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『月蝕学園の封印王――監視役の剣姫も、詠唱魔術の才媛も、俺の日常を壊しにくる』  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第5話 玻璃の詠姫

 結論から言えば、旧校舎の一件は驚くほど手際よく“なかったこと”にされた。


 教師たちが駆けつけた時には、すでに刃更が前に出ていた。割れた窓、砕けた床板、廊下に散った黒い塵――それらを前にしても、彼女はまるで予定調和の報告をするみたいな顔で状況を説明し、混乱しかけた教員たちを言葉少なにまとめ上げた。


 設備異常。


 旧校舎封鎖。


 一般生徒立入禁止。


 詳細は後日。


 要点だけ抜き出せば、そんな感じだったと思う。


 当然、黎夜にはどう見てもそれで納得できる説明ではなかった。だが面白いことに、周囲はそれ以上を求めなかった。求められなかった、という方が正しいのかもしれない。誰もがどこかで“深く踏み込まない方がいい”と理解しているような空気が、あの場には確かにあった。


 そして、柊真昼だけは別だった。


「……ねえ」


 午後の授業が終わり、ホームルームも解散し、生徒たちが部活だ寄り道だと散っていく教室の中で、真昼は黎夜の机の前に立ったまま動かなかった。


 その表情は怒っているというより、押し殺した不安に近い。


「今日は、絶対ちゃんと説明してもらうからね」


「その台詞、昼にも聞いた」


「昼は逃げられたから」


「逃げたわけじゃない。先生来たし」


「結果として逃げたのと同じでしょ」


 ごもっともである。


 黎夜は鞄へ教科書を押し込みながら、心の中でだけため息をついた。真昼をごまかし切れるとは思っていない。だが何をどこまで話していいのか、自分でも判断がつかなかった。


 そもそも自分が何を知っているのかさえ曖昧だ。


 封印王――あの言葉は、胸の奥にまだ棘みたいに残っている。


「天城さんも来るの?」


 真昼がじろりと視線を向ける。


 教室の窓際、すでに帰り支度を終えた刃更は、当然のようにこちらを見ていた。


「行きます」


 即答だった。


「監視ですので」


「便利だよね、その言葉」


 真昼が半眼になる。


「ほんとにその一言で全部通すつもり?」


「通るべき内容です」


「むかつくくらい真顔だなあ……」


 真昼が呆れたようにぼやくと、刃更は特に反応を見せなかった。ただ、昼の戦いでできたらしい頬の浅い傷に、白い絆創膏が一枚貼られているのが見えた。


 あれだけのことがあったのに、彼女は午後の授業を平然と受け切ったのだ。


 異常だと思う。いや、たぶん、この学園の“裏側”ではそれが普通なのだろう。


「柊真昼」


 刃更がふいに真昼の名を呼ぶ。


「何?」


「あなたは本日の件について、どこまで認識していますか」


「……どこまで、って」


 真昼は言葉を探すように唇を噛んだ。


「見たままだよ。変なのがいて、黎夜とあんたが戦ってた。あれが何なのかは分かんない。でも、見間違いとかじゃないのは分かる」


 強い口調だった。


 昼間、真昼を強く突き放すように言ったことが少し胸に引っかかる。怖かっただろうに、それでも彼女は目を逸らさない。


「……で?」


 真昼は今度は黎夜を見た。


「私、どこまで知らないままでいればいいの?」


 その問いには、軽々しく返せる答えがなかった。


 知らない方がいいこともある。たぶんたくさんある。だが何も教えずに遠ざければ、それはそれで彼女を余計に不安にさせるだけだ。


 黎夜が言葉に詰まっていると、刃更が小さく口を開いた。


「最低限なら、共有可能です」


「おい」


「私の判断です」


「それ大丈夫なのかよ」


「不安定な無知より、制限された理解の方が安全な場合もあります」


 もっともらしいことを言っているが、どこまで本心なのか分からない。だが真昼はその言葉を待っていたみたいに身を乗り出した。


「じゃあ教えて。今日のあれ、何だったの?」


「校内結界の局所破断に伴う異常事象です」


「分かりやすく」


「学園の守りが一部壊れて、危ないものが漏れました」


「最初からそう言って」


 真昼は即座に返し、それから少しだけ目を見開く。


「……守り、ってことは、普段から何かを防いでるの?」


「はい」


「何を」


「危険なものを」


「ふわっとしすぎ!」


 真昼が机を叩きそうな勢いで言い返す。だがその気持ちは分かる。刃更の説明は必要最低限というより、最低限にも達していない。


「だから何なのよ、その危険なものって」


「異常存在です」


「それ昼のやつ?」


「はい。あれは欠片災と呼ばれます」


 真昼は何ともいえない顔でその単語を繰り返した。


「けっぺんさい……」


「裂け目から漏出する小規模災害個体です」


「ほんとにこの学校、何を教えてるとこなの……」


 真昼の呆れに満ちた声は正しい。


 月蝕学園は表向きには進学校で、学園都市の中核を担うエリート校だ。異能だとか結界だとか、そんな話は表立っては存在しない。


 なのに、実際には旧校舎の奥で化け物が湧き、監視役の美少女が剣でそれを斬っている。


 平和な高校生活とはずいぶん違う。


「……黎夜は、前から知ってたの?」


 真昼のその質問に、黎夜は少しだけ間を置いた。


「……全部じゃない」


 嘘ではない。


 全部じゃないどころか、ほとんど断片的にしか知らない。けれど、まったくの無知でもない。


「ちょっとは、か」


「そういうことになる」


「私には黙ってたんだ」


 責める声ではなかった。


 だからこそ、余計に刺さる。


「悪い」


 短く言うと、真昼は目を伏せた。


「……別に、責めたいわけじゃないんだけどさ」


「分かってる」


「でも、今日みたいなの見せられたら、何も知らないままでいろって無理だよ」


 その言葉に、黎夜は返せなかった。


 教室の外では運動部の掛け声が遠く聞こえる。夕方の光が窓から差し込み、机の上を長く照らしていた。いつもと同じ放課後のはずなのに、何もかもが少しだけ違って見える。


 そこへ、不意に教室の前扉が開いた。


「霧生くん」


 よく通る、澄んだ女の声だった。


 振り向く。


 教室の入口に立っていたのは、長い黒髪をハーフアップにまとめた少女――いや、少女というより、一つ上の先輩らしい完成された雰囲気を持つ女性だった。白い肌に、整いすぎた横顔。知性と気品をそのまま形にしたみたいな印象がある。制服の着こなし一つ取っても隙がなく、立っているだけで空気が変わる。


 綾辻詩乃。


 昼間、旧校舎の件が表向き収束したあと、教員たちの向こう側でちらりとだけ見かけた顔だ。


 その時は距離があった。こうして真正面から見ると、思っていた以上に迫力がある。


「少し、お時間をいただけますか?」


 柔らかい口調なのに、断る余地がない。


 クラスの何人かがざわつく。上級生、それも有名人めいた先輩が放課後に名指しで呼びに来たのだ。しかも相手は霧生黎夜。そりゃ目立つ。


 真昼がすぐさま警戒心を露わにした。


「誰ですか」


 半歩前へ出る幼馴染に、詩乃はまったく動じない。ゆるやかに微笑みさえ浮かべる。


「綾辻詩乃。三年ですわ」


「わ……」


 真昼が微妙な顔になる。上品な物腰に少し気圧されたのだろう。


 詩乃はそのまま視線を黎夜へ戻した。


「本日中に確認しておきたいことがあるのです。できれば、あなた一人に」


「断ります」


 間髪入れずに刃更が言った。


 真昼より早いのが少し面白い。


「監視対象の単独行動は認められません」


「あら」


 詩乃の視線がゆっくりと刃更へ向く。


 その一瞬、教室の温度がわずかに変わった気がした。


「あなたが例の監視役の方ですのね」


「天城刃更です」


「存じていますわ。白銀の執行剣」


 その呼び方に、刃更の眉がぴくりと動いた。


 知っている。


 互いを、あるいは少なくとも詩乃は刃更を知っている。


 黎夜はその事実に内心で舌打ちした。どうやら思っていた以上に、この学園の“裏側”は狭いらしい。


「でしたら話は早いですわ」


 詩乃は微笑んだまま続ける。


「昼の件について、私は分析側の人間です。あなた方が戦闘担当であれば、私は事後の解釈と修復を担当しますの。協力を拒む理由はありませんでしょう?」


「あります」


 刃更は一歩も引かない。


「彼の情報は制限対象です」


「なら、なおさら私が必要ですわ」


 詩乃の視線が、まっすぐ黎夜へ注がれる。


 黒曜石みたいな瞳だった。静かで、綺麗で、ひどく冷たいのに、底にだけ奇妙な熱を隠している。


「あなた、内部に“喰った痕”がありますわね」


 教室の空気が止まった。


 黎夜の呼吸も、一瞬だけ止まる。


「……何の話だよ」


 ようやく返した言葉は、自分でも驚くほど低かった。


 だが詩乃は動じない。むしろその反応を待っていたように、小さく顎を引く。


「知らないのなら、それでも構いません。知らないふりをしたいのなら、それでも」


「綾辻詩乃」


 刃更の声音が鋭くなる。


「教室で話す内容ではありません」


「同意しますわ。ですから、お連れしたいのです」


「私も同行します」


「もちろん」


 詩乃はあっさり頷いた。


「あなたまで外す気はありませんもの。むしろ、いていただいた方が話が早いでしょう」


「……黎夜」


 真昼が袖を掴んだ。


 振り向くと、彼女は明らかに不安そうな顔をしていた。


「行くの?」


「行かないと余計に面倒になりそうだ」


「もう十分面倒なんだけど」


「知ってる」


 少しだけ苦笑すると、真昼は余計に眉を寄せた。


「私も行く」


「駄目だ」


「なんで!」


「危ないから」


「それ、今日一番むかつく言い方」


 真昼は即座に言い返した。


「あんたが危ないとこに行くのに、私は駄目って何」


「真昼」


「私だって無関係じゃないでしょ! 見たんだよ、昼のやつ!」


 教室の端でまだ何人かがこちらを見ているのが分かる。もう十分注目を集めている。これ以上ここで言い争うのはまずい。


 だが真昼の気持ちも分かる。昼の一件で置いていかれた。そのうえまた“知らない側”へ押し戻されるのだから、納得できるはずがない。


 黎夜が何と返すべきか迷っていると、意外なところから助け舟が出た。


「今回は見送ってください」


 刃更だった。


 真昼が目を瞬かせる。


「……何であんたがそう言うの」


「今日の件で、あなたが危険に晒される可能性は確認されました。次に似た事案があった場合、巻き込まれる位置にいてほしくありません」


「それ、心配してるってこと?」


「リスク管理です」


「言い方が可愛くない!」


 だが真昼の怒りは、ほんの少しだけ和らいだようだった。


 刃更が続ける。


「ですが、完全に排除するつもりもありません」


 黎夜と真昼が同時に彼女を見る。


「本日の件について、共有可能な範囲は後ほど整理します。柊真昼、あなたが無関係ではないという認識には同意します」


「……」


「ただし、今すぐ連れて行くべきではありません」


 理路整然としたその物言いに、真昼は何か反論しようとして、結局飲み込んだ。


「……後で、ちゃんと話してくれるの?」


 問いかけは刃更ではなく、黎夜へ向けられていた。


 黎夜は小さく頷く。


「できる範囲で」


「誤魔化したら許さないから」


「分かってる」


 真昼はしばらく唇を尖らせていたが、やがて不承不承といった様子で一歩引いた。


「じゃあ、それでいい。今日は」


 その“今日は”に、明日以降は譲らないという意志が詰まっている。幼馴染らしい強さだった。


「話がまとまりましたわね」


 詩乃が上品に言う。


 この人、ずっと自分のペースを崩さないな、と黎夜は少しだけ思った。


 結局、三人で教室を出ることになった。


 夕方の廊下は部活へ向かう生徒たちでほどほどに賑わっている。だが詩乃が先頭を歩き、刃更が黎夜の斜め後ろにつく形になると、自然と周囲の空気が開いた。単に美人が二人いるからではない。纏っているものの種類が違うのだ。


 剣の少女と、言葉の少女。


 そんな印象が不意に頭をよぎる。


「どこへ行くんですか」


 刃更が問う。


「特級編纂室の研究区画ですわ」


 詩乃は振り向かず答えた。


「旧校舎側の裂け目について、一次解析結果がすでに出始めています。霧生くんを見れば、より確実な判断ができるでしょう」


「俺を見れば?」


「ええ」


 詩乃はそこでようやく少しだけ首を巡らせた。


「あなた、あの裂け目に触れられたでしょう」


 黎夜の足がわずかに止まりかける。


 触れた、というほど直接ではない。だが、確かに旧校舎の奥で、あの空気を吸い、あの黒鎖を出した。


 そして何より――あの人は“喰った痕”と言った。


「分かるのか」


「分かりますわ」


 詩乃の声は静かだった。


「私、そういうものを見るためにここにいますもの」


 階段を上がり、一般生徒があまり使わない北棟の上階へ向かう。途中から廊下の雰囲気が変わった。掲示物が減り、扉の数も少なくなる。人気も薄い。窓から差し込む夕陽だけが長く床を照らしていた。


 やがて詩乃は、古い木製扉の前で立ち止まる。


 プレートにはこう刻まれていた。


特級編纂室・術式解析区画


 月蝕学園の一生徒として二年も通っておきながら、こんな場所があることすら知らなかった。


「どうぞ」


 詩乃が扉を開く。


 中へ足を踏み入れた瞬間、黎夜は思わず息を呑んだ。


 そこは研究室というより、魔術と学問を無理やり一つの部屋に詰め込んだような空間だった。


 壁一面の本棚。古びた革装丁の本と、最新式の薄型端末が同じ棚に並んでいる。机の上には紙の資料と透明なディスプレイが重なり、その中央には複雑な幾何学模様を描いた術式板が広げられていた。天井近くには銀色の輪が何重にも浮かび、淡い光を放っている。


 インクと紙と、微かな花の香りが混ざっていた。


 そして、静かだ。


 驚くほど。


「……すごいな」


 思わず口から漏れた。


 詩乃はその反応に少しだけ満足そうに目を細める。


「私の城ですわ」


「城って自分で言うんだ」


「事実ですもの」


 言い方に嫌味がないのがすごい。


「座ってください」


 部屋の中央に置かれた椅子を示され、黎夜は少しだけためらった。罠かもしれないとか、そういう意味ではない。ただ、ここへ座った瞬間、自分が何かを見透かされる気がした。


 だが後ろには刃更もいる。今さら逃げる意味も薄い。


 黎夜は椅子へ座り、詩乃はその正面へ立った。


 近い。


 教室でも思ったが、この先輩は距離の詰め方が自然に鋭い。じっと見られるだけで、こちらの内側を測られている感覚になる。


「失礼」


 詩乃がそっと右手を伸ばす。


 反射的に身構えかけた黎夜へ、彼女は静かに言った。


「触れるだけですわ。まだ」


「“まだ”って何だよ」


「必要なら後で詳しく」


 さらっと怖いことを言われた。


 詩乃の指先が、黎夜の手首に触れる。


 その瞬間。


 空気が変わった。


 部屋の奥で、吊るされた銀輪がかすかに鳴る。机上の術式板に走っていた光が、一斉に線を描き始めた。薄い透明ディスプレイが幾重にも立ち上がり、その表面に複雑な文字列が流れていく。


 詩乃の瞳が、わずかに見開かれた。


「……やはり」


 その声は、昼の教室よりもずっと低く、重かった。


「強いですわね。想像以上に」


「何が」


「残滓が」


 彼女は手を離さないまま、じっとこちらを見る。


「あなたの中には、裂け目の気配だけではありません。もっと古くて、もっと深い封印痕が何重にも重なっている」


 刃更が一歩前へ出る気配がした。


「綾辻詩乃」


「分かっています」


 詩乃は言いつつも視線を逸らさない。


「ですが、これは興味深いを通り越していますわ。こんな状態で普通に生きているなんて」


「人を標本みたいに言うな」


「標本ならまだ扱いやすいですわ」


「ひどいなあんた」


「褒め言葉ではありませんが」


「そこは分かる」


 軽口を返しながらも、喉の奥は少し乾いていた。


 普通に生きている。


 その言葉が妙に引っかかる。


 普通だと思っていたのは自分だけで、本当は最初から、ずっと何かがおかしかったのではないか。


「……それで」


 黎夜はわざと平静を装って言う。


「何が分かる?」


 詩乃はようやく手を離した。


 そして、ゆっくりと告げる。


「少なくとも一つ、確かなのは――あなたが今日、裂け目に引かれたのは偶然ではないということです」


「は?」


「裂け目があなたに反応しています」


 その瞬間、部屋の空気がさらに重くなった気がした。


 刃更の視線が鋭くなる。


「どういう意味ですか」


「そのままの意味ですわ」


 詩乃は術式板へ目を向け、浮かび上がった光の一つを指でなぞる。


「今日の局所破断は、単なる事故ではない可能性が高い。裂け目が彼の位置に対して偏って発生している」


「つまり」


「霧生くんを中心として、あるいは霧生くんを目印として、向こう側がこちらへ噛みつき始めている」


 冗談みたいな話だった。


 だが冗談に聞こえない。


 この部屋の術式も、詩乃の声も、刃更の沈黙も、それを否定してくれないからだ。


 黎夜はゆっくり息を吐いた。


「……最悪だな」


「同感ですわ」


 詩乃があっさり言う。


「ですが、面白くもあります」


「そこは同感できない」


「でしょうね」


 その時だった。


 部屋の隅に積まれていた古い書架の一角から、ぱたりと一冊の本が落ちた。


 誰も触れていない。


 だが落ちた。


 詩乃と刃更の視線が同時にそちらへ向く。


 黎夜もつられて見る。


 床に落ちた本は、黒い革装丁だった。分厚く、古びていて、表紙には見たことのない紋章が刻まれている。


 そして、その本は――開いた。


 自然に、ひとりで。


 ぱら、ぱら、とページがめくれる。


 止まったページには、古い文字と一緒に、一つの挿絵めいた紋様が描かれていた。


 黒い鎖。


 王冠。


 そして、その下に読めないはずの文字が、なぜか黎夜には読めてしまった。


『封を喰らう王』


 ぞくり、と全身が粟立つ。


「……っ」


 声にならない息を漏らした黎夜を見て、詩乃が目を細めた。


「読めるのですわね」


「読めないはずなのか、これ」


「古層文字です。通常は術式補助なしでは解読できません」


 刃更の声は、もう完全に戦闘前のそれだった。


「霧生黎夜」


「……何だよ」


「まだ、あなたは“何も知らない”と言いますか」


 痛いところを突かれた。


 知らない。だが、知らないままではいられないものが次々に目の前へ転がってくる。


 黒鎖。封印王。裂け目。そして、封を喰らう王。


 詩乃は床の本を拾い上げ、そっと閉じた。


「どうやら、私たちが思っていたより早く、物語は動き始めているようですわ」


「物語って言い方はやめろ。嫌な予感しかしない」


「でも事実ですもの」


 詩乃は静かに本を胸に抱え、真っ直ぐ黎夜を見た。


「霧生くん。あなた、これからもっと狙われますわ」


 その宣告は、あまりにも自然に落ちた。


 まるで明日の天気を告げるみたいに。


「そして、おそらく――もう始まっています」

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