沈むことに、気づかない人
おやおや、皆さん。
人間第一号さん、今日はなんだか歩みが重そうですね。
パステルピンクの肌は、もはや太ももの上部まで滑らかに侵食し、彼女の自由を甘く、確実に奪い去っている。
けれど、お腹に浮かぶあの四角い影だけは、昨日の「拒絶」を刻んだまま、静かにその動きを止めていました。
人間というのは、なんと因果な生き物なのでしょう。
言葉の定義を忘れ、数を数える術を失っても、一度放った「意志」だけは、呪いのように肉体の深淵に住み着き、システムという名の神に抗い続ける。
彼女は今日、「たくさん」の丘を越え、「たくさん」の絶望を素通りしてきました。
ポケットの中の十の粒たちは、彼女の摩耗した神経の代わりを務めるように、しゃらしゃらと不吉な子守唄を歌っている。
ふと、なだらかな丘の斜面に、異様な光景が広がっていました。
誰かが、地面に埋まっている。
いえ、座っているのではありません。それは、大地という名の巨大な口に、ゆっくりと咀嚼されている姿でした。
「……あら、こんにちは。いいお天気ね」
胸元まで地面に飲み込まれた**「第五号」**の女性。
彼女は、まるで母親の胎内に還ったかのような、うっとりとした表情で微笑んでいました。
地表に残された両手の指先だけが、何かを愛撫するように、あるいは必死に何かを探すように、空虚な大気を彷徨っている。
「あの……大丈夫ですか? 身体が、沈んで……!」
亜紀子が駆け寄り、その肩に手を伸ばそうとして――凍りつきました。
「他者の肉体に触れる」という、かつて当たり前だったはずの動作。それが今、このパステルカラーの檻の中では、何よりも恐ろしい「侵犯」に感じられたからです。
最後に誰かの体温を感じたのは、いつだったか。あの雨のトラックの中、母の冷え切った二の腕に触れた、あの絶望的な夜だったか。
「沈んでいる? うふふ、何をおっしゃるの。ここはね、世界で一番『優しい』場所なのよ」
第五号の女性は、すでに触覚という機能を返上していました。
彼女にとって、自分を締め上げる土の圧力は「柔らかな抱擁」であり、肉を削る微振動は「子守唄」に過ぎない。
亜紀子は、彼女のドームの奥に、積み上げられた「負債」を見ました。
天井まで届かんばかりの、未開封の手紙の山。
それは、彼女が地上で「開けなかった言葉」の数々。
その時。九つ目の粒が、亜紀子の指先から火花のように弾けました。
(……さ・わ・る……)
――ッ!?
視界が、生理的な不快感に塗り潰される。
「みえる」粒が暴く、この世界の真皮。
さっきまでパステルカラーの草原だと思っていた地面は、今や**「蠢く巨大な生き物の粘膜」**へと変貌していました。
ドクン、ドクン。
大地は生きていました。大地は、執拗に空腹でした。
ぬるりとした消化液の匂いが鼻腔を突き、大地は第五号さんを、何十年もかけて慈しむように、丁寧に、丁寧に、溶解させていた。
粒を通じて、第五号さんの「拒絶の理由」が流れ込んできます。
最後の手紙。最後の一通を開けてしまったら、自分の中の何かが、また誰かの温もりに触れてしまう。
触れれば、また傷つく。あるいは、誰かを傷つける。
だから彼女は、一切の「接触」を断ち、自分自身をこの大地の食道へと捧げた。
「触れないこと」で自分を守り、そのまま消えていくことを選んだ、あまりに孤独な自殺。
「ね? 気持ちいいでしょう?」
地表に残された第五号の指先に、亜紀子は自らの手を重ねました。
それはシステムに対する、決定的な短絡。
ぬるりとした、粘膜の手触り。死体のように冷たく、けれど確かに「生」の残り香がする指。
亜紀子は、その気持ち悪さに喉を詰まらせながらも、手を放しませんでした。
第五号さんの唇が、微かに動きました。
声はありません。けれど、そこには明確な「ありがとう」の形があった。
亜紀子のポケットで、「ありがとう」の粒が、裂けんばかりに共鳴しました。
地面の上と下で、二つの喪失が、一瞬だけ重なり合う。
ズブッ。
大地が最後の一口を飲み込み、そこには何も残されませんでした。
ただ、地表にぽつんと、ひと粒の白い涙の結晶が残されただけ。
私は、知っていますよ。
人間第一号さん。あなたが感じたその吐き気こそが、あなたがまだ「人間」である最後の証明だということを。
ドームの奥、未開封の手紙の一通。
宛名には「五月さま」と書かれていました。
亜紀子はその名前を指でなぞり、けれど、封を切ることはありませんでした。
それは、五月さんが選んだ「孤独の完成」に対する、彼女なりの礼儀でした。
さよなら、さよなら。
自分と世界の境界が、ドロドロの消化液に溶けていく恐怖の午後に。
……そして。
私も、いつか誰かに「さつき」と呼ばれていた気がするのです。
なぜ、私がその手紙の差出人の筆跡に、見覚えがあるのでしょう。
語り手のノイズが、止まらない。
……私もいつか、誰かに手紙を送り続け、そして、返事を待つことを辞めてしまった――。
いえ、これはまた、別のときのお話ですね。




