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『月蝕学園の封印王――監視役の剣姫も、詠唱魔術の才媛も、俺の日常を壊しにくる』  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第3話 放課後、結界の裂け目

 昼休みの喧騒は、校舎の外から見ればいつも通りだったのだと思う。


 中庭では運動部の連中が競うようにパンをかじり、ベンチでは女子生徒たちがスマホを囲んで笑っている。購買前には相変わらず人だかりができていて、廊下には弁当の匂いと話し声が満ちていた。


 どこを切り取っても、平和な学園の昼休みだ。


 だからこそ、霧生黎夜は走りながら、腹の奥が冷えていくのを感じていた。


 見えている景色と、皮膚の裏で鳴り続ける警鐘が噛み合わない。


 何かがおかしい。


 それも、ただの嫌な予感ではない。天城刃更の反応も、それを裏づけていた。


「どこだ」


 黎夜が前を走る白銀の背中に声を投げる。刃更は廊下を曲がりざま、迷いなく答えた。


「旧校舎側です。三号棟の渡り廊下を越えた先」


「人の多い場所じゃないな」


「だからこそ、です」


 短い返事。


 彼女は昼休みの人の流れを、ほとんどぶつかることなくすり抜けていく。驚くほど足音が軽い。剣を携えた少女が全力で校内を移動しているのに、周囲の視線はほとんど彼女に追いついていなかった。あまりに自然で、あまりに速い。


 黎夜はそれを追いながら、歯噛みする。


 身体が鈍っているわけではない。むしろ人並み以上には動けるつもりだ。だが、彼女の動きには別の種類の洗練があった。訓練された者の速度。目立たず、最短で、危険へ踏み込むための走り方。


 旧校舎への連絡通路は、昼休みでも人が少ない。


 月蝕学園の本校舎が白とガラスを基調にした近代的な建築なのに対し、旧校舎は一世代前の古い煉瓦造りだ。使われていないわけではない。資料室や一部の選択授業、部室棟として機能している。だが生徒たちの主な生活圏からは少し外れているせいで、昼間でもどこか空気が違う。


 渡り廊下へ差しかかった瞬間、黎夜は足を止めかけた。


「……冷たい」


 空気が変わった。


 春の昼とは思えない、薄く湿った冷気が頬を撫でる。生暖かい昼休みの空気が、目に見えない境界でも越えたみたいに、そこで質を変えていた。


 刃更も立ち止まり、視線を細める。


「気づきましたか」


「さすがにこれで気づかないのは鈍すぎる」


 渡り廊下の向こう、旧校舎側の窓ガラスに、光の屈折みたいな歪みが走っている。真夏のアスファルトに揺れる陽炎に似ているが、もっと不快で、粘ついた揺らぎだった。


 ひゅう、と微かな風の音がする。


 風は吹いていないはずなのに。


「何なんだ、これ」


「裂け目です」


 刃更が低く答える。


「結界の表層が局所的に剥離しています。まだ小さい。ですが、このまま放置すれば内部と外部が接続される」


「内部と外部?」


「こちら側と、向こう側です」


 言われて意味が分かったわけではない。だが、言葉の響きだけで嫌なものを感じた。


 こちら側。向こう側。


 人が当然のように生きている昼休みの学園と、そうではない何かが薄皮一枚隔てて隣り合っているような、そんな響き。


「先生とかに連絡は」


「間に合わない可能性が高いです」


「可能性って」


「もう、漏れ始めています」


 刃更が言うと同時、旧校舎二階の窓が一枚、内側から叩き割られた。


 凄まじい破裂音だった。


 ガラス片が中庭側へ飛び散り、渡り廊下の床に雨みたいに降る。反射的に黎夜が身を低くしたそのすぐ先で、黒い塊が窓枠を押し広げるようにして姿を現した。


「……っ」


 獣、という言葉では足りない。


 犬に似ているようにも見えた。狼のようでもあった。だが四肢の関節はどこか不自然で、肋骨めいたものが皮膚の下ではなく外側に浮き出ている。全身は煤のような黒で、ところどころが欠けて、空洞になっていた。目があるはずの場所には赤い火の粉みたいな光が揺れている。


 口を開いた。


 牙ではなく、割れたガラスの断面みたいなものが並んでいる。


「……なんだよ、あれ」


 声が掠れた。


 刃更は一歩前へ出る。


「欠片災」


「けっぺん、さい?」


「裂け目から漏れ出した異形です。実体は脆いですが、一般生徒に接触させると危険です」


「危険ってレベルの見た目じゃないだろ」


 その化け物は、窓枠に前脚をかけたまま、ゆっくりとこちらへ首を向けた。


 目が合った、と思った瞬間、寒気が脊髄を走る。


 理屈ではない。あれは人を見つけている。獲物として。


 次の瞬間には、黒い獣は割れた窓から身を躍らせていた。


「下がって!」


 刃更の声と同時に、白銀が閃く。


 彼女の右手には、いつ抜いたのか細身の長剣が握られていた。昼の光を吸うように白い刀身が弧を描き、飛びかかってきた欠片災を正面から斬り払う。


 金属音にも悲鳴にも似ていない、耳障りな破裂音。


 黒い塊が空中で真二つに裂け、そのまま炭みたいな破片になって散った。


 だが。


「一体だけじゃない!」


 黎夜が叫ぶ。


 割れた窓の向こう、暗い教室の中で、赤い火の粉がいくつも灯っていた。こちらを見ている。揺れている。増えている。


 刃更は舌打ち一つしない。ただ剣を構え直した。


「霧生黎夜」


「何だ」


「ここから先へ一般生徒を近づけないでください」


「お前は」


「私が押さえます」


「一人でか?」


「足ります」


 言い切るその声音に、嘘はなかった。


 実際、彼女なら一体、二体、三体程度なら捌いてしまうのかもしれない。今の一閃だけでも十分それは分かった。


 だが、窓の奥で蠢く気配はそれだけではなかった。


 旧校舎全体が、薄くうなっているようにさえ感じる。


「足りないだろ」


 思わず口に出ていた。


 刃更が横目でこちらを見る。


「何ですか」


「その数、一人で全部抑えるつもりかよ」


「そのための任務です」


「任務任務って――」


 言いかけたところで、別の窓から二体目、三体目が飛び出した。


 黒い獣たちは床に着地すると同時に、低く這うような体勢で散開する。渡り廊下を通って中庭へ、あるいは本校舎側へ行こうとしているのが分かった。


 まずい。


 あれが人混みに紛れ込めば、パニックどころでは済まない。


「くそっ……!」


 黎夜が踏み出しかけた、その時だった。


 渡り廊下の向こう、階段からこちらへ駆けてくる影がある。


「黎夜!」


 最悪のタイミングで聞き慣れた声が響いた。


 柊真昼だ。


 教室にいろと言ったはずなのに、真昼は当然のように追ってきていた。息を弾ませ、制服のスカートを翻しながら、こっちへ向かって走ってくる。


「真昼、来るな!」


 叫ぶが遅い。


 一体の欠片災が、ちょうど真昼の方へ首を巡らせた。


 赤い火の粉みたいな目がぎらりと揺れる。


「っ――」


 真昼の顔から血の気が引いた。


 普段の彼女なら、多少の騒ぎにも飛び込んでくる。だが目の前のそれは、理解の外にある脅威だった。叫ぶことも動くこともできず、足だけが床に縫い留められたように止まっている。


 刃更が動く。


 だが遠い。間に合わない。


 欠片災が床を蹴った。


 低く、鋭く、黒い弾丸のように真昼へ飛ぶ。


 考えるより早く、黎夜の身体が動いていた。


 踏み込み。床板が軋む。


 視界の端で、何かが黒く揺れた。


 自分の右腕から、あるいは影から、細い鎖のようなものが一瞬だけ伸びるのが見えた気がした。


 ガキンッ、と甲高い衝突音。


 飛びかかった欠片災の身体が途中で弾かれ、壁に叩きつけられる。黒い破片が弾け飛び、獣は苦しげな声ともつかない音を漏らしてのたうった。


「……え」


 真昼が呆然と目を見開く。


 黎夜自身も一瞬遅れて、自分が何をしたのか理解しかけて、すぐにその思考を潰した。


「下がれ!」


 真昼の手首を掴み、無理やり自分の後ろへ引く。


 同時に刃更が滑り込むように間合いへ入り、壁際でもがく欠片災へ鋭い突きを打ち込んだ。白い刃が黒い核を貫く。嫌な破裂音とともに、獣の身体が灰のように崩れた。


 静寂は一秒も続かない。


 残った二体が、今度は本格的にこちらを狙って低く唸った。


「真昼!」


 黎夜は幼馴染を振り返る。


「走れ。先生でも誰でもいい、本校舎側に知らせろ」


「で、でも――」


「いいから!」


 強く言い切ると、真昼は肩を震わせた。


 怖いのだろう。混乱しているのだろう。それでも彼女は、ぎゅっと唇を噛み、無理やり頷いた。


「……死なないでよ!」


「死なない」


「絶対だからね!」


 それだけ言い残して、真昼は踵を返す。階段の方へ走っていく背中が、いつもよりずっと小さく見えた。


 その背中を見送った一瞬、胸の奥で何かが疼く。


 ――守れ。


 そんな声がした気がした。


「今の」


 刃更の声が飛ぶ。


 彼女は二体の欠片災と対峙したまま、わずかに首だけこちらへ向けた。


「何をしましたか、霧生黎夜」


「……知らない」


「嘘ですね」


「今はそれどころじゃないだろ!」


 黎夜が怒鳴るのと、二体目が飛びかかるのは同時だった。


 刃更は一歩踏み込み、迎え撃つ。白銀の刃が縦へ閃き、一体を斬り裂く。が、もう一体が死角から滑り込むように低く迫る。


「天城!」


 黎夜の声に、刃更が半身を捻る。


 避けきれない。


 そう見えた。


 しかし彼女は剣を捨てるような勢いで左手を前へ出し、短く呟く。


「断ちます」


 空気が鳴った。


 左手首に巻かれていた銀の細い紐のようなものが一瞬だけ光り、透明な壁みたいな膜が走る。欠片災がそこへぶつかり、強く弾かれた。


 防御術式。


 理解した頃には、刃更の追撃が終わっていた。返す刀で首を落とされ、最後の一体も灰になって崩れる。


 渡り廊下に沈黙が降りる。


 割れた窓から吹き込む風だけが、細かいガラス片を鳴らしていた。


 黎夜は肩で息をしながら、ようやく握っていた拳を開く。指先が震えている。恐怖のせいだけではない。もっと別の、思い出したくない感覚が混じっていた。


 黒い鎖。


 一瞬だけ見えた、あれ。


 見間違いであってほしいと思うのに、腕の内側にはまだ微かに冷たい痺れが残っている。


 刃更が剣を下ろし、静かに黎夜を見た。


「今のは何ですか」


「だから、知らないって――」


「誤魔化さないでください」


 朝よりもずっと鋭い声音だった。


 当然だ。目の前で明確な異常を見せたのだから。


「あなた、今……欠片災を弾きましたね」


「偶然だ」


「偶然でああはなりません」


 刃更は一歩近づいた。


 昼の光を背にした白銀の瞳が、まっすぐこちらを射抜く。


「普通の生徒ではないとは思っていました」


「……」


「ですが、予想以上です」


 その言葉は責めているようでもあり、確信を深めているようでもあった。


 黎夜は目を逸らしたくなった。だが逸らせない。


 逸らした瞬間、もっと何かが壊れそうな気がした。


「……とりあえず、まだ終わってないだろ」


 話をずらすように、割れた窓の向こうを顎で示す。


 旧校舎の奥からはまだ嫌な気配がする。さっきより薄れたが、消えてはいない。裂け目は残っている。欠片災がこれだけで打ち止めとは考えにくい。


 刃更は数秒だけ沈黙し、それから視線を旧校舎へ戻した。


「……そうですね」


「後で聞けよ。今は対処が先だ」


「逃げるつもりなら斬ります」


「脅しの精度高すぎるだろ」


「本気です」


「知ってる」


 嘆息しつつも、黎夜は自分でも妙なことに気づいていた。


 朝、この少女に剣を向けられた時は、ただ面倒で怖くて最悪だと思った。


 でも今、同じ相手の背中を見ていると、不思議とそれだけではなかった。


 頼りになる。


 そう感じてしまう自分がいる。


 厄介で、融通が利かなくて、会話は噛み合わなくて、平穏を破壊する権化みたいな女なのに、戦う時の彼女はひどく真っ直ぐだ。


 だから余計に面倒だ。


「……行くぞ」


 黎夜が言うと、刃更はわずかに目を見開いた。


「あなたも?」


「真昼があれ見たんだ。もしもっと出るなら、他の連中だって危ない」


「危険です」


「だろうな」


「それでも?」


 黎夜は答える代わりに、割れた窓の向こうの暗がりを見る。


 赤い火の粉のような光は、もう見えない。だが奥に何かがいる気配は、確かに続いている。


 放っておけない。


 ただそれだけだった。


「……放っておけるほど、器用じゃない」


 刃更はじっとこちらを見つめ、それから小さく息を吐いた。


「覚えておきます」


「何を」


「監視対象の性質です」


「便利だな、その監視」


「はい」


 淡々と返され、黎夜は苦笑しかけてやめた。


 次の瞬間、旧校舎の奥から、低く湿った唸り声のようなものが響く。


 人間のものではない。


 獣とも違う。


 裂け目の向こうで何かがさらに形を持ち始めた、そんな気配。


 刃更が剣を握り直す。


 黎夜も息を整え、無意識に右手を握った。あの黒い鎖がまた出るとは限らない。むしろ出ない方がいい。出てしまえば、たぶん面倒では済まない。


 けれど、もし必要になったら。


 ――その時は。


「行きます」


 白銀の少女が先に踏み出す。


 黎夜はその背を追い、割れた窓から旧校舎の暗がりへ足を踏み入れた。


 昼なのに、そこはやけに暗い。


 やけに静かで、やけに冷たい。


 何かが待っている。


 それだけは、はっきり分かった。

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