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『月蝕学園の封印王――監視役の剣姫も、詠唱魔術の才媛も、俺の日常を壊しにくる』  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第8話 欠片災の夜

 扉の向こうの声は、春の夜には似つかわしくないほど甘かった。


「――こんばんは、封印王」


 その呼び方だけで十分すぎるほど異常だったのに、声そのものには敵意よりも親しさに似た響きがあった。だから余計に気味が悪い。知らないはずの誰かが、知られたくない名を当然のように口にしてくる。


 部屋の空気が、一気に冷えた。


 刃更の手はすでに剣の柄を握っている。詩乃の指先には淡い術光が宿り、真昼は息を潜めたまま無意識に黎夜の背中へ半歩寄っていた。


 どくん、と胸が鳴る。


 懐かしい――そんな感覚を覚えたことに、黎夜は自分でぞっとした。


 誰だ。


 知っているはずがない。


 なのに、扉の向こうにいる何かは、自分の中の“知らないはずの場所”を指でなぞってくる。


「返答は?」


 扉越しの女の声が、少しだけ笑った。


「黙ったままなのね。警戒されているのかしら。それとも、覚えていないのかしら」


 覚えていない。


 その言い方が、胸の奥に刺さる。


「……何者だ」


 黎夜が低く問うと、向こう側の気配がわずかに揺れた。


「お話ができる程度には冷静みたい。安心したわ」


「質問に答えろ」


「そういう言い方、やっぱり少し似ているのね」


 刃更が一歩前へ出た。


「名乗りなさい」


 白銀の声は冷たかった。


「これ以上接触を続けるなら、敵性存在として排除します」


「あら、怖い」


 まるで怖がっていない声音だった。


「白銀の執行剣。天城刃更。噂通り、融通が利かないのね」


 刃更の目つきがさらに鋭くなる。


 知っている。


 相手はこっちの名前を知っている。しかも一方的に。


「綾辻詩乃もいるのでしょう?」


 詩乃の黒髪が、ほんの少しだけ揺れた。


「扉を開ける前から、ずいぶんよくご存じですこと」


「もちろん。今日はずっと見ていたもの」


 その一言で、全員の緊張が一段深くなる。


 ずっと見ていた。


 昼の旧校舎から。あるいは、それ以前から。


 真昼が小さく息を呑むのが分かった。黎夜は反射的に、彼女が自分の背後へ隠れやすいよう立ち位置をずらす。


 刃更はそれを横目で確認したうえで、さらに扉との距離を詰めた。


「天城」


 黎夜が制止しかける。


 だが刃更は振り向かない。


「三秒待ちます。名乗りなさい」


「命令口調も、嫌いじゃないわ」


「一」


「せっかち」


「二」


「ふふ」


「三――」


 言い切ると同時、刃更が扉を開いた。


 夜の廊下。


 非常灯に薄く照らされた、古びた寮の通路。誰もいない。


 ……いや。


 一人だけ立っていた。


 月灯りの届かない薄闇の中に、ひときわ白く浮かぶ肌。長い銀髪。人の形をしているのに、どこか人の輪郭から半歩外れているような妖しさ。制服ではない。黒と深紅を基調にした、不思議な意匠のコートを羽織っている。歳は自分たちとそう変わらないように見えるのに、瞳だけがやけに古く、深い色をしていた。


 綺麗だ、と思った。


 そう思った直後、自分の感覚を殴りつけたくなった。


 この状況で最初にそれが出るのはおかしい。


 だが彼女は、そう思わせてしまう種類の存在だった。人の美しさではなく、毒花とか、夜の海とか、そういう“危険なものの綺麗さ”に近い。


 女は廊下の中央で、愉しそうに小首をかしげる。


「こんばんは。やっと、ちゃんと会えた」


 その視線は真っ先に黎夜へ向いていた。


 まるで他の全員など最初から視界に入っていないみたいに。


「……誰だ、お前」


 黎夜の問いに、女は一歩だけ前へ出た。


 足音はしない。


 けれど近づいたのが分かる。不自然なくらい空気だけが濃くなるからだ。


「今は、黒栖ルクレツィアと名乗っておくわ」


「今は?」


 詩乃がすかさず拾う。


「随分と曖昧な自己紹介ですこと」


「本当の名前は、もっとずっと昔に捨てたもの」


 ルクレツィアは軽く肩をすくめてみせた。


「でも、あなたたちが呼ぶならそれで十分よ」


 刃更の剣先がぶれずに向けられる。


「ここへ何をしに来た」


「挨拶」


「それだけで済むと思いますか」


「思っていないわ」


 ルクレツィアは刃更の殺気すら楽しむように、薄く唇を弧にした。


「でも今夜は、本当に挨拶だけ。……それと忠告」


「忠告?」


 黎夜が眉をひそめる。


 ルクレツィアはそのまま視線を外さず、柔らかく言った。


「今夜から、この都市はあなたを中心に軋み始める」


 部屋の中が静まり返る。


 詩乃が術光を強めた。


「それは観測結果ですの? それとも、あなた方が起こす予定という意味かしら」


「両方」


 即答だった。


「もう噛みつき始めているもの。今日の裂け目も、さっきの本も、前触れに過ぎない」


「前触れ……」


 真昼が小さく繰り返す。


 ルクレツィアはようやくその存在に気づいたように視線を流した。


「あなたが幼馴染?」


「……そうだけど」


「なるほど。ちゃんと大事にしているのね」


 ぞくりと背筋が粟立つ。


 その言い方が嫌だった。何を知っていて、何を試しているのか分からない。


「真昼に触れるな」


 思わず、声が強くなる。


 ルクレツィアが笑った。


 喜んだみたいに。


「やっぱりそう。そういうところ、変わっていない」


「何が言いたい」


「あなたはいつだって、誰かを守るために自分を壊す側だった」


 その言葉に、一瞬だけ頭の奥が痛んだ。


 知らない光景が、欠片みたいに浮かぶ。


 血の匂い。黒い鎖。誰かの泣き声。月の色。


「っ……」


 無意識に額へ手をやる黎夜を見て、ルクレツィアの目がわずかに細くなる。


「今はまだ、そこまでなのね」


「綾辻詩乃、対話の価値は薄いです」


 刃更が低く言う。


「排除を提案します」


「あら、短気」


「不審者に寛容な趣味はありません」


「それは残念」


 ルクレツィアは困ったふうに肩をすくめたが、その仕草すら芝居めいていた。


「でも今夜は、本当に戦いに来たわけじゃないの。あなたたちに勝てないからではなく――」


 そこで一度言葉を切り、楽しげに笑う。


「まだ、その必要がないから」


 詩乃の目が鋭くなる。


「なるほど。上から言うのがお好きなようですわね」


「だって事実だもの」


「その事実とやらの根拠は?」


「月蝕学園の地下封書庫」


 その単語に、三人の反応が同時に揺れた。


 封書庫。


 明日行くと決めたばかりの場所。


 なぜそれを知っている。


「……何を知っている」


 黎夜が問うと、ルクレツィアは少しだけ目を細めた。


「あなたが明日、そこへ降りること。そして、それが遅すぎるくらいだということ」


「遅い、だと?」


「鍵は二つ動いた。封書庫の“下”も、もう目を覚まし始めている」


 その一言が、全員の背筋を冷やした。


 封書庫の下。


 学校の地下施設の、さらに下。


 そんな場所の存在など聞いていない。いや、そもそも地下封書庫自体がついさっき知ったばかりなのだから当然だ。


 詩乃がはっきりと問う。


「その情報源は?」


「答える義理はないわ」


「では、信頼もできませんわね」


「信頼される必要もない」


 ルクレツィアはそう言ってから、再び黎夜へ視線を戻した。


「でも、ひとつだけ本当のことを言う」


 空気が止まる。


「明日、地下へ行くなら気をつけて。あなたが思っているより、あそこはずっとあなたのために作られている」


 意味が分からない。


 だが、意味が分からないままでは済ませられない響きだった。


 黎夜は思わず一歩前へ出る。


「待て」


「何?」


「“俺のために作られている”ってどういう意味だ」


 ルクレツィアは答えない。


 ただ、少しだけ寂しそうな、あるいは諦めたような表情を浮かべた。


「今はまだ、説明してもあなたには毒だわ」


「ふざけるな」


「ふざけていない」


 甘い声音のまま、彼女は言う。


「私はね、敵になりたいわけじゃないの」


 刃更が冷たく返す。


「信じろと?」


「いいえ。信じなくていい」


「なら、その発言には意味がありません」


「そうかしら」


 ルクレツィアは微笑んだ。


「信じなくても、頭の片隅に残るでしょう?」


 たしかに残る。


 嫌になるほど。


「最後に一つだけ、あなたへ」


 その言葉は完全に黎夜へ向けられていた。


「今度、誰かを庇う時は、自分の内側に呑まれないで」


 胸の奥がぎくりと強く鳴る。


「あなたの鎖は、守るためにも使える。でも、喰い方を間違えれば――」


 ふっと、彼女の目が細まる。


「もう二度と戻れなくなる」


 その声だけが妙に真剣だった。


 からかいも、余裕も、薄い笑みもない。まるで本気で心配しているような口調。


 だからこそ余計に混乱する。


「……何で、そんなこと知ってる」


 問うと、ルクレツィアはほんの少しだけ視線を逸らした。


「知っているから」


 答えになっていない。だが、それ以上を言う気はないのだと分かった。


 刃更の剣先がわずかに動く。


「これ以上は――」


「ええ、分かっている」


 ルクレツィアは一歩下がった。


 その動きに合わせて、廊下の影がふわりと濃くなる。


 嫌な気配。転移か、隠密か、そういう類だと直感する。


「また来るわ」


 そう言って、彼女は黎夜を見た。


「次は、もっと近くで」


「待て!」


 黎夜が踏み出すより早く、刃更が走る。


 白銀の刃が一直線に夜の廊下を裂いた。だが、届く直前でルクレツィアの輪郭が煙のように揺らぐ。斬撃は空を切り、壁へ薄く傷を刻むだけで終わった。


 次の瞬間には、そこに人影はなかった。


 残ったのは、甘い花のような匂いだけ。


 夜の寮の廊下に、静寂が落ちる。


「逃した」


 刃更が低く言う。


「完全な実体ではありませんでしたわね」


 詩乃が扉の外へ出て、廊下の床を指先でなぞる。そこに薄い赤の残滓が光って、すぐ消えた。


「影を媒体にした投影。かなり高度ですわ」


「追えないのか」


 黎夜が問うと、詩乃は首を横に振る。


「今の状態では困難です。私の結界も部屋の内側へ寄せていましたし」


 真昼が恐る恐る廊下を覗き込む。


「……いなくなった、の?」


「ええ」


 詩乃は静かに答える。


「少なくとも今この場には」


 真昼はほっとしたような、それでも全然安心できていないような顔で息を吐いた。


 当然だ。いきなり知らない美少女が現れて、封印王だの封書庫だの言い残して消えたのだから、安堵できる方がおかしい。


 刃更が扉を閉める。


 その音がやけに重く響いた。


「……ルクレツィア」


 黎夜は小さくその名を繰り返した。


 初めて聞く名だ。なのに妙に引っかかる。さっきの懐かしさも、気味悪さも、まだ消えていない。


 詩乃が部屋の中央へ戻り、本を見ながら言う。


「厄介な相手ですわね」


「知っているのか」


「名前だけは」


 詩乃は答える。


「確定情報ではありませんが、“夜喰い”の系統に属する異端の王族。その末裔、あるいは器という噂がありますの」


「王族?」


「ええ。あなたと同じく、“王”に連なる側」


 また、知らない単語が増えた。


 王だの王族だの、そんな大仰なものが突然自分の生活圏へ雪崩れ込んでくるのが、ただただ腹立たしい。


 刃更が考え込むように言う。


「敵対確定とは言い切れません」


「え?」


 真昼が目を瞬かせる。


「でも、あの人……敵っぽかったよ?」


「敵っぽい、では分析になりません」


「そこは分かるけど!」


 真昼の突っ込みを受け流し、刃更は続ける。


「少なくとも即時攻撃の意図はなかった。情報の精度も高い。こちらを攪乱する目的だけなら、封書庫の下などと具体的な単語は出さないはずです」


 詩乃も頷いた。


「同感ですわ。しかも、霧生くんの王権暴走について警告した」


「……あれが親切心からだと?」


 黎夜の問いに、詩乃は少しだけ肩をすくめる。


「そこまでは言いません。ただ、“殺しに来た敵”の動きではありませんでしたわね」


「だが味方でもない」


 刃更が断じる。


「ええ。そこも同意します」


 要するに、厄介な立ち位置のやつが増えただけだ。


 頭が痛い。


 だが一つだけ、はっきりしたこともある。


 明日、封書庫へ行くしかない。


 今日一日で起きたことの答えが、少なくともそこに少しはある。


「……予定変更はなし、か」


 黎夜が言うと、詩乃は黒革の本を抱え直した。


「むしろ前倒ししたいくらいですわ」


「今から行くとか言うなよ」


「さすがに夜間の管理権限が足りません」


「足りてたら行く気だったのかよ」


「必要なら」


 この人も大概だ。


 真昼が不安そうに視線を巡らせる。


「明日、本当に大丈夫なの?」


「大丈夫ではありません」


 刃更がまたはっきり言った。


「ですが、必要です」


「その言い方、今日だけで何回目……」


 真昼がげんなりとしながらも、もう反論はしなかった。


 たぶん分かっているのだろう。反対しても止まらないことを。止められる段階ではないことを。


 部屋の中には、ルクレツィアの残した花の匂いがまだ薄く漂っている。


 甘いのに、不吉だ。


 黎夜は右腕へ視線を落とした。袖の下、見た目には何もない。けれど、あの黒鎖の感覚だけは残っている。


 守るためにも使える。


 喰い方を間違えれば戻れなくなる。


 ルクレツィアの言葉が、嫌に耳へ残った。


「霧生くん」


 詩乃が静かに呼ぶ。


「何ですか」


「今夜は、できるだけ一人にならない方がよろしいですわ」


「……つまり?」


「少なくとも、監視役は置いていきます」


 刃更が当然のように言った。


「は?」


「今夜は同室警戒を提案します」


「提案って顔してないだろ、それ」


「必要です」


「またそれだよ!」


 真昼が思わず叫ぶ。


「いや待って、同室ってなに!? それほんとに!?」


「警戒任務です」


「便利すぎるでしょその言葉!」


 詩乃がわずかに笑う。


「私は帰りますわ。封書庫の入室権限を確保しなければなりませんもの」


「先輩は帰るんですね」


「ええ。夜更かしはお肌に悪いので」


「そんな理由!?」


「半分は本気ですわ」


 半分は何なのだろうか。聞かない方がよさそうだった。


 真昼がすぐに言う。


「じゃ、じゃあ私も残る」


「残るな」


 黎夜が反射的に返す。


「何でよ!」


「余計カオスになるだろ!」


「今さらでしょ!」


「それはそうだけど!」


 真昼はむすっとしたまま、それでも少し考えたようだった。昼からの疲れもあるのだろう。目元にいつもの元気が少し欠けている。


「……明日、ちゃんと一緒に行くから」


 結局、そう言って折れた。


「だから今日は帰る。でも連絡は絶対返して」


「分かった」


「ほんとに?」


「ほんとに」


 真昼はじっとこちらを見て、それからようやく頷いた。


「約束だからね」


 その一言が、妙に胸へ残る。


 約束。


 今日だけで何度、守れないかもしれない約束をしているのだろう。


 けれど、守りたいとは思った。


 それだけは本当だ。


 詩乃が帰り支度を整え、真昼も渋々ながら靴を履く。刃更だけが、まるで最初からそう決まっていたかのように部屋へ留まる準備を始めていた。


「……寝る場所どうするんだよ」


「監視対象の近くが望ましいです」


「その言い方ほんとやめろ」


 真昼が最後に振り返る。


「黎夜」


「何だよ」


「明日、無茶しないで」


 昼にも似たようなことを言われた気がする。だが今度は、その意味がもっと重い。


 封書庫。鍵。夜喰いの王族。地下の“下”。


 何が待っているか分からない。


「……お前もな」


「私は普通の高校生だから、そっちはあんたたちの方が言われる側でしょ」


「それもそうか」


 ほんの少しだけ笑うと、真昼も少しだけ笑って、そして今度こそ帰っていった。


 詩乃も扉の前で一度だけ足を止め、黎夜へ視線を向ける。


「霧生くん」


「はい」


「夢を見たら、できるだけ覚えておいてください」


「夢?」


「ええ。今夜の接触で、古い記憶層が浮く可能性がありますの」


 ぞくりとすることを平然と言って、この先輩は颯爽と去っていった。


 扉が閉まる。


 部屋に残ったのは、黎夜と刃更の二人だけ。


 やけに静かだった。


 さっきまで四人分の呼吸と会話で満ちていた空間が、一気に広く感じる。


 気まずい。


 かなり。


 刃更はそんなことお構いなしに、窓際の椅子を部屋の中央へ引き寄せて座った。背筋を伸ばし、剣を手の届く位置へ置き、まるで徹夜の警備でもするつもりの構えである。


「……ほんとに寝ない気か」


「はい」


「人間?」


「失礼ですね」


「いや、今日の動き見てたらそうも聞きたくなる」


「訓練です」


「便利な言葉だな」


「よく言われます」


 少しだけ間が空く。


 黎夜は布団の端へ座り、ぼんやりと右腕を見る。黒鎖の感触はまだかすかに残っている。


「天城」


「何ですか」


「お前、俺のこと……今どう見てる」


 聞いてから、自分でも妙な質問だと思った。


 だが聞かずにはいられなかった。


 封印王。危険人物。監視対象。あるいは、今日二度も暴発しかけた不安定な何か。


 刃更は少しだけ考えるように目を伏せ、それからまっすぐ答えた。


「危険です」


「だろうな」


「ですが」


 そこで彼女は、昼の旧校舎の時と同じように、少しだけ言葉を選んだ。


「今のあなたは、少なくとも――自分以外を守るためにしか壊れようとしない」


 その評価がいいのか悪いのか、黎夜には分からなかった。


 ただ、その言葉を言われて少しだけ息がしやすくなったのは確かだ。


「……それ、褒めてるのか」


「違います」


「即答かよ」


「事実を述べています」


「やっぱりそれなんだな」


 黎夜は苦笑し、ようやく布団へ潜り込んだ。


 天井を見る。


 眠れる気はしない。だが身体は重い。心も、頭も、何もかもが限界に近い。


「明日、封書庫か」


「はい」


「面倒だな」


「でしょうね」


「でも行くしかないんだろうな」


「はい」


 短い会話。


 そのあと、しばらく沈黙が続いた。


 窓の外で風が鳴る。寮のどこかでドアが閉まる音。遠くの車のエンジン音。そういう普通の夜の音に混じって、今日見たもの全部が頭の中で明滅していた。


 ルクレツィアの笑み。


 黒い本。


 赤い文字。


 封を喰らう王。


 そして。


 地下の“下”。


 目を閉じる。


 眠りに落ちる直前、黎夜は誰かの声を聞いた気がした。


 女の声とも、子供の声ともつかない、遠い囁き。


 ――降りておいで。


 その一言に、意識が深く沈む。


 夢を見る、と詩乃は言った。


 もしあれが夢の入口だったのなら。


 その夜、霧生黎夜は確かに、知らないはずの地下へ落ちていく夢を見た。

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