会えなくなった子に、初めて会う
おやおや。人間第一号さん、今日は少し遠出をするのですね。
太ももの付け根まで滑らかなパステルピンクに侵食されたその足は、踏み出すたびに「ぽよっ、ぽよっ」と小気味よい、けれどどこか粘着質な音を立てています。
二桁以上の数を数えられなくなった彼女にとって、目的地までの距離はただの「たくさん」。
けれど、ポケットの中の粒たちが、彼女の意志を追い越して熱を持ち始めました。粒たちは知っているのです。そこには、彼女が手に入れるべき「次の欠損」が待っていることを。
私は知っていますよ。失ったものを集め続けると、それはいつか、自分という人間を模った「別の怪物」へと成長するのだということを。
辿り着いたのは、丘の北端に座する、異様なほど白く磨かれたドームでした。
消毒液の匂いが漂うシロの建物とは違い、ここは――誰かが、何十年もかけて、自らの命を削りながら磨き続けた「執念の白」。
そこに住むのは、**「第二号」**と呼ばれる老人。この丘の歴史の、生きた化石です。
扉を開けた瞬間、彼女のお腹のあたりで四角い影が「ジリッ」と焼けるような熱を発しました。それは、自らの行く末を予見した心臓の、最期の悲鳴だったのかもしれません。
「……ああ、新しい風の音がする。第一号さんだね?」
老人は、何もない壁を見つめたまま、聖者のような微笑を浮かべました。
彼の瞳は、かつて夜の海を見たまま凍りついたかのように、白く、濁り、底がありません。彼は視覚という「呪い」を太陽に捧げた代わりに、この世界を「完璧な美しさ」として認識する特権を得たのです。
「第二号さん。……お部屋、とても綺麗ですね」
彼女が声をかけると、老人は子供のように深く頷きました。
「そうだろう? ここは汚濁のない楽園だ。パステルグリーンの絨毯、黄金の雨。……私には、君よりもずっと鮮やかに『見えて』いるんだよ」
老人が広げた指先は、何もない空虚を愛おしげになぞりました。
その瞬間。
彼女のポケットで、かつてないほど冷酷な火花が散りました。
新しく生まれたその粒は、冬の朝の窓ガラスのような、透き通った青いピンク。
(……み・え・る……)
耳元で響いたのは、視力を失う前の、若かりし第二号自身の「剥き出しの意識」でした。
灰色の少女のヘアピンがそうであったように、この丘の「属性」は、人と人の間を還流する。老人が捨てた「真実」が、今、彼女の瞳へと毒のように注ぎ込まれたのです。
世界が、反転しました。
老人が「美しい」と誇っていたドームの壁。
そこには、彼が忘却の底へ沈めたはずの「地上の絶望」が、どろりとした黒い油ジミとなってこびりついていました。それはひとつ、またひとつと塗り重ねられた、無数の子供たちの「指紋」の層。ここから逃げ出そうと、爪が剥がれるまで壁を掻き毟った、叫びなき断末魔の壁画。
整然と並ぶ家具は、錆びた骨組みとガラクタをランドセルの肩紐で縛り付けた、不気味な骸。
そして老人の穏やかな笑顔の皮一枚下には、光を失う瞬間に見た「何か」への、凄絶な恐怖が剥製のように張り付いていました。
「……う、あ」
亜紀子は咄嗟に目を逸らしました。
逸らした視線の先。ドームの隅に、一足の小さな、灰色に色褪せたスニーカーが置かれていました。
それは、あのお片付けされた「第四号」の、もう片方の靴。
老人は、見えない手で、毎日毎日、持ち主の帰ってこないその靴の紐を、ぴしりと結び直していたのです。その盲目こそが、彼の「磨く」という献身を、彼の正気を、支えていた。
「どうしたんだい? 第一号さん。……そんなに震えて」
ポヨと同じ、吸い付くようなゴムの質感に変わった老人の手が、彼女の喉元に伸びてきました。けれどその指先には、まだ人間としての「憐憫」が、微かな震えとなって残っている。
「……たくさん、歩いて。疲れた、だけ、です」
彼女は、生まれて初めて、世界を騙す側に回りました。
真実を隠し、甘い膜を張る。ポヨたちが彼女にしてきた「優しい暴力」を、今度は彼女自身が、この無垢な老人のために振るったのです。
口の中に、吐き気を催すような「ねりね」の味が広がりました。
「そうかね。……じゃあ、お茶でも、淹れようかね」
老人は、道具など何もない虚空に向かって、優雅に歩き出しました。
彼女は、ありがとうございますと言おうとして、喉が閉ざされていることに気づきました。代わりに、彼女は深く、深く、頭を下げました。
私は、知っていますよ。
人間第一号さん。あなたが手にしたその「青い粒」は、楽園の欺瞞を暴く呪いです。
けれど、真実を抱えながら、あえて嘘で世界を塗りつぶすその行為。……それこそが、あなたが完全に「ポヨ」へと近づいた、何よりの証左なのです。
ドームを出ると、赤ちゃん太陽がケラケラと笑っていました。
その光が、今はひどく、血の混じった膿の色に見えてなりませんでした。
ポケットの中では、四つの粒が、互いの温度を分け合うように、しゃらしゃらと不吉な子守唄を歌っています。
さよなら、さよなら。
見たくないものまで見えてしまう、残酷な「啓示」の始まりに。
……けれど、私も。
私も、なぜだか、その「灰色のスニーカー」に見覚えがあるのです。
それを置いて、逃げ出したのは、誰だったか。
それを磨き続けた老人の、本当の名前は何だったか。
語り手の声に、ノイズが混じる。
……私も、いつか、磨くことを辞めてしまった、一人の「目撃者」だったのかもしれません。
さあ、今日はもう、眠りにつきましょう。
目を開けたまま、暗闇を見ることに、疲れてしまったのなら。




