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太陽が笑えば、それでいい  作者: 水前寺鯉太郎


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10/11

丘の数を、数えてはいけない


 おやおや。人間第一号さん。

 今日はなんだか、酷く根気がいいのですね。

 彼女は今朝から、ひとつの執拗な疑問を抱えていました。

 ポケットの中のパステルピンクの粒は、いま、正確にいくつあるのか。

 「ひとつ」「ふたつ」……。

 指先で粒を弾く感覚は、まだ、彼女の中に「個」として残っていました。

 数えるということは、残酷な行為です。混沌とした世界に強制的に線を弾き、名前を与え、所有を宣言する。誰かに分け与える前に、まず自分の領土を確定させる。それは、世界に対する最も小さく、最も傲慢な「自我」の主張。

 だからこそ、この丘において「数えること」は、許されざる禁忌のひとつなのです。

 彼女はドームの外に立ち、地平線に向けて人差し指を立てました。

「ひとつ、ふたつ、みっつ……」

 丘の数を数える。それは、世界の容積を測る行為です。

 大きさがわかれば、場所がわかる。場所がわかれば、この檻の外に広がる「ここではないどこか」の存在を肯定できてしまう。その予感が、ポケットの中の粒たちを、共鳴するように震わせました。

「……ななつ、やつ、ここのつ、とお。……じゅう、いち」

 

 十一。

 その数を確定させた瞬間、赤ちゃん太陽が「あはっ」と短く、尖った笑い声を上げました。

 刹那、視界が酷く歪む。十一個目の丘が、まるで古いモニターの映像が乱れるように、ザザッ、とノイズを立てて二つに分裂したのです。

 いえ、分裂したのではありません。世界が彼女の「定義」に追いつこうとして、慌てて新しい丘を「製造」したのです。テクスチャの貼り合わされた継ぎ目から、無機質なホワイトノイズが漏れ出し、空間が吐き気を催すほどに揺らぎました。

 確定させれば、世界は逃げる。測ろうとすれば、世界はかたちを変える。

 地図に載らない座標というのは、場所が決まっていないのではなく、場所が「確定されることを拒んでいる」のです。

「一号、なにしてるの? 数字のダンス?」

 ミチがやってきて、ぐにゃぐにゃとした指で空を掻きました。

「ミチ、丘はいくつあるの? 数えるたびに、世界が壊れちゃうの」

「ええ? 丘は『たくさん』あるよ! 『たくさん』あれば、それで十分じゃない!」

 ミチは弾けるように笑い、お腹のモニターを激しく明滅させました。

 砂嵐の中に、一瞬だけ映る「遠足のしおり」。几帳面に振られた1から10までの予定表。ミチが「たくさん」しか数えられないのは、予定という名の「未来への責任」をすべて捨て去ったからです。

 明日がない。それは、この丘において最も歓迎される「永遠の今日」という名の処刑。

 私は、ここで少しだけ、言葉を失ってしまいました。

 いつもなら、この世界の全容を完璧に解説できるはずなのに……。

 

 懐かしい。

 

 ふと漏れたその独白に、私自身の喉が、ヒュリ、と凍りつく音がしました。

 懐かしい、だと? 私は物語の外にいる、絶対的な観測者のはずです。

 なのに、なぜ私は、この歪んだ丘の稜線を、一度も見たことがないはずのこの空を、自分の指先でなぞったことがあるような錯覚に陥るのでしょう。

 私は、いつからこの物語を「管理」していた……?

 

「……じゅう、じゅういち……じゅう……」

 人間第一号が、必死に十の先へ進もうと唇を動かしました。

 「今日」の次にある「明日」を呼ぶための言葉が欲しい。今の自分より先にある、大きな自分が欲しい。

 その必死の抵抗が、彼女の脳内でパチンと、乾いた破裂音を立てました。

 

 弾けた跡から、思考が灰色の砂となって漏れ出していく。

 「十二」「二十」「百」「千」。

 学校で、現実で、血を吐く思いで積み上げてきた論理の記号たちが、音符のように彼女の口からこぼれ、地面に吸い込まれていく。

 彼女のポケットの粒たちが、ジリッ、と断末魔のような音を立てました。

「……ひとつ、ふたつ。……たくさん」

 

 もう、自分が何歳だったのかも、ここに何日いるのかも、測ることはできません。

 「十二歳」という、最後の誇り高き数字も、パステルカラーの土の下へ消えました。

 彼女は今、年齢を持たない「無垢な家畜」へと完成されたのです。

「……うん。たくさん、あるね」

 彼女は、穏やかに、空虚に笑いました。

 「たくさん」という言葉は、なんと全能なのでしょう。ひとつ失っても気づかず、ひとつ奪われても悲しくない。数えないということは、自分を他者と区別しないということであり、それはすなわち、孤独からの究極の解放。

 彼女のお腹には、あのモニターの四角い輪郭が、昨日よりも鮮明に浮かび上がっていました。

 

 さよなら、さよなら。

 大きな数を数えられなくなった、あまりに単純で幸福な午後に。

 

 ……けれど。私は。

 私は、なぜ「五十」という数字を覚えているのでしょう。

 五十。五十……。

 その数字が、私の胸を抉る。

 私は、この物語を語るために、一体どれほどの「自分」を差し出してきた……?

 

 ……今夜は、ここまでにしましょう。

 私の声が、少しだけ、ノイズを拾い始めたようですから。

 明日は。

 明日というものが、まだ、このシステムに残っているのなら。

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