体のように冷たい。
「ねえ、亜紀子ちゃん。あなたも、自分の名前を――自分が何者であったか、一生懸命に思い出そうとしてごらんなさい?」
亜紀子は、必死に記憶の澱を掬い上げようとしました。
――水前寺、あき……。
「……ゴホッ! ゲホッ!」
突如、肺を焼くような激しい咳が彼女を襲いました。
名前を最後まで紡ごうとするたび、喉に鋭いカミソリを入れられたような激痛が走る。
咳き込むたび、彼女の口から、真珠のような形をしたピンク色の粒が、ポロリ、ポロリと床に弾けました。
それは、彼女の人生を形作っていた「名前」の音節たちが、味を持つ肉塊となって、身体から拒絶された証でした。
「ほら、無理をするから。名前なんて、ただの『重り』なのよ」
シロは慣れた手つきで、床に落ちたピンクの粒をガーゼで拾い上げ、銀の容器に収めました。
チリン、と冷たい音が響く。
容器の中には、他の「空箱」たちが吐き出した、無数の名前の残骸が詰まっていました。
「これを捨ててしまえば、あんなふうに、ただ『在る』だけの幸福になれるのに」
シロが指差すベッドの主たちは、もはや人間というより、美しい沈黙を守る家具のようでした。
亜紀子は、足が震えて動けませんでした。
大人たちがこの扉を開けない理由を、彼女は今、身をもって理解してしまった。
知ることは、救われることではない。
知った後に、その重さに耐えられない自分を知る。それが、本当の絶望だと。
「シロさん……あの人たちは……いつ、帰れるの?」
シロは、慈愛に満ちた笑みを浮かべました。
「亜紀子ちゃん。帰る場所には『名前』が必要でしょう? 彼らにはもう、故郷を呼ぶための言葉も、自分を定義する苗字もない。ここはね、永遠に迷子のままでいられる、世界で唯一のゆりかごなのよ」
亜紀子は、再び小さく咳き込みました。
また一文字、ピンクの粒がこぼれ落ちる。それが自分の苗字の、どの文字だったのか。それを確かめる気力さえ、甘ったるい空気の中に溶けていく。
私は知っていますよ。
教えてあげる人は、もう、どこにもいないということを。
お母さんは、あの雨のトラックの中に。
お父さんは、最初からあなたの物語には存在しなかったのかもしれない。
知らないほうがいいことを「知らないままでいなさい」と叱ってくれる手は、もう、どこからも伸びてこないのです。
ポヨたちは、決してあなたを叱りません。
建物の外では、ドコがいつもの穏やかな笑顔で、彼女を待っていました。
彼の手には、喉の灼熱を消し去ってくれる、とびきり甘いハチミツ味の「おひさまビスケット」。
「さあ、亜紀子ちゃん。おうちに帰りましょう。難しいことは、全部太陽が代わりに考えてくれますよ」
ドコは、「勝手に出ちゃダメだよ」とも「危ないよ」とも言いませんでした。
ただ、にっこりと微笑んで、彼女の魂を削り取るための菓子を差し出しただけ。
――それが、亜紀子には、この世で最も冷酷な暴力に感じられました。
亜紀子は、二度と白い建物を振り返りませんでした。
ビスケットを一口かじると、喉の痛みは魔法のように消え、脳裏に浮かぶのは、日向ぼっこをした布団の、安らかな無意味さ。
あとに残ったのは、ただ「あきこ」という、ひらがな三文字の響きだけ。
水前寺、という重たい石のような苗字は、もう、思い出せません。
けれど、それを失ったことのほうが、なんだか――羽が生えたように、楽だったのです。
さて、亜紀子ちゃん。
次の角を曲がれば、また新しい「昨日」が待っていますよ。
苗字を捨てて、軽やかになったあなたを。




