痛くない、ということ
おやおや。人間第一号さん、今日は膝を派手に擦りむいてしまったようですね。
けれど、あなたはちっとも顔をしかめません。パステルピンクの肌が剥げ、中から「綿」のような白い繊維が覗いているというのに。
血は、もう、出ません。
彼女の身体は、流れるべき赤を忘れ、清潔で乾燥した「詰め物」に書き換えられてしまった。
傷口からは、洗いたての毛布のような、無機質でどこか甘い工業製品の匂いが漂うばかり。知ってしまった「真実」は、彼女から驚きという名の生存本能さえも奪い去っていました。
「ねえ、それ、ちっとも痛くないんでしょう?」
小高い崖の上。空に抜けるような、明るすぎる声が降ってきました。
覆い隠すべき絶望を、過剰な糖分で塗りつぶしたような声。私はその音色に、ひどく聞き覚えがありました。……いえ、これはまた、別のときのお話ですね。
そこにいたのは、「第三号」。
亜紀子がここへ来るずっと前、あの廃ドームに「わたしの」と書ききれなかった、名前を失った先駆者です。
「痛いって、どんな感じだっけ?」
少女は笑いながら、迷いなく崖から身を投げました。
着地の瞬間、乾いた綿が潰れるような「ボフッ」という音と、骨が折れる「パキッ」という音が同時に草原を揺らす。彼女の足首は、子供が乱暴に扱った人形のように、あり得ない方向へと折れ曲がりました。
「ほらね、平気。この丘には、『痛い』を運んでくる風が吹かないの」
彼女は、笑いながら足首を力任せにバキリと戻しました。その動作は、壊れた玩具を修理する職人のように手慣れている。
昨日の「見える粒」を瞳に宿した亜紀子には、その笑顔の裏側で、組織が断末魔を上げ、細胞が機能を停止していく凄絶な光景が、克明に「見えて」しまっていました。
それだけではありません。
少女の全身には、幾重にも重なった「絆創膏の影」がありました。
剥がした跡のグラデーションが、まるで地図の等高線のように肌に刻まれている。
傷のない場所に、ただ「自分をそこに繋ぎ止めるため」だけに貼り続けられた、存在の証明。
「痛くないって、とっても楽だよ。……あはっ!」
その瞬間。
亜紀子のポケットで、八つ目の粒が炭のように熱を帯び、彼女の指先を焼き切らんばかりに脈打ちました。
(……い・た・い……)
それは、五歳の頃の少女が、誰にも聞いてもらえなかった最初の悲鳴。
自分で自分に絆創膏を貼り始めたあの日、暗い台所の隅で凍えていた、孤独な魂の残響。
「――っ!!」
激痛が、亜紀子の神経を逆流しました。
第三号が感じるはずだったすべての痛みが、粒を通じて彼女の身体に「返却」されたのです。
骨が軋む摩擦熱。神経を刺し貫く疼き。そして、どれだけ自分に絆創膏を貼っても、誰にも「大丈夫?」と声をかけてもらえなかった、魂の底冷え。
亜紀子は草原にうずくまり、声を殺して震えました。
その「声の殺し方」さえ、かつての少女がそうしたように、身体が勝手に「作法」として学習していく。
「あら、第一号さん。お腹が痛いの? クボに、もっと甘い『ねりね』をもらわなきゃ」
第三号は、不自然なほど軽やかな足取りで、丘の向こうへ駆けていきました。
痛みという「境界線」を解雇した彼女は、もう自分の身体の所有権を放棄している。
だから、飛び降りても、壊れても、笑っていられる。
それは無敵の強さに見えましたが、同時に、彼女という存在を空気よりも軽く、無価値にしていました。
彼女が去った後、ドームの入り口には、丁寧に、丁寧に折りたたまれた「絆創膏の山」が積まれていました。
誰かに剥がしてほしい。誰かに、貼らなくても「あなたはここにいる」と告げてほしい。
ポヨ化してもなお消えない、人間の最後の一滴のような「願い」。
私は知っていますよ、人間第一号さん。
痛みがあるからこそ、あなたは「壊れてはいけない自分」を維持できるのだということを。
けれどこの丘では、壊れても笑うことこそが正解。
第3号にとって、ここは逃げ場ではなく、ようやく見つけた「理想の居場所」だったのです。
赤ちゃん太陽が、転んだ第3号を見てお腹を抱えて笑っています。
太陽は痛みを知りません。だから、他人の欠損を「喜劇」として消費します。
亜紀子は、激痛に耐えながら、真っ白な汗のような粒を土にこぼしました。
誰の代わりにもなれなかった少女が、初めて他人の痛みを物理的に引き受けた、その対価。
粒は土に吸い込まれず、冷たい輝きを放って彼女の足元に転がりました。
さよなら、さよなら。
他人の孤独な「悲鳴」を、自分の肉体で受け止め始めた、惨憺たる午後に。
……そして。
私のこの胸に貼られた見えない絆創膏を、剥がしてくれる誰かは、もう、この物語のどこにもいないのでしょうか。
……いえ、これはまた、別のときのお話でしたね。
さあ、次の丘を数えに行きましょう。数は、もうわからないけれど。




