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太陽が笑えば、それでいい  作者: 水前寺鯉太郎


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丘の裏側、灰色のお友だち


 おやおや。困りましたね。

 亜紀子ちゃん、いけませんよ。みんなが「幸福な虚無」に包まれて眠る時間なのに、独りきりでドームを抜け出すなんて。

 夜の「うふふの丘」は、あなたが昼間に見たお花畑とは、少しだけお顔が違います。

 赤ちゃん太陽が沈んだ後の空には、希望を象徴する星などひとつもありません。代わりに、空全体がうっすらと青白く発光している。それは、寿命が尽きかけた古い蛍光灯が、最期のあがきで放つような、不規則で病的な瞬き。

 チ、チ、チ……。

 空のどこかで、回路が焼き切れるような微かな異音が鳴り響く。

 昼間、あんなに優しかったホワイトノイズも、夜は肺病患者の呼吸のように途切れ途切れ。

「うふふ……ふ……ッ……ふ……」

 笑いかけて、そのまま喉を詰まらせたような、歪な残響。

 ぽよっ、ぽよっ。

 亜紀子の足音だけが、粘つくような草原に響きます。

 彼女は探していました。昼間、あの「桃色のねりね」の影で、自分に逃げろと囁いた――灰色の、抜け殻のような何かを。

 

 カバンの底で、指先が冷たいアルミに触れます。

 半分に折れたチョコレートバー。

 誰と一緒に買ったのか、どんな言葉を交わしてそれを手に入れたのか、もう思い出せない。記憶の糸は、おひさまビスケットの甘さの中でぷつぷつと断線している。けれど、この「茶色い棒」を失えば、自分を自分たらしめる最後の重りが消えてしまう――そんな本能的な恐怖だけが、彼女を動かしていました。

「……あ。いた」

 丘の裏側。そこには、色彩を根こそぎ奪い去られた「少女の残骸」が座っていました。

 膝を抱え、灰色の煙のような髪を垂らした姿は、まるで古い映画のフィルムから切り取られた幽霊のよう。

 その耳元。亜紀子は、息を呑みました。

 色の抜けた、星のかたちのヘアピン。

 それは、かつて母が「夜逃げ」の直前、震える指で亜紀子の髪に留めてくれたものと、全く同じ形をしていました。

 彼女には名前がありません。お腹に埋め込まれたモニターには、壊れた計数機のように『0』という数字が、ただ冷たく灯っているだけ。

「……あなた、だれ?」

 亜紀子の問いに、灰色の少女は答えません。

 いいえ、答えられないのです。彼女はもう、言葉を生むための「過去」をすべて食い尽くされ、喉の奥までパステルカラーの土で満たされているのですから。

 少女が顔を上げました。

 その瞳だけが、この狂った世界で唯一「濡れて」いました。

 涙さえも枯れ果て、その流れた跡だけが、灰色の頬に、塩を吹いたような白い筋となって刻まれている。

 亜紀子は突き動かされるように、カバンからチョコを取り出しました。

「これ、あげる。食べて。これを食べれば、思い出せるかもしれないから」

 安っぽいカカオの匂いが、無機質な夜の空気を切り裂きました。

 少女の指が、震えながらチョコに伸びます。

 けれど、触れる寸前で、彼女は強烈な拒絶反応を示すように手を引っ込めました。

 ふるふると、狂ったように首を横に振る。

 よく見れば、少女の唇は、皮膚が癒着したようにぴったりと塞がっていました。それは「拒絶」ではなく、この世界が彼女に課した「沈黙」の形。

 代わりに、少女は残された最後の力を振り絞り、パステルカラーの土に指を突き立てました。

 

 に・げ・て

 

「逃げて……? どこへ?」

 亜紀子が呟いた、その時です。

 

「おや。夜遊びは、お肌の天敵ですよ、亜紀子ちゃん」

 草むらから、紫色の手がヌッと伸びてきました。

 ドコでした。

 彼は夜の闇の中でも、あの完璧な笑顔を崩しません。ただ、その瞳だけは、一度も瞬きをせず、亜紀子の「脳の奥」を凝視しているようでした。

 彼の手には、銀色の細いラッパが密集して作られた、大きなブラシが握られています。

「ドコ! この子が、逃げろって……」

「逃げる? ふふふ。亜紀子ちゃん、冗談がお上手ですね。どこへ逃げると言うのです? 丘の向こうには、新しい『昨日』があるだけ。ここ以外に、あなたの居場所なんて、もうどこにもないんですよ」

 ドコがブラシを一度、優雅に滑らせました。

 「に・げ・て」の文字が、ゴミを掃くように消え去ります。

 キン、という微かな音が鳴り、亜紀子の後頭部に、冷たい電流のような衝撃が走りました。

 脳の中を、冷たい風が吹き抜ける。

 (……あれ。私、何を話していたんだっけ?)

 灰色の少女は、光を奪われた石像のように再びうつむきました。

 

 ドコが亜紀子の肩を、優しく、しかし逃げ場を塞ぐように抱き寄せます。

「さあ、ドームへ戻りましょう。夜風に当たると、大事な『名前』が風邪を引いて、消えてしまいますからね」

 

 連れて行かれる間際。

 灰色の少女の指先が、ほんの一瞬だけ、亜紀子の手の甲に触れました。

 それは冷たく、けれど、焼き付くような痛みを伴う「接触」でした。

 ――わたしを、忘れないで。

 ――あなたは、まだ、間に合う。

 声にならない叫びが、皮膚を通じて亜紀子の神経に直接流れ込んできました。

 

 振り返ると、少女のお腹の『0』という数字が、激しく明滅していました。

 その光の輪郭が、ほんの一瞬だけ、別の文字に揺れました。

 それは、ずっと昔、母親が慈しむように呼んでいた、誰かの「名前」の残骸だったのかもしれません。

 ドームへ戻る道すがら、亜紀子は自分の手の甲をじっと見つめました。

 そこには何の跡もありません。けれど、その「空白」が、なぜか胸の奥で、毒のように熱を持って疼いていました。

 

 私は知っていますよ。

 亜紀子ちゃんは「に・げ・て」という警告を、明日には「あ・そ・ぼ」という誘いだったと思い込んでしまうことを。

 その手の甲の痛みも、明日のおひさまビスケットの香ばしさで、すっかり蒸発してしまうことを。

 

 大丈夫。逃げる場所なんて、もう地図のどこにも載っていないのですから。

 

 ――でも、ねえ、亜紀子ちゃん。

 ひとつだけ、面白いことを教えてあげましょうか。

 あなたがいた「現実」という場所。

 あそこも、あなたを忘れるスピードは、この丘と同じくらい速いんですよ?

 

 さて、明日は誰の記憶が、おいしい朝ごはんになるんでしょうね。楽しみですね。

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