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太陽が笑えば、それでいい  作者: 水前寺鯉太郎


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13/13

冬の服を着る、夏の人

 おやおや、皆さん。

 今日は、太陽が酷くご機嫌斜めなようです。

 赤ちゃん太陽はふくふくした頬を怒りに膨らませ、いつもの数倍の執念で世界を焙り、灼き尽くそうとしています。

 パステルカラーの草原は、熱に浮かされたように蜃気楼を立ち上げ、視界は歪んだ硝子越しのようにぐにゃりと波打っている。

 ポヨたちは、この殺意に近い熱気を避けてドームの影へ逃げ込み、泥のような眠りに落ちていました。

 

 人間第一号は、足の付け根まで侵食されたパステルピンクの肌を太陽に晒しながら、あてどなく丘を彷徨っていました。

 「暑い」という感覚は、もう彼女の意識の上を滑り落ちるだけの、無意味な情報に過ぎない。けれど、ポケットの中の粒たちが、重油のようにぬるりと汗をかき、不快な熱を発している。

 粒たちは、彼女の切り離された神経系そのもの。

 粒が熱を帯びているから、自分も「暑い」はずだ。そんな、論理の梯子を一段ずつ昇らなければ、彼女はもう、自分の肉体の状態さえ把握できなくなっていました。

「……さむい、さむい」

 ふと、熱波の隙間を縫って、氷の礫のような声が届きました。

 明るい、けれど、歯の根が合わないほどに震えた少年の声。

 丘の中腹、逃げ場のない陽炎の中に、その子は立っていました。

 

 十歳前後。この炎天下にありながら、彼は厚手のダッフルコートのボタンを喉元まで留め、マフラーを執拗に巻き付けている。手には緑色の毛糸の手袋。

 蜃気楼の中で、彼だけが鮮明な輪郭を保った「冬の静物」として、世界から浮き上がっていました。

「さむい、さむい。今日も、きれいな冬だね」

 

 少年は、笑いながら両手をこすり合わせました。

 草原は熱せられたアスファルトのような臭気を放っているのに、彼の口元から吐き出される息は、不思議と白く、鋭く、凍てついている。

「君も、こっちにおいで。火を、起こしてあげるから」

 彼が指差した地面には、焦げた跡すらありません。けれど、彼の瞳には、爆ぜる炭の火が、世界で最も確かな救済として映っている。

 人間第一号は、吸い寄せられるように彼へと近づきました。

 近づくにつれ、ポケットの中の「みえる」の粒が、眼球を内側から焼くような熱を帯びる。

 私は、見てしまいました。いや、見せられてしまったのです。

 彼女の視界が反転し、世界の欺瞞が剥がれ落ちる。

 

 少年の周囲、わずか一メートルの空間。

 そこでは、絶え間なく白い粉が立ち上り、吹雪となって吹き荒れていました。それは雪ではありません。少年の肉体が、細胞単位で自らを「冬」へと削り、排出した魂の残骸。

 

 彼の足元、ダークグリーンの雪用ブーツ。

 右足のブーツだけが、不自然に大きい。歩くたびに「カポ、カポ」と、持ち主のいない空洞の音が草原に響く。

 それは、あの第二号の老人が、磨き抜かれたドームの中で、今も帰りを待ちながら紐を結び直している、あの「一足」の対となる片方。

 少年は、死んだ誰かの、あるいは置き去りにした過去の自分を、その空洞の中に無理やり歩かせている。

「おじいちゃんのブーツだよ。……おじいちゃんと、いっしょに、雪の山に、おでかけしたんだ」

 

 彼は誇らしげに、左右でサイズの異なる手袋を持ち上げました。

 右手の大人向けの手袋。

 左手の子供向けの手袋。

 ――片方ずつ繋いでいきましょうね。

 

 ……私は、息が止まりました。

 知っている。私は、この言葉を知っている。

 クボのモニターに映った、あの雨の日の母の、死に際の囁き。

 なぜ。なぜ、この丘に降る悲劇は、どれも同じ「形」をしているのか?

 私は、ナレーターのくせに、自分の喉がパステルカラーの雪で埋め尽くされていくような、絶望的な寒さを感じていました。

 

「……さ・む・い……」

 

 新しく生まれた八つ目の粒が、彼女の神経に直接、氷の針を突き立てました。

 「さむい」という叫びは、誰かに毛布を持ってきてほしい、という祈り。

 第四号は、もういない誰かに向かって、数千回、数万回、その祈りを捧げ続けている。冬を終わらせないことで、おじいちゃんという幻を、この灼熱の地獄に繋ぎ止めている。

 

 亜紀子の身体が、総毛立ちました。

 蜃気楼の中で、彼女の周りだけが、バリバリと凍てつく。

 「さむい」は、孤独。

 他人がいないことを証明する、最も透明な苦痛。

 

「ねえ、君も、こっちにおいで」

 

 見えない火の傍へ。永遠の、停滞した温もりの傍へ。

 誘う少年の瞳は、もう誰の姿も映していません。

 

 その時。

 亜紀子の喉の奥で、カチ、と音がしました。

 

「……行かない」

 

 それは、喉を塞いでいた「忘却」を無理やり吐き出し、自らの血肉で研いだ、鋭い鉄の言葉。

 まねっこゲームでも、ポヨとしての反応でもない。

 

「行かない。私は、行かない」

 

 『私は』。

 その一人称が放たれた瞬間、彼女のお腹に浮かんでいた四角いモニターの輪郭が、目に見えて薄くなりました。

 システムによる管理を、彼女の「自我」が、物理的に押し返したのです。

 

 第四号は、不思議そうに首を傾げ、再び見えない火へと視線を戻しました。

 彼にとって、この「反逆」さえも、降っては消える雪の一片に過ぎない。

 

 帰り道、彼女は北の丘を見つめました。

 靴の紐を結び続ける老人と、大きすぎるブーツを履いて凍り続ける少年。

 彼女は、真実を告げませんでした。

 告げれば、彼らの「美しい停滞」は粉々に砕け、そこには耐え難い灰色の現実が残るだけ。

 「知らないほうがいいこと」を、「言わない」こと。

 それは、彼女がこの偽物の楽園で、初めて獲得した「大人のずるさ」であり、同時に「最後の人間としての慈悲」でした。

 

 私は、知っていますよ。

 人間第一号さん。あなたが今日、背負ったのは、季節を止めた者の悲哀。

 時間を止めた者は、二度と誰かの元へは歩けない。

 けれど、暑さと寒さに身を焦がし、自分の足で拒絶を選べるあなたは、まだ、どこかへ行ける人です。

 

 ポケットの中の八つの粒。

 それはいつか、あなたがこのパステルカラーの迷宮を抜けるための、地図になるのかもしれません。

 ……いえ、これはまた、別のときのお話でしたね。

 

 空を見上げれば、赤ちゃん太陽が熱心に笑っている。

 けれど、彼女の周りだけ、ひっそりと冷たい風が吹いていました。

 それは冬の記憶。

 いつか消えてしまうけれど、今、確かに彼女をそこに繋ぎ止めている、重たい冬の、名残でした。

 

 さよなら、さよなら。

 愛する人の幻を温めるために、自ら吹雪になることを選んだ、孤独な聖者の午後に。

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