桃色のねりねと銀のラッパ
さて、良い子のみんな。ここからは私、お兄さんが進行を務めさせていただきます。よろしくね。
迷子の亜紀子ちゃんが辿り着いたのは、地図には決して載らない聖域――「うふふの丘」。
ここは、悲鳴が歌声に、絶望がパステルカラーに塗り替えられる、世界で一番「正しい」場所。
今、亜紀子ちゃんが出会ったのは、この地の親切な管理人。**地底人「ポヨ」**の4人組です。
お腹にノイズの走るモニターを抱え、毒々しいほど鮮やかな毛皮に包まれた彼らは、この世界のすべて。
――おっと。失礼。「すべて」というのは、少しだけ嘘でした。
「ねえ、亜紀子。お腹と背中がくっついちゃうよ?」
黄色いミチが、亜紀子のスカートを「ぽよん」と弾きました。触れた場所から、微かな静電気のような刺激が走ります。
連れて行かれたのは、丘の斜面に口を開けた、滑らかな白いドーム。窓ひとつない内部では、巨大な機械が「うふふ、うふふ」と、心臓の鼓動に似た不気味な駆動音を立てていました。
「さあ、召し上がれ。今日の**『桃色のねりね』**。最高に新鮮だよ」
クボが差し出したのは、ボウルの中で粘り気を持ち、生き物のように蠢くピンク色のペーストでした。
「これ……何?」
亜紀子の震える問いに、最年長のドコが、無慈悲なほど穏やかな声で答えました。
「それはね、亜紀子ちゃん。君がさっきまで大切に抱えていた『現実の終わりの夢』と、この丘の清らかな朝露を煮詰めたもの。君自身を、一番おいしく加工したものだよ」
自分の記憶が、餌になる。
亜紀子は拒絶しようとしましたが、漂ってくる香りに抗えませんでした。それは、引っ越し前の家の、自分の部屋のクローゼットの匂い。大好きだった古いぬいぐるみの、温かな日向の匂い。
一口、掬って口に運ぶ。
――甘い。暴力的なまでの甘美さが、脳を直接麻痺させる。
亜紀子の目から、熱い涙がこぼれ、ねりねの中に落ちました。するとペーストは虹色に輝き、さらに芳醇な香りを放ち始めたのです。
「あはは! 最高のスパイスだ!」
ミチが狂喜して手を叩く。その、はしゃぎ声の背後で。
機械の裏側の暗がりに、色の抜けた「灰色の塊」がうずくまっているのを、亜紀子は見逃しませんでした。
それはポヨたちと同じ形をしていましたが、毛並みはボロボロに擦り切れ、お腹のモニターは真っ黒に沈んでいます。その暗闇の中に、死の宣告のような数字が浮かんでいました。
――『0』
「……あ」
亜紀子が指を差しかけた瞬間、ミチが視界を遮るように割り込みました。
「あっちを見ちゃダメ。あれは、もう『中身』を全部出し切った、おしまいのお友達だから」
おしまい。その言葉が響く中、灰色の影はズルリと壁の影に溶けていきました。
消える間際、しゃがれた囁きが耳朶を打ちました。
(……に、げ、ろ……)
ドコが手帳のページをめくる、乾いた音がドームに響きます。
「亜紀子ちゃん。あれは『第ゼロ号』。一番最初に、この世界に救われた功労者だよ。もうすぐ、丘の土になるんだ」
ドコの瞳には、感情の色彩が一切ありません。
「ところで、亜紀子ちゃん。そのカバンの中の『茶色い棒』……それ、もう重いだけだよね?」
亜紀子は無意識にカバンを抱きしめました。残りのチョコ。現実と自分を繋ぐ、最後の楔。
「大丈夫。棒そのものは返してあげる。ただ、君がそれを買った時の『夜の重み』を、ほんの少し、お皿に置かせてほしいんだ」
ガタが、壁から伸びる銀色のラッパを、亜紀子の額に押し当てました。
キン、という高い音が頭蓋の中で反響します。
次の瞬間。
雨上がりのコンビニの青白い光。レジで小銭を数える母の、震える指先。「これ一本だけ」とねだった自分の、申し訳なさと愛しさが混ざった感情――。
それらが、掃除機で吸い出されるように、ズルリと脳から剥がれ落ちました。
痛みはありません。ただ、魂の一部が物理的に欠落したような、薄ら寒い空虚が吹き抜けただけ。
ボウルの中の「ねりね」が、ぽちゃんと新しい記憶を受け止め、さらに深い桃色へと変色しました。
「あれ……」
亜紀子は、ぱちぱちと瞬きをしました。
(……私、どうしてチョコを持ってるんだっけ?)
理由は思い出せない。けれど、思い出せないことが、信じられないほど「楽」だったのです。
天窓越しに、赤ん坊の太陽が満足げに目を細めました。
その瞬間、亜紀子は見てしまいました。
ふくふくとした赤ん坊の頬の奥に、刹那、別の誰かの顔が重なるのを。
それは、眉をひそめ、必死に娘の名前を呼ぼうとしている――現実の世界に取り残された、母の泣き顔。
「……気のせい、よね」
亜紀子は微笑み、桃色のねりねを、もう一口、喉の奥へと流し込みました。
甘い。あまりにも甘くて、自分が誰であったかさえ、もうどうでもいい。
さて。
亜紀子ちゃんは今日、コンビニの夜と、お母さんの指先の感触をお友達にプレゼントしました。とぉっても、賢い選択ですね。
忘れるということは、救われるということ。
さあ、次は何を差し出してくれるのかな? 楽しみですね、お兄さんは。




