第4話 封印王と呼ばれた少年
旧校舎の中は、昼のはずなのに薄暗かった。
割れた窓から差し込む光は確かにある。廊下の外では春の陽が校庭を照らしているのも見える。なのに、一歩中へ踏み込んだ瞬間、空気の色そのものが変わったように感じた。温度は低い。音は遠い。鼻の奥には、湿った埃と、鉄が焦げたような妙な匂いが混じっている。
「……気持ち悪いな」
黎夜が思わず呟くと、前を行く刃更が小さく頷いた。
「正常な空間ではありません。裂け目の周囲だけ、向こう側の位相が薄く重なっています」
「さらっと訳の分からないこと言うなよ」
「簡単に言えば、ここだけ少しだけ別世界に近いということです」
「全然簡単じゃない」
だが、言いたいことの気配だけは伝わる。
ここはもう、さっきまでの学園ではない。
机や掲示板や、壁のひび割れや、古びた消火器。目に見えるものは校舎のままなのに、何か見えない骨組みが違う場所へ差し替わっている。
ひた、ひた、とどこかで水滴の落ちる音がした。
だが床は乾いている。
その矛盾が、余計に神経を逆撫でする。
「まだいるのか」
「います」
刃更は即答した。
「数は?」
「最低でも一。おそらく親核が近い」
「親核?」
「欠片災を漏出させる中心です。小規模裂け目なら、核さえ断てば崩せます」
「なるほど。で、それは簡単に断てるのか?」
「相手によります」
「今までの経験で言うと、簡単じゃない時にしかその言い方しないだろ」
黎夜が皮肉っぽく言うと、刃更は振り向かないまま返した。
「理解が早いですね」
「褒められてる気がしない」
「褒めてはいません」
「知ってる」
こんな状況でも噛み合わない会話ができるあたり、自分も案外余裕があるのかもしれない。あるいは逆に、現実感が薄れすぎているのか。
旧校舎一階の廊下を進むたび、壁に掛かった古い額縁や、廃棄予定らしい教材棚が視界を掠めていく。使われなくなった教室の引き戸はどれも半端に開き、内部は薄暗い。蛍光灯は点いているのに、どこか頼りない。
「止まってください」
刃更が右手を軽く上げた。
黎夜も足を止める。
その先、廊下の突き当たり――資料準備室と書かれた古いプレートの前で、空気が歪んでいた。今度ははっきり見える。透明な膜が何枚も重なって、互いにずれ続けているような、異様な揺らぎ。時折、その歪みの中心に黒い筋が走り、すぐ消える。
「……あれか」
「はい。裂け目です」
刃更の声は低く落ち着いていたが、その右手は剣の柄を強く握っている。
「近づきすぎないでください。引き込まれる危険があります」
「引き込まれるって、どこに」
「向こう側へ」
「その説明、今日だけで三回目くらいだけど、ほんとに具体性がないな」
「具体的に説明する時間があれば、私もしたいです」
「したいのかよ」
「最低限の共有は必要ですから」
珍しく少しだけ、口調に棘があった。
苛立っているのか。あるいは焦っているのか。
そのどちらでもあるのだろう。
歪みの奥で、何かが脈打った。
心臓の鼓動みたいに、どくん、と。
瞬間、資料準備室の扉が内側から大きく軋み、半分ほど吹き飛んだ。
黒い影がそこから這い出る。
さっきの欠片災とは、明らかに格が違った。
四足獣に似た輪郭は同じだが、大きさは一回り以上大きい。肩の位置が人の胸の高さほどもある。全身は煤と骨の中間みたいな質感で、裂けた皮膚の下から赤い光が脈打っている。頭部は犬とも狼ともつかず、だが目だけが異様に多かった。顔の左右に並ぶ赤い光点がぎらぎらと揺れ、見るだけで吐き気がする。
「……っ」
喉が詰まる。
本能が後ろへ下がれと叫んだ。
化け物を見た時の恐怖だけじゃない。もっと根源的な、見てはいけないものを見た時の生理的嫌悪がある。
「親核です」
刃更は半歩前へ出て、剣先をまっすぐ向けた。
「下がっていてください」
「さっきも言ってたな、それ」
「今度は本気で命令です」
「お前、さっきまで本気じゃなかったのかよ」
「本気でした。ですが、今回はさらに危険です」
軽口で返したが、正直、声が少しだけ上ずっていた。
親核――その怪物は、ゆっくりと首をもたげ、こちらを嗅ぐように鼻先を動かした。鼻があるのかどうかも怪しい形状なのに、そう見えた。そして次の瞬間には、床を抉るようにして飛び出してくる。
速い。
さっきの欠片災よりも一段上の加速だった。
刃更の白銀が閃く。迎え撃つように踏み込み、下段から斬り上げる。鋭く綺麗な一撃。だが親核は半身をずらし、その刃を肩口で受け流した。硬質な衝突音が鳴る。
「硬っ……!」
黎夜が思わず叫ぶ。
刃更はすでに二撃目へ繋げていた。踏み込みを変え、横薙ぎ。白い光が一直線に廊下を走る。親核は後退ではなく前進でそれを潰しに来た。巨大な前脚が床を叩き割り、瓦礫が散る。
「ちっ……!」
初めて刃更の舌打ちを聞いた。
彼女は剣を引きながら廊下の壁を蹴って距離を取り、すぐさま逆手に構え直す。動きに淀みはない。美しいというより、正確だった。何度も何度も、こういう相手を想定して鍛えた者の動き。
それでも押し切れない。
親核はただ大きいだけではない。裂け目から絶えず黒い靄を吸い上げている。傷をつけても、その表面がすぐに粘るように再生していくのが分かった。
「再生するのかよ!」
「裂け目に接続されている間は厄介です!」
刃更が叫び返す。
「核を断つか、裂け目ごと閉じるしかありません!」
「じゃあ閉じろ!」
「言うほど簡単ではありません!」
「今それ言う!?」
親核が吠えた。
音というより衝撃だった。耳の奥に錆びた釘を打ち込まれるみたいな不快な震え。反射的に黎夜が顔をしかめた隙に、親核の背中から細い黒い影が何本も飛び出す。
触手、という言葉が近い。
だが液体みたいでもあり、煙みたいでもあった。形を定めきれない黒の線が刃更へ絡みつこうと走る。
彼女は低く身を沈めてそれを避け、二本目を剣で払った。三本目が左肩を掠める。制服の布が裂け、赤い線が滲む。
「天城!」
「問題ありません!」
問題ありそうにしか見えない。
だが彼女は止まらない。むしろ傷を起点に踏み込みを加速させ、懐へ潜り込んだ。白銀の刃が親核の胸元へ深く突き刺さる。
手応えはあった。
親核が大きくのけぞる。
けれど。
次の瞬間、裂け目の中心が脈打ち、黒い靄が一気に流れ込んだ。刺さったはずの剣を押し返すように、親核の肉体が膨らむ。
「くっ……!」
刃更が押し負ける。
巨大な頭部が振り抜かれ、彼女の身体が廊下の壁へ叩きつけられた。鈍い音。黎夜の心臓が嫌な跳ね方をする。
「っ、が……!」
刃更はすぐ立ち上がった。だが頬に血が伝い、呼吸は明らかに浅い。
それでも彼女の目は死んでいない。
むしろ、さらに研ぎ澄まされていく。
怖いくらいに。
「……なんで、そこまでやるんだよ」
思わず、口から零れた。
刃更は一瞬だけ、親核を見据えたまま答える。
「任務です」
「それだけで、そこまで体張るのか」
「……それだけではありません」
初めてだった。
彼女が自分から、任務の外にある何かを口にしたのは。
「ここで漏らせば、一般生徒に被害が出ます」
白銀の髪の隙間から覗く横顔は、朝と同じように整っているのに、今はそこへ確かな熱が差していた。
「あなたの幼馴染も、その中に含まれる」
その言葉に、黎夜の喉が詰まる。
真昼。
さっき、怯えた顔で、それでも走っていった背中が脳裏に浮かぶ。
「だから止めます」
刃更は剣を構え直した。
「それが私の任務であり――私の役目です」
親核が再び唸りを上げる。
それを迎えるように、刃更が低く呟いた。
「白銀展開」
彼女の剣が、淡く光を帯びた。
刀身に刻まれた見えない紋様が浮かび上がる。薄雪を閉じ込めたみたいな、冷たい白の輝き。空気そのものが張り詰め、廊下の温度がさらに下がる。
次の一歩で、彼女の速度が変わった。
目で追えるぎりぎりの線で、刃更が消える。
親核の右側面へ回り込み、斜め上から斬り下ろす。さっきまで弾かれていた刃が、今度は深く食い込んだ。黒い体液とも煙ともつかないものが噴き出す。親核が身を捩る。反撃の触手を、刃更は身体を捻るだけで避ける。さらに二連撃、三連撃。
白い斬線が廊下を満たした。
美しい。
そう思ってしまうほどに。
無駄がなく、鋭く、徹底的だ。
だが、それでも親核は倒れない。
傷は増えている。確実に削れている。けれど裂け目から流れ込む黒い靄が、それを埋め続けている。
「くそ……」
黎夜は無意識に拳を握った。
見ているだけしかできない自分に腹が立つ。
さっき真昼を庇えたのは、偶然に近かった。黒い鎖がまた出る保証はない。むしろ、出たらまずい気さえする。なのに、目の前で刃更が一人で全部背負っている。
そう思った瞬間、親核が大きく身を沈めた。
「まずい!」
刃更の声。
次の一瞬、親核は刃更ではなく、黎夜へ飛んだ。
狙われたと理解した時には遅い。
巨体が迫る。赤い眼光が近い。牙の奥が暗い。
反射で身体を捻る。だが避けきれない。
その時、白銀が割り込んだ。
刃更が無理やり間へ入り、剣を十字に構えて衝撃を受ける。床板が割れ、彼女の足元が滑る。それでも踏ん張る。親核の重さと力を真正面から受け止める。
「っ、離れて!」
「お前が危ないだろ!」
「あなたが死ぬ方が厄介です!」
「言い方!」
「事実です!」
会話の余地があるのかないのか分からないやり取りの最中、親核の牙がじりじりと刃更へ迫る。剣で受けているとはいえ、このままでは押し切られる。
黎夜は考えるより先に踏み込んだ。
「霧生、下がっ――」
右腕を振るう。
出ろ、と思ったわけではない。そうするしかなかっただけだ。
すると、影が動いた。
自分の足元から、いや身体の奥から、黒い何かが這い出す。細い。冷たい。音を立てて擦れ合う。
鎖だ。
今度ははっきり見えた。
漆黒の鎖が一本、蛇みたいに唸りながら伸び、親核の前脚へ絡みつく。そのまま強引に引きずり落とした。
親核の巨体がバランスを崩す。
「なっ……」
刃更が息を呑んだ。
黎夜自身も目を見開く。
だが驚いている暇はなかった。
「今だ、天城!」
刃更の反応は速かった。
踏み込み。半身。剣閃。
白い刃が、親核の首元深くを斜めに断つ。
黒い体液が噴き、親核が絶叫した。だがまだ倒れない。裂け目がまた脈打ち、靄が流れ込む。
「……しぶとい!」
黎夜の右腕に巻きついた黒鎖が、きりきりと鳴る。冷たく、重い。手首の骨の内側にまで染み込むような感覚。
知っている。
この感触を、黎夜は知っていた。
はるか昔、忘れたはずのどこかで、一度だけ。
「……っ、やめろ」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
鎖は応えない。
ただ、もっと強く、もっと奥まで届けと疼く。
親核を喰え、と。
「霧生黎夜!」
鋭い声が飛ぶ。
刃更だ。
その一声で、黎夜は我に返った。
彼女は親核から距離を取りつつ、こちらを見ていた。驚愕も警戒もある。だが、それ以上に強い意志が目にあった。
「それ以上、出すな!」
命令だった。
朝から何度も聞いた、拒否を許さない声音。
不思議と、その一言が耳に刺さる。
出すな。
そこで止まれ。
まるで、こちらが何を持っているのか知っているみたいに。
鎖の冷たさが少しだけ弱まった。
黎夜は荒く息を吐き、右腕を引く。黒鎖は不満そうに震えながらも、影の中へ沈んでいく。
その隙を、刃更は逃さなかった。
「断ち切る!」
踏み込みと同時に、彼女の剣がさらに白く燃える。
裂け目と親核を繋ぐ黒い靄――その流れの中心へ、刃更は真正面から斬り込んだ。
白と黒が衝突する。
耳を塞ぎたくなるような高音。
裂け目の膜がびりびりと震え、縦に亀裂が入った。
親核が苦鳴を上げる。
「もう一度だ、天城!」
「言われなくても!」
刃更の二撃目。
今度は親核そのものではなく、その背後の裂け目へ剣先を突き立てる。白銀の刃が透明な歪みを貫いた瞬間、廊下の空気が大きく波打った。
ぱきん、と。
ガラス細工が砕けるみたいな音がした。
裂け目が、閉じる。
黒い膜が何枚も重なりながら inward に潰れ、最後にはただの空気へ戻った。
同時に、親核の巨体がぐらりと傾く。
支えを失ったように、赤い光が弱まる。刃更は一歩踏み込み、最後の一閃を首元へ叩き込んだ。
白い線。
次の瞬間には、親核の身体は崩れていた。
灰でもなく、液体でもなく、黒い紙を燃やしたあとのような薄い塵となって床へ散る。
静寂。
ほんの数秒前までの殺気が嘘みたいに、旧校舎の廊下に沈黙が落ちた。
「はぁ……っ、は……」
刃更が大きく息をつく。
剣はまだ構えたまま。だがその肩は明らかに重くなっていた。頬の傷から血が流れ、左肩の裂傷もじわりと滲んでいる。
「終わった、のか」
黎夜が問うと、刃更は数秒だけ周囲を警戒し、それからようやく剣を下ろした。
「……一旦は」
「一旦かよ」
「裂け目の中心は断ちました。欠片災の残留がなければ、これで収束です」
「その言い方だと安心しきれないな」
「安心しきれる仕事ではありません」
「それもそうか」
息を吐く。
気が抜けると同時に、さっきの冷たい感触が右腕に戻ってくる。もう鎖の形は見えない。だが、確かにそこにいた。自分の中から出てきて、化け物に絡みついて、そして――喰いたがっていた。
ぞっとする。
「……今の」
静かな声がした。
刃更がこちらを見ている。
白銀の髪の隙間から覗く瞳は、朝よりずっと険しかった。
「説明してもらいます」
「今じゃなきゃ駄目か」
「今だからです」
逃がさない、とその目が言っていた。
黎夜は視線を逸らす。だが廊下の薄暗さにも、床のひびにも、答えは落ちていない。
「……俺にもよく分からない」
「嘘ですね」
「全部は分からないって意味だ」
言葉を絞り出すようにして、黎夜は続けた。
「さっきの、鎖みたいなやつ……あれが出る時がある」
「時がある?」
「滅多にない。ほとんど忘れてた。っていうか、忘れたかった」
刃更は黙って聞いている。
その沈黙が、逆に逃げ道を塞いでくる。
「前にも似たことがあった。昔。……よく覚えてないけど」
「覚えていない?」
「断片だけだ」
頭の奥に靄がかかっている。
怒鳴り声、暗い場所、冷たい鎖、何かを壊した感触。それ以上は、思い出そうとすると胸の奥が痛んだ。
刃更はしばらく無言で黎夜を見つめ、それから、はっきりと言った。
「やはり」
「何がだ」
「あなたが、ただの異能保持者ではないことです」
その言葉に、空気がまた少しだけ冷える。
ただの異能保持者ではない。
そうだろう。自分でも、さすがに分かる。
でも、それ以上先の名前を口にされたくない。
朝からずっと避けてきた、その呼び名を。
「あなたは――」
刃更が一歩、近づく。
血の匂いと、冷たい空気と、彼女自身の張り詰めた気配が重なった。
「封印王ですね」
その言葉は、思ったより静かに落ちた。
雷みたいな衝撃はない。ただ、逃げ道のない事実みたいに、胸の真ん中へ沈んでくる。
封印王。
知らないはずの名。
知られたくなかった名。
黎夜は笑おうとして、うまく笑えなかった。
「……何だよ、それ」
「とぼけないでください」
「とぼけてるんじゃない。俺は――」
俺は何だ。
ただの学生か。違う。
危険人物か。たぶん違う。
守りたいだけの人間か。そうであってほしい。
だが、今の鎖は明らかに、それだけではなかった。
刃更はさらに言う。
「封印局の記録にある、七王権の一柱。災厄を封じ、喰らい、支配する異端の王」
黎夜の喉が鳴る。
「……よくそんな大層な話、初対面の相手にできるな」
「初対面だからこそです」
「どういう理屈だよ」
「情が入る前に確認したい」
その返しに、黎夜は一瞬だけ言葉を失った。
情。
この少女は、そんな言葉を自分に対して使うのか。
「私はあなたを監視するために来ました」
刃更の瞳は真っ直ぐだった。
「必要なら、討つために」
朝、聞いた言葉と同じだ。
なのに、今は重さが違う。
実際に戦い、実際にこちらの異常を見た後だからだろう。さっきまでは、どこか形式ばった警告に聞こえていた。今は違う。彼女は本気で、その選択肢を持っている。
「……そうかよ」
黎夜は小さく息を吐いた。
「で、今すぐ斬るのか?」
問うた瞬間、刃更の目が僅かに揺れた。
それだけで、答えは半分出ていた。
「今はしません」
「今は、か」
「監視継続が妥当と判断しました」
「便利だな、その言い回し」
「事実です」
「……そっか」
即答で斬られなかったことに安堵する自分がいるのが、少し情けなかった。
けれど、それ以上に厄介なのは、彼女の答えに別の意味を感じてしまうことだ。
監視継続。
つまり、まだ見たいと思ったということだ。
危険かどうかを。敵かどうかを。もしかしたら、それ以外の何かも。
廊下の向こうから、ようやく複数の足音が近づいてきた。教師か、警備担当か、真昼が呼んだ誰かだろう。
刃更はその気配に顔を上げ、すぐに剣を収める。
「この件は、私が処理します」
「どうやって」
「校内異常事案として報告します。一般生徒には見間違い、あるいは設備事故として処理されるでしょう」
「そんな雑に?」
「慣れています」
「怖いこと言うな」
だが、そういう世界なのだと理解する。
自分が知らなかっただけで、この学園の裏では、こういうものが日常的に処理されている。
刃更が背を向けかけ、ふと足を止めた。
「霧生黎夜」
「何だ」
「さっき、柊真昼を庇いましたね」
「……悪いかよ」
「いいえ」
白銀の少女は、横顔のまま言った。
「むしろ、最悪ではない」
「最悪って前提なんだな」
「当然です。あなたはまだ危険です」
「容赦ねえな」
「ですが」
そこで、彼女はほんの少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「少なくとも、今のあなたは」
言い切らず、刃更は前を向く。
それ以上は聞けなかった。足音が近づき、現実が割り込んできたからだ。
教師たちの声、無線の雑音、慌ただしい気配。昼休みの学園が、ようやくこちらの異常に追いついてくる。
黎夜は割れた窓の方へ一度だけ視線を向けた。
外は明るい。
春の空は何事もなかったみたいに青い。
なのにその青さが、今は妙に遠いものに思えた。
封印王。
その名が、耳の奥に残っている。
否定したかった。そんなものではないと。
だが右腕の奥にはまだ冷たい痺れが残り、刃更の言葉が嘘ではないことを証明していた。
平穏は、もう手の届く場所にはないのかもしれない。
そんな考えが浮かんで、黎夜は目を閉じる。
少しだけ休みたかった。
けれど、そんな時間はきっともう来ない。




