目が覚めたら、まだ朝だった
お尻の底を突き上げる、断続的な微振動。
亜紀子はそれを、あの忌々しい「夜逃げ」の記憶だと確信していた。
車窓を叩く激しい雨。積まれた段ボールから漂う、埃とカビの混じった臭い。狭い軽トラックのキャビンには、絶望が飽和していた。隣でハンドルを握る母の横顔は、もはや生きた人間のそれではない。化粧で隠しきれない目の下の隈が、死斑のようにどす黒く沈んでいる。
(……亜紀子。もう、大丈夫よ。全部、置いてきたから)
母の湿った声。それは安らぎではなく、底なし沼への招待状だった。
ふと、重い瞼を開ける。
……雨の音がない。
視界に飛び込んできたのは、網膜を焼くほど鮮烈なパステルグリーンの地平線だった。なだらかな丘の連なり。その向こうから、天を埋め尽くさんばかりの、巨大な「赤ん坊の顔」をした太陽が昇っている。
太陽は、無邪気だった。無邪気ゆえに、一切の慈悲を排した神のような笑みを浮かべ、この世界を覗き込んでいる。まつ毛の一本一本が、意志を持つ雲のようにうごめいていた。
「おはようございます、亜紀子さん」
慈雨のような声が降ってくる。どこにもスピーカーはない。空そのものが震えている。
「今日も世界は、規律正しく(ちゃんと)始まりました。よかったですね」
――「ちゃんと」。
その響きが、棘のように胸に刺さった。現実の世界で、彼女が一度も達成できなかった呪いの言葉。
起き上がろうと足を踏み出すと、足元で「ぽよっ」と空気が弾ける音がした。アスファルトの硬さも、排気ガスの不快感もない。ここには、督促状の朱い判子も、母の絞り出すような溜息も存在しない。
丘の頂に並ぶ銀色のラッパ状の通気口からは、一定のリズムでホワイトノイズが流れている。それは「考えるな、ただ幸福であれ」という強迫的な子守唄のように聞こえた。
「……あ」
丘の陰から、不自然なほど鮮やかな黄色い影がのぞいた。
丸い、二頭身の肉塊。影は太陽と同じ、完璧な満面の笑みを浮かべて手を振っている。その指先は関節がなく、風船に空気を詰め込んだように丸く、柔らかい。
「……ここは、どこ?」
自分の声が、驚くほど軽かった。湿り気も、重みもない。
黄色い影は答えない。代わりに、天の赤ん坊太陽がケラケラと笑った。この世のすべての悲劇を「下手な冗談」として切り捨てるような、残酷なほど明るい笑い声が世界を揺らす。
亜紀子は、あてもなく歩き始めた。
どこまで歩いても、風景に奥行きがない。ドーム状の住居が点在しているが、窓の形はすべて「笑った口」を模している。それらは家というより、地面から生えた巨大な顔の一部のように見えた。
やがて、向こうから四つの人影が近づいてくる。
人間にしてはバランスが欠け、生き物にしては動きが滑らかすぎる。アニメのフレームを間引いたような、ある瞬間から次の瞬間へ「跳ぶ」ような歩き方。
赤い体の『クボ』、黄色い『ミチ』、紫の『ドコ』、緑の『ガタ』。
彼らのお腹には、ザラついた砂嵐を映し出す液晶モニターが埋め込まれていた。ノイズの奥で、何かの映像が明滅している。
……葬式の白い菊。母の震える指先。亜紀子が昨夜、ゴミ箱に捨てた督促状。
「あ! 不純なものが、紛れ込んでいるよ!」
赤いクボが、鋭い動作で亜紀子を指差した。四人が等速で、滑るように距離を詰める。
亜紀子は震える手で、ポケットに残っていた「現実の残骸」――食べかけの安物チョコを取り出した。
「……これ。食べる?」
差し出されたチョコを、紫のドコが取り出した手帳に記録する。
「記録。これは『地上の絶望』。僕たちの純粋な世界には不要な、不快なエネルギー。でも……」
リーダー格のクボが、亜紀子の手からチョコを奪い取った。
「僕たちが『浄化』してあげなきゃ!」
クボはチョコを――アルミの包み紙ごと、一口で噛み砕いた。
ガリッ、という生々しい音が響く。
その瞬間。
天の赤ちゃん太陽が、世界を裂くような大笑いを見せた。
草原のパステルグリーンが、心臓の鼓動に合わせて激しく明滅し、亜紀子の視界がぐにゃりと歪む。
「美味しいね! 悲しい味がする!」
クボが笑う。モニターの砂嵐が晴れ、そこに映し出されたのは――。
昨夜、軽トラックの助手席で、虚空を見つめていた亜紀子自身の顔だった。
「さあ、亜紀子さん。あなたの『余計な記憶』も、全部食べてあげましょうか?」
太陽の笑い声が、耳を塞いでも頭蓋骨の中に直接響き渡る。
ここには、もう悲しみはない。
代わりに、死よりも深い「幸福」という名の暴力が、彼女を飲み込もうとしていた。




