第6話 食堂騒動と束の間の日常
その夜、霧生黎夜は人生で五本の指に入るほど疲れていた。
昼休みの旧校舎。欠片災。親核。黒い鎖。封印王。特級編纂室。封を喰らう王。狙われる、という不穏極まりない宣告。
どこを切り取っても胃に悪い。
朝の時点では「ベッドの中に白銀の剣少女がいる」というだけで十分すぎるほど最悪だったのに、そこからさらに何段階も悪化するとは思わなかった。
思いたくなかった。
だが現実は残酷である。
なぜなら、寮の自室の扉を開けた瞬間、そこに漂ってきたのは出汁の匂いだったからだ。
「……は?」
疲れ果てた脳が、現状の意味を理解するまでに数秒かかった。
自分の部屋だ。見慣れた六畳一間。狭い玄関、靴箱代わりの棚、安物のラグ、散らかりかけた教科書。どこからどう見ても霧生黎夜の私室である。
なのに、キッチンの前にエプロン姿の少女が立っていた。
柊真昼だった。
「おかえり」
当然みたいな顔でそう言って、鍋の中身を木べらでかき混ぜる。
いや当然ではない。全然当然ではない。
「……何でいるんだよ」
「何でって、夕飯作りに来た」
「人ん家にいる理由として雑すぎるだろ」
「今さら何言ってんの。前からたまに来てたじゃん」
「それはそうだけど、今日に限ってはもっと説明が必要だろ」
「そっちこそ必要でしょ」
真昼がじろりと睨んできた。
「結局、放課後の話まだちゃんと聞けてないんだけど」
「うっ」
痛いところを突かれる。
編纂室から戻った頃にはすっかり夕方で、その後も刃更と最低限の確認をしたり、真昼から連絡が飛んできたりで、気づけば時間だけが過ぎていた。説明を先送りにした自覚はある。あるが、いざ言葉にされると苦しい。
「……だから、今から話すつもりだった」
「じゃあちょうどいいじゃん」
真昼はあっさり言った。
「ご飯食べながら聞く」
「人の部屋で完全に生活基盤作る気満々だな」
「だってあんた、こういう日ほど適当にパンとかで済ませるでしょ」
「否定できない」
「でしょ」
得意げに鼻を鳴らされると、何となく腹が立つのに、同時に妙な安堵もある。
真昼はこういう時に、変に気を遣わない。
心配しているくせに、いつも通りみたいな顔で部屋へ入ってくる。その図々しさに何度救われたか分からない。たぶん本人は自覚していないだろうけれど。
「おかえりなさい」
さらに奥からもう一人、聞き慣れたが帰宅後には聞きたくない声がした。
白銀の髪を持つ監視役――天城刃更が、テーブルの横に正座していた。
「……何でお前までいるんだよ」
「監視です」
「だろうなと思ったけど一応聞いたんだよ」
「当然のように同行しました」
「その当然が怖いんだって何回言わせるんだ」
刃更は制服のまま、膝の上にノートのようなものまで置いている。何だそれは、と嫌な予感を覚えつつ近づくと、表紙に小さく『監視記録』と書かれていた。
「おい」
「何ですか」
「ほんとに記録取ってるのか」
「当然です」
「そこまで真面目にやる!?」
「任務ですので」
「便利だなその言葉!」
「本日四十二回目くらいですわね」
第三の声がした。
黎夜はぎぎぎ、とぎこちない動きで視線を向ける。
いた。
綾辻詩乃までいた。
窓際の椅子に座り、当然のように紅茶を飲んでいる。黒髪を肩へ流し、制服の上から薄いカーディガンを羽織った姿は、もはやどこかの上流階級のサロンの客人だった。
「……何でいるんですか、先輩」
「解析結果の追加共有ですわ」
「今!?」
「今です」
「いやだから何で人の部屋で」
「落ち着いて話せる場所の方がよろしいでしょう?」
「人の部屋を勝手に落ち着ける場所に認定するな」
黎夜は本気で頭を抱えたくなった。
何だこの状況。自分の一人暮らしの安アパートみたいな寮部屋で、幼馴染が夕飯を作り、監視役の剣姫が正座し、長文詠唱魔術の才媛が紅茶を飲んでいる。
情報量が多すぎて、逆に脳が受け入れ始めるのが怖い。
「……帰る」
靴を脱いだばかりの足で踵を返そうとした瞬間、真昼が鍋の蓋を持ったまま叫んだ。
「待ちなさい!」
「何だよ!」
「ご飯できてる!」
「そこじゃないだろ!」
「そこ大事でしょ!」
刃更が静かに続ける。
「逃走は記録します」
「何で逃げ場が全部封じられてるんだよ」
「あなたが放っておくと、また何も食べずに寝る可能性があります」
「監視役が妙に生活指導寄りなんだよな」
「本日、昼食も途中で中断されました」
「いや、あれは状況が状況だっただろ」
「ですので、栄養補給は優先事項です」
詩乃が優雅にティーカップを置く。
「私も同意ですわ。空腹では、まともな判断もできませんもの」
「何で全員妙な方向で息合ってるんだよ……」
とはいえ、確かに腹は減っていた。
旧校舎で動き、放課後も神経を削られ続け、気がつけばまともに何も食べていない。疲れの一部は空腹のせいでもあるのだろう。
黎夜は降参するように肩を落とし、ようやく鞄を床へ置いた。
「……で、何作ってるんだ」
真昼の表情が少し和らぐ。
「親子丼と味噌汁。あと小鉢でほうれん草の胡麻和え」
「急に生活力が高い」
「幼馴染をなめないで」
「なめてないけど、なんかもう負けた気分になる」
「負けてるんだよ」
何に対してだ、と言い返す気力もなく、黎夜は手を洗いに向かった。
鏡に映った自分の顔は思った以上に疲れていた。そりゃそうだ。朝から化け物やら王やらに付き合わされているのだ。平然としていられる方がどうかしている。
水で顔を軽く洗う。
冷たさで少しだけ頭が冴えた。
その時、洗面所の外から真昼の声が飛んできた。
「黎夜ー、箸出してー」
「自分の家みたいに言うなー」
「だって場所知ってるし」
「知ってるのもどうなんだろうな」
「今さらでしょ」
たしかに今さらだ。
キッチンの吊り戸棚から箸を出し、振り向いたところで、すぐ背後に刃更が立っていて心臓が跳ねた。
「うおっ!?」
「確認です」
「何の!?」
「洗面所での異常行動はありませんでした」
「あるわけないだろ!」
「一応」
「一応で人をびっくりさせるな!」
思わず叫ぶと、真昼が鍋の向こうからじとっとした視線を向けてきた。
「……何その夫婦みたいなやり取り」
「違う!」
「否定が早いですわね」
詩乃が面白そうに言う。
「むしろそこは少し考える間を置くべきでは?」
「何でですか!?」
「動揺が可愛いからですわ」
「この人、たまに素でひどいこと言いますよね!?」
詩乃は涼しい顔だ。
「たまにではなく、常時ですわ」
「開き直った!」
食卓、というほど立派なものでもない。ローテーブルを部屋の中央へ引き寄せ、四人で囲めばかなり手狭だ。だが真昼の作った夕飯が並ぶと、それだけで部屋の空気が少し柔らかくなる。
親子丼。味噌汁。胡麻和え。漬物まである。
あまりにも普通の夕食だ。
だからこそ、今日みたいな日にはありがたかった。
「いただきます」
真昼が言い、刃更も小さく続け、詩乃も優雅に手を合わせる。黎夜も半拍遅れて倣った。
一口目を食べた瞬間、胃がようやく自分の存在を思い出したように温かくなる。
「……うまい」
ぽつりと漏れた本音に、真昼がほんの少しだけ胸を張った。
「でしょ」
「悔しいけど」
「悔しがる必要ある?」
「何となく」
そんなやり取りをしながらも、部屋の空気は完全には弛まない。食事の温度の向こうに、昼間から続いている不穏さがまだ残っている。
最初にそれを言葉へしたのは、真昼だった。
「……で」
箸を置き、こちらを見る。
「ちゃんと話して」
やはり来る。
黎夜は観念して、味噌汁の湯気を見ながら口を開いた。
「昼のやつは、学校の結界が壊れて、変なのが漏れた」
「そこまでは聞いた」
「俺も全部知ってるわけじゃない」
「それも聞いた」
「……」
「その先」
真昼の声は静かだったが、逃がす気は一切ない。
隣で刃更も箸を置いている。詩乃は頬杖をつき、面白そうというより真剣にこちらを見ていた。
この場でごまかすのは無理だ。
「……俺が狙われてるかもしれない、らしい」
言うと、真昼の眉が寄った。
「らしい、って何」
「はっきり断定はできてない。でも、今日の裂け目が俺の位置に寄ってたとかで」
「寄ってたって、どういうことよ」
「向こう側が彼に反応している、ということですわ」
詩乃がさらりと補足する。
「通常の偶発裂け目にしては、霧生くんの行動圏と一致しすぎていますの」
「それ、かなりまずくない?」
「かなりまずいです」
即答したのは刃更だった。
「監視継続が必要な理由の一つでもあります」
「監視っていうか、もはや護衛では?」
真昼が半眼で言う。
「そうでもありません」
「いや今日あんた、昼に黎夜の前に割り込んでたじゃん」
「必要な対応です」
「言い換えてるだけでやってることは同じでしょ」
刃更は少しだけ黙った。
その沈黙を見て、真昼がじっと目を細める。
「……あんた、案外分かりやすいね」
「何がですか」
「そういうとこ」
「意味が不明です」
「はいはい」
真昼はそれ以上は言わなかったが、どこか納得したような顔をしていた。
詩乃がそこで口を開く。
「問題は狙われていることだけではありませんわ」
部屋の空気が、また少しだけ張り詰める。
「霧生くん自身の状態も、想定以上に危うい」
「危ういって」
真昼が不安そうに訊く。
詩乃は一度だけ黎夜を見た。
「今日、彼は旧校舎で自力で反応を起こしました」
真昼の視線がすぐこちらへ向く。
「それって……あの黒いやつ?」
「……見えてたのか」
「ぼんやりだけど。何か、鎖みたいなの」
真昼は言いづらそうにしながらも、はっきり口にした。
昼は混乱の方が勝っていたのだろう。だが落ち着いた今なら、見たものを見たと認識している。
黎夜は少しだけ目を伏せた。
「俺にも、よく分からない」
「またそれ?」
「ほんとだよ」
苛立つでもなく、ただ疲れた声でそう言うと、真昼は少しだけ言葉を失った。
「分からないけど、あれが出た。前にも似たことがあった気がする。でも覚えてない」
詩乃が静かに補足する。
「強い封印と記憶抑制が重なっている可能性がありますわね」
「普通の高校生の会話じゃないんだよな……」
黎夜が頭を押さえると、真昼がぽつりと漏らした。
「普通じゃないなら、最初からそう言ってくれればいいのに」
その声は責めるより、寂しさに近かった。
言葉に詰まる。
知られたくなかった。巻き込みたくなかった。それは本音だ。
でも、それで黙ってきた結果、今日みたいにいきなり目の前へ化け物が飛び出してくるのなら、何が正しかったのか分からなくなる。
「……悪い」
また、それしか言えなかった。
真昼はすぐには答えず、親子丼の器を見下ろしていた。湯気はもうほとんど立っていない。
やがて彼女は、ふっと息を吐く。
「今さら怒っても仕方ないのは分かってる」
「真昼」
「でもさ」
顔を上げた瞳は、少しだけ揺れていた。
「今度からは、一人で勝手に危ないとこ行かないで」
その一言が妙に重くて、黎夜はすぐに返事ができなかった。
一人で勝手に危ないところへ行く。
たしかにそうだ。自分では流されていただけのつもりでも、真昼から見ればずっとそう映っていたのだろう。
そこで刃更が静かに言う。
「それは同意します」
全員の視線が彼女へ向いた。
「霧生黎夜は、自分が危険であることには鈍いくせに、他者の危険には過敏です」
「悪口っぽく聞こえるな」
「事実です」
「最近そればっかりだな」
「本日も柊真昼を庇う際、自身の安全確認を後回しにしました」
「……」
「その結果、王権反応が起きた」
王権、という言葉に真昼がぴくりと反応する。
「それ」
彼女は黎夜を見る。
「封印王ってやつと関係あるの?」
逃げられない、と直感した。
この話題は、もうどこかで必ず来る。なら今か。
黎夜はゆっくり頷く。
「……たぶん」
「たぶん?」
「俺も詳しく知らない。でも、そう呼ばれた」
「誰に」
「天城に」
真昼の視線が刃更へ移る。
刃更は隠さず頷いた。
「彼は封印王である可能性が高いです」
「可能性って」
「現時点では確証の一部が欠けています。ですが、黒鎖反応、裂け目適性、封印痕、古層文字への感応。十分すぎる」
今度は詩乃がそう言った。
「封印王……」
真昼がその単語を反芻する。
「名前だけ聞くと、すごそうだけど」
「すごいですよ」
詩乃はあまりにもあっさりと言った。
「世界の理の一部を封じ、喰らい、制御する側の異能ですもの。まともではありませんわ」
「その説明、本人の前でやる?」
「事実ですので」
「また出た」
詩乃は涼しい顔のまま、しかし続ける声を少しだけ落とした。
「ただし、今の霧生くんは完成形ではない。むしろ危うく不完全です」
「褒められてる気が一切しないんですが」
「褒めておりませんもの」
「でしょうね」
少しだけ、部屋の空気が和らぐ。
真昼もつられて小さく笑いかけて、でもすぐに真顔へ戻った。
「……それで、これからどうすんの」
重い問いだった。
これから。
狙われるかもしれない。自分の中にはよく分からない力がある。学校の裏では化け物が湧く。監視役と魔術先輩が部屋にいる。
どうする、も何も、混乱しかない。
そう思っていた黎夜より先に、刃更が答えた。
「まず、しばらくは単独行動を制限します」
「は?」
「登下校、放課後、可能な限り監視をつけます」
「いや待て、それただの監視強化じゃないか」
「その通りです」
「俺に人権は」
「あります」
「最近よく聞くけど、まるで実感がないな」
真昼がじっと刃更を見る。
「じゃあ、私も一緒にいていいってこと?」
「状況によります」
「状況って?」
「危険度次第です」
「まだるっこしい!」
だが刃更は譲らない。
「今日のような事案が再発した場合、あなたを常時近くへ置く判断はできません」
「でも、完全に離す気もないんでしょ」
真昼の切り返しに、刃更は一拍だけ止まった。
「……そうですね」
「へえ」
「情報保持と安全確保の両面から、一定距離での関与は許容される可能性があります」
「今、すごく難しく言ったけど、要するに場合によっては一緒にいていいってことだよね」
「簡略化しすぎです」
「でも合ってるでしょ?」
「……大きくは外れていません」
真昼がにやっとする。
刃更が分かりやすく押されていて、少しだけ面白かった。
詩乃がその様子を見ながら、上品にお茶を一口飲む。
「実際、完全に切り離すのは難しいでしょうね」
「何でですか」
黎夜が問うと、詩乃は当然のように答えた。
「霧生くん、あなたはすでに日常へ異常を持ち込み始めていますもの」
「言い方!」
「現実ですわ」
「最近そればっかりだなこの人たち……」
がっくりとうなだれる黎夜を横目に、詩乃はさらに続ける。
「そして、もう一つ現実を言えば、次はもっと手強い可能性が高い」
「次、って」
「今日の裂け目は小規模。観測と試し噛みのようなものですわ」
部屋がしんとする。
真昼まで息を呑んだのが分かった。
「試し噛み……」
「ええ。相手はこちらを見ています。あるいは、霧生くん個人を」
ぞくり、と肌が粟立つ。
夕食の温かさが遠のき、昼間の旧校舎の冷気が一気に蘇る。
「……だったらなおさら、対策が必要だな」
黎夜が低く言うと、詩乃は薄く笑った。
「やっと前向きになりましたの?」
「前向きっていうか、逃げても来るなら仕方ないだろ」
「殊勝ですわ」
「褒めてないですよね」
「ええ」
詩乃は即答し、そしてそのまま少しだけ真面目な顔になる。
「対策は必要です。霧生くん自身の制御訓練も、裂け目対処も、情報整理も」
「俺が訓練?」
「最低限は」
刃更が頷く。
「王権反応を無自覚に出されるのは困ります」
「出したくて出したわけじゃない」
「だから困るのです」
「正論が痛い」
「痛いでしょうね」
詩乃がさらりと重ねる。
「ですので、明日以降の行動を整理しましょう」
「明日以降」
黎夜が聞き返すと、詩乃は当然のように言った。
「放課後、こちらへ来ていただきます」
「は?」
「制御観測と、古層文字への感応確認。必要ですわ」
「いや待ってください、勝手に予定を決めないで――」
「私は同行します」
刃更が即座に割り込む。
「監視上、当然です」
「でしょうね!?」
「じゃあ私も」
真昼まで言い出した。
「駄目だ」
黎夜が反射的に返す。
「何で!」
「お前まで来たら収集つかないだろ」
「すでについてないでしょ!」
「たしかに!」
言われてみればその通りで、否定に勢いがなくなる。
真昼はそこを逃さない。
「ほら。だったら私も行く」
「論理が雑なんだよ」
「気持ちの問題!」
「一番止めにくいやつ!」
真昼はふん、と鼻を鳴らす。すると刃更が静かに口を開いた。
「条件付きです」
二人が同時に彼女を見る。
「柊真昼の同行は、非戦闘圏に限るなら許容できます」
「お前まで乗るのか」
「完全排除は現実的ではありません。ならば管理下に置く方が安全です」
管理下。言い方はひどいが、意味は分かる。
そして真昼もたぶん分かっているのだろう。少しだけむっとしつつも、反発はしなかった。
「……じゃあそれでいい」
「軽いな!?」
「いいの。どうせ完全に締め出そうとしても無理だし」
「自己分析が正確すぎる」
詩乃がそれを見て、小さく笑った。
「賑やかですわね」
「他人事みたいに言わないでくださいよ」
「私にとっては他人事ではなく、観測対象ですもの」
「やっぱこの人ひどいな」
とはいえ、その軽口のおかげで息苦しさが少しだけ薄れる。
部屋の中に、夕飯の残り香と、くだらない応酬と、完全には消えない不安が同居している。
そんな空気の中で、黎夜はふと気づいた。
昼までは、全部が“遠ざけるべきもの”だった。
危険も、力も、知らない側の人間も。
けれど今、同じテーブルを囲んでいる。
幼馴染と、監視役と、解析担当の先輩。
まともな状況じゃない。面倒の塊だ。平穏なんて言葉からはほど遠い。
それでも、完全な孤立ではない。
その事実が、少しだけ胸の奥を軽くした。
真昼が器を片付けながら、ふいにこちらを見る。
「……黎夜」
「何だよ」
「今日は、ありがとう」
「は?」
「昼。あたし庇ったでしょ」
突然そんなことを言われて、言葉に詰まる。
「別に」
「別にじゃないでしょ」
真昼は少しだけ笑って、それからすぐ真顔に戻った。
「でも次からは、庇うだけじゃなくて、ちゃんと一緒に何とかする方向でお願い」
その言葉に、刃更が小さく目を細める。
詩乃は面白そうに視線を流す。
黎夜は少しだけ考えて、そして肩をすくめた。
「……善処する」
「曖昧!」
「俺にしては頑張った方だろ」
「まあ、いつもの黎夜ならもっと逃げるか」
「ひどい評価だな」
「事実でしょ」
それを言われると弱い。
不意に、窓の外で風が鳴った。
春の夜気がカーテンを揺らす。昼間の裂け目の冷たさとは違う、ただの風だ。それだけで少しだけ安心した自分に、黎夜は内心で苦笑する。
だが、その安心は長く続かなかった。
部屋の隅、放り出していた鞄の奥から、かすかな震動音がしたからだ。
「ん?」
黎夜が顔を向ける。
スマホではない。もっと鈍い、低い振動。
詩乃が即座に立ち上がった。
刃更の目つきも変わる。
「今の」
「……編纂室から持ち帰った資料ですわ」
詩乃が短く言う。
「まさか、このタイミングで……」
彼女が鞄へ近づくより早く、ファスナーの隙間から淡い黒光りが漏れた。
ぞわり、と黎夜の右腕が疼く。
見覚えがある。
編纂室で勝手に開いた、あの黒い本だ。
「おい、まさか――」
言い切る前に、鞄の口が内側から押し開かれた。
黒革の古書が、ひとりでに滑り出る。
床へ落ちることなく、空中で止まった。
真昼が息を呑む。
「うそ……」
本はゆっくりと開き、また勝手にページをめくる。
ぱら、ぱら、ぱら、と。
そして止まった見開きに、今度は挿絵ではなく、血のように赤い文字が滲み上がった。
読める。
また、読めてしまう。
『第二鍵、起動』
次の瞬間。
部屋の空気が、ぞん、と鳴った。




