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『月蝕学園の封印王――監視役の剣姫も、詠唱魔術の才媛も、俺の日常を壊しにくる』  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第2話 監視対象の学園生活は平穏ではない

 結論から言うと、霧生黎夜の抵抗は一ミリも意味を成さなかった。


「だから、ついてくるなって言ってるだろ」


「監視です」


「それ便利な免罪符みたいに使うなよ」


「免罪符ではありません。正式な任務です」


「なおさら質が悪い」


 玄関先で靴を履きながら三度目の抗議をしても、白銀の少女――天城刃更は微動だにしない。黎夜の部屋から一歩外へ出た時点で、彼女はすでに廊下の壁際に直立していた。いつの間にそこへ移動したのかすら分からない。忍者か何かかと疑いたくなるが、本人はあくまで「監視です」の一点張りである。


 月蝕学園の学生寮二階、朝の廊下はまだ静かだった。何人かの生徒が洗面所へ向かう気配はあるが、この時間帯なら騒がしさは薄い。だからこそ、白銀の髪を揺らす美少女が男子寮の廊下に当然の顔で立っている異様さが際立っていた。


 すでに何人かは見た。


 見たうえで、二度見した。


 そして三度見した。


 中には歯磨き用のコップを落とした奴までいた。


「……もう帰れよ」


「却下します」


「お前、自分が今どういう絵面か分かってるか?」


「監視対象と監視担当です」


「その説明で納得する世界なら、たぶん戦争も起きないよ」


 黎夜はうんざりした顔でため息を吐いた。刃更は今日もきっちり制服を着こなしている。朝の淡い日差しを受けて、白銀の髪がやたら目立つ。顔立ちも、認めたくはないが異様に整っている。切れ長の瞳は凛としていて、表情はほとんど変わらないのに、その無機質さが逆に人目を引く。


 美人が無表情だと、それだけで完成された何かに見えるのだと知ったのは今朝が初めてだった。


 しかもそんな少女が、男子寮の一室から自分と一緒に出てきたのである。


 平穏という言葉が泣く。


「ねえ」


 案の定というべきか、廊下の向こうから声が飛んだ。


 黎夜は嫌な予感しかしないまま、ぎこちなく振り向く。


 そこには、寝癖混じりのショートボブを揺らした少女が立っていた。


「……黎夜?」


 柊真昼。


 同じ月蝕学園に通うクラスメイトで、家族ぐるみの付き合いがある幼馴染。明るく、距離が近く、遠慮がなく、そしてなぜか黎夜の生活リズムを本人以上に把握している世話焼き人間だ。


 その真昼が、片手に購買のパンらしき袋を下げたまま、目をまん丸にして固まっていた。


 視線は黎夜と、その隣の刃更を交互に往復している。


「……おはよう、真昼」


「おはようじゃないけど!?」


 反応がでかい。分かる。こっちも同じ気持ちだ。


 真昼はどすどすと足音を立てて近づいてきた。寝起きでも元気なのは彼女の長所であり短所でもある。勢いのまま黎夜の肩を掴み、強引に自分の方へ引き寄せる。


「何これ。誰。なんで黎夜の部屋から出てきてるの」


「それは俺も説明したい」


「してよ!」


「できたら苦労してない」


 真昼の顔は近い。元々距離感が近いタイプだが、今日はさらに近い。焦げ茶色の瞳が怒りと困惑で揺れている。朝の支度を急いできたのか、髪の片側が少し跳ねていて、それが妙に生活感を感じさせた。


 そんな真昼の横で、刃更が淡々と口を開く。


「天城刃更です」


「えっ、自己紹介するんだ」


「本日より、霧生黎夜の監視を担当します」


「……は?」


 真昼の表情が固まった。


 当然である。


「監視?」


「はい」


「黎夜を?」


「はい」


「なんで?」


「機密事項です」


「いや説明になってないから!」


 反射的に真昼が叫ぶ。正しい。実に正しい反応だ。


 だが刃更は真昼の勢いにも揺らがない。視線一つ動かさず、ただ必要最低限の言葉だけを落とす。


「あなたは?」


「は?」


「監視対象との関係を確認します」


 問われた真昼は一瞬だけ目を瞬かせ、それから胸を張った。


「幼馴染だけど?」


「近しいのですね」


「そうだけど?」


「了解しました。要警戒対象として記録します」


「なんで!?」


 黎夜は思わず目を覆った。


 やっぱりこうなる。話し合いでどうにかなる相手ではないと、短時間でも十分理解できてしまった。


 真昼は今度こそ本気で意味が分からないらしく、黎夜へ向き直る。


「黎夜、これどういうこと?」


「俺に聞くな」


「だって一番関係あるのあんたじゃん!」


「今朝起きたらいたんだよ、ベッドの中に」


「はぁ!?」


 言った瞬間、空気が凍った。


 廊下の向こうで靴紐を結んでいた男子生徒がぴたりと動きを止める。洗面所から戻ってきたらしい上級生が、タオルを首に掛けたまま固まる。なんなら通路の角にいた後輩が「えっ」と小さく声を漏らした。


 終わった。


 これはもう終わりだ。


「ちょ、ちょっと待って、今なんて?」


「違う、語弊がある」


「十分あるよ!?」


「だから俺も困ってるって言ってるだろ!」


 真昼の顔がみるみる赤くなる。怒っているのか照れているのか、その両方なのか判別がつかない。だが幼馴染としての危機感だけははっきり見えた。


「黎夜、あんた何やってんの!?」


「やってない! 俺は被害者だ!」


「被害者って言い方もどうかと思うけど!?」


「その意見には同意します」


 なぜか刃更がそこだけ会話に参加してくる。


 黎夜はもう一度だけ深く息を吐いた。


「……もういい。ここで騒いでても地獄が拡大するだけだ。学校行くぞ」


「え、ちょっと待って。全然よくない」


「よくはないけど、これ以上人集めても不毛だろ」


 すでに十分集まりつつあるが、これ以上増える前に離脱した方がいい。黎夜は半ば強引に歩き出した。刃更は当然のようにその横につき、真昼も怒り顔のまま反対側に並ぶ。


 結果、通学路の時点で三人横並びという最悪に目立つ陣形が完成した。


 春先の朝、学園都市の空気はまだ少し冷たい。街路樹の若い葉が風に揺れ、石畳の歩道には登校中の学生たちがぽつぽつと流れている。月蝕学園は都市の中心にあるため、制服姿の生徒は珍しくない。だがその中でも、白銀の美少女と、幼馴染ポジションを全身で主張してくる真昼を両脇に従えた男子は、どう考えても悪目立ちの極みだった。


 視線が痛い。


 刺さるとかではない。もはや殴られている。


「……見られてる」


「そりゃ見られるよ!」


 真昼がすぐさま言い返す。まだ怒っている。


「あたしだってびっくりしてるんだから、周りの子なんてもっとびっくりするに決まってるじゃん!」


「驚いてるのは俺も同じだ」


「じゃあもっと危機感持って!」


「これ以上どう持てっていうんだよ」


 黎夜がうんざりした口調で返すと、真昼は「うっ」と詰まった。たしかに危機感は十分にある。というか、朝から限界に近い。


 そんな二人のやり取りを、刃更は平然と観察していた。


「柊真昼」


「な、なに」


「あなたは霧生黎夜と普段から一緒に登校しているのですか」


「する時もあるけど……っていうか、なんでそんな尋問みたいに聞くの」


「行動パターンの把握です」


「監視対象ってそんなに細かく見るもの?」


「当然です」


「こわ……」


 真昼が本音を漏らした。全面的に同意する。


 だが刃更はやはり意に介さない。歩調も乱れず、背筋も伸び、視線だけが絶えず周囲を警戒している。その美しさと緊張感の両立が妙に完成されていて、普通に歩いているだけなのに戦場にいるような空気を纏っていた。


 朝から見たくない完成度である。


「ところで」


 真昼がじろりと黎夜を睨む。


「さっきの話、あとでちゃんと全部聞くから」


「何を」


「ベッドの中」


「そこだけ抜き出すな!」


「抜き出したくなるでしょ普通!」


「語弊があるって言っただろ!」


「でもいたんでしょ?」


「いたけど!」


「認めるんじゃないわよ!」


 理不尽がすごい。


 黎夜が反論しようとした時、不意に刃更が足を止めた。


 二人の言い合いも、通学路のざわめきも、その一瞬だけ切れたように感じた。


「……どうした」


 黎夜が問うと、刃更は視線だけを前方へ向けたまま答える。


「妙ですね」


「何が」


「気配が薄い」


「だから何の」


「人の流れに対して、周囲の結界振動が不自然です」


 聞き慣れない言葉に、真昼が眉をひそめる。


「けっかい?」


「気にするな。ただの独り言だ」


 黎夜はすぐに割って入った。真昼の前で余計な単語を広げたくない。


 刃更の目が一瞬だけこちらを見た。


 その視線は、黙っている理由を探るようでもあり、黙っていろという意図を汲んだようでもあった。


「……今は異常なしと判断します」


 結局、彼女はそれ以上言わなかった。


 真昼は納得していない顔だったが、学園の正門が近づいてきたことでひとまず矛先を収めた。巨大なアーチ型ゲートの向こうに、月蝕学園の広い敷地が広がっている。白亜の校舎、中央塔、グラウンド、講堂。どこから見てもよく整備されたエリート校だ。


 だが黎夜にとっては、別に誇らしい場所ではない。


 ただ日常を消費する場所。静かに通って、静かに卒業する予定の場所だ。


 そのはずだった。


 校門をくぐった瞬間、ざわめきが一段大きくなった。


 当然だろう。噂の種が自分から校内へ入ってきたようなものだ。朝から女子の視線が集まり、男子の羨望とも殺意ともつかない目線が飛んでくる。真昼は気まずそうに眉を寄せ、刃更は完全に無視して歩いている。


「最悪だ……」


「何がよ」


「全部」


「分かるけど!」


 真昼も半分同意しながら返す。


 昇降口へ着くころには、もう完全に周知されていたらしい。クラスメイトの何人かがこちらに気づき、目を見開いている。


「え、霧生くん……誰あの子」

「すごく綺麗じゃない?」

「ていうか一緒に来てる?」

「柊さんもいるし修羅場?」

「朝から何そのイベント」


 やかましい。


 聞こえてる。全部聞こえてる。


 黎夜は靴を履き替えながら、床の模様にでもなりたい気分だった。だがそんな現実逃避を許してくれるほど甘くはない。横では刃更が当然のように女子用の上履きへ履き替え、目立ちまくっている。


「お前、クラスどこなんだ」


「あなたと同じです」


「……は?」


 聞き捨てならない返答に、黎夜はようやく顔を上げた。


「同じ?」


「本日付で編入手続きが完了しています」


「そんな話聞いてない」


「言っていませんので」


「そういう問題じゃない!」


 真昼まで「えっ」と声を上げた。


「うそ、二年B組に来るの!?」


「はい」


「なんで!?」


「監視対象に接近するためです」


「理由が物騒なのよ!」


 もう駄目だ。逃げ道が一つずつ埋まっていく。黎夜は昇降口の壁に額を打ちつけたい衝動に駆られたが、体裁だけは守った。


 階段を上がりながらも、周囲の視線はついてくる。二年B組の教室前へ着くころには、もはや廊下にまで空気が漏れ出していた。誰かが中からこちらに気づき、次々と顔を出す。


「霧生、お前それどうした」

「いや“それ”は失礼だろ」

「でもどう見ても大事件だぞ」

「柊も一緒だし何が起きた?」


 クラスメイトたちが好き勝手言う中、黎夜は無言で自席へ向かった。だが、平穏を愛する彼の願いは教室でも無惨に踏みにじられる。


 ホームルーム開始直前、担任が入ってきたからだ。


 そしてその後ろに、刃更がいる。


「えー、急だが今日から編入生が入る」


 担任の声に、教室内が一気にざわついた。


 黎夜は机に突っ伏したくなった。なるほど、最悪はまだ更新できるらしい。


「自己紹介しろ、天城」


 教壇の横へ立った刃更は、教室中の視線を一身に受けながらも、やはり微塵も動じなかった。


「天城刃更です。本日よりこの学級に所属します」


 短い。あまりにも短い。普通ならもう少し愛想とかあるだろう。


 だが、その簡潔さすら彼女には似合っていた。


 白銀の髪、透き通るような肌、凛とした立ち姿。教室の空気が一瞬だけ静まり返る。男子も女子も、見惚れたのだ。無理もない。黎夜だって朝一番、状況さえ違えば見惚れていたかもしれない。


 状況が最悪だったので認めたくないが。


「席は……霧生の隣が空いてるな。そこ使え」


 教室が爆発した。


「はあああ!?」

「ちょっと待ってください先生!」

「なんでよりによって霧生の隣なんですか!」

「いや空いてるからだろ!」

「その理屈が一番残酷だよ!」


 主に男子が騒ぎ、女子が面白がり、真昼が机を叩いて立ち上がった。


「先生、それどうなんですか!」


「何がだ、柊」


「何がって、いや、その、こう……」

「席順に文句があるのか?」


「ある!」


「あるのかよ」


 先生が引き気味に言う。真昼も途中で自分の勢いに気づいたらしく、耳まで赤くして着席した。


 結局、現実は変わらない。


 刃更は黎夜の隣の席へ向かって歩き、椅子を引いた。そして座る直前、ほんのわずかに身をかがめて、本人にしか聞こえない声で言う。


「監視効率が上がります」


「最低だな」


「最適化です」


「お前のその価値観、たぶん友達できにくいぞ」


「必要ありません」


「言い切るなよ……」


 黎夜は机に肘をつき、額を押さえた。


 ホームルームが始まる。担任が今日の連絡事項を読み上げる。だが内容はほとんど頭に入らなかった。というより、頭に入る余地がない。


 隣に刃更がいる。


 前の席では真昼が何度も振り返ってくる。


 後ろの席の男子は小声で「お前何者だよ」と繰り返している。


 日常の形をした何かが、すでに崩れている。


 授業一限目が始まっても、それは変わらなかった。


 国語の教師が古典の助動詞の説明をしている間も、黎夜は妙な居心地の悪さから逃れられない。隣の刃更は授業を真面目に受けているように見えたが、時折、教室全体にさりげなく視線を巡らせている。板書を書き写す動作一つとっても無駄がない。


 そして何より、静かすぎた。


 朝から騒ぎの中心にいたとは思えないほど、彼女は教室という空間にすっと溶け込んでいる。ただし、普通の生徒としてではない。刃物が布に包まれて置かれているような、危うい静けさでだ。


 授業中、ふいに小さな紙が机の上へ滑ってきた。


 前の席の真昼からだ。


 黎夜は教師の目を盗んで広げる。


『あとで説明して』


 圧が強い。


 黎夜は小さくため息をつき、ペンを走らせた。


『俺も全部分かってるわけじゃない』


 返すと、すぐまた紙が戻ってくる。


『じゃあ分かってる分だけ全部』


『長くなる』


『昼休み』


『逃げても無駄?』


『無駄』


 怖い。


 幼馴染の圧が朝から重い。


 黎夜が半ば諦めて紙を畳んだ時、不意に視界の端で刃更がこちらを見た。


「……何」


 小声で問うと、彼女はまた小声で返す。


「私にも共有してください」


「なんでだよ」


「監視対象の交友関係は重要です」


「お前それしか言わないな」


「必要事項です」


 黎夜は呆れて前を向いた。だが、そうやって軽く流しながらも、心の奥では別の警戒が消えていなかった。


 今朝、通学路で刃更が一瞬だけ口にした言葉。


 結界振動。


 妙な気配。


 彼女の勘違い、あるいは考えすぎならいい。だが黎夜自身も、校門をくぐったあたりから、ほんのわずかな違和感を感じていた。教室の空気が不自然だとか、音が変だとか、そういう明確なものではない。もっと曖昧な、皮膚の裏がざわつくような感覚だ。


 忘れようとすれば忘れられる程度の違和感。


 だからこそ、気持ち悪い。


 昼休み。


 予想通り、黎夜の席には真昼が真っ先に押しかけてきた。


「説明」


「早いな」


「待ってたから」


「だろうな」


 机を挟んで向かい合う形になるかと思いきや、真昼は当然のように黎夜の机の端へ腰を下ろした。近い。距離が近い。昔からそうだが、こういう時の彼女は遠慮がない。


「で?」


「で、って言われてもな……」


「今朝起きたら白銀の美少女がベッドにいました、なんて説明で済ませたら殴るからね」


「俺だってそれで済ませたいわけじゃない」


「じゃあ済ませるな」


「理不尽だなぁ……」


 嘆いたところで許されないことは分かっている。黎夜がどう言葉を選ぶか考えていると、横から椅子を引く音がした。


 刃更が当然のように会話へ参加する気配で座る。


「同席します」


「うわ、出た」


「監視です」


「もう分かったよそのくだりは!」


 真昼が思わず突っ込んだ。だいぶ適応が早い。


「で、何。ほんとに黎夜を見張ってるわけ?」


「はい」


「なんで」


「機密事項です」


「そこだけ絶対崩さないんだ……」


 真昼がげんなりした顔をする。だが次の瞬間、彼女はじっと刃更を見た。


「……あんた、強いでしょ」


 教室の喧騒の中、その一言だけが妙に鮮明に響いた。


 黎夜も思わず真昼を見る。


「なんでそう思う」


「なんとなく。立ち方が普通じゃないし、目もそう。あと、朝から変に落ち着いてる」


 真昼は軽そうに言ったが、その観察はかなり正確だった。


 刃更もほんの少しだけ目を細める。


「あなたも、人を見る目はあるようですね」


「褒められてるのか分かんないんだけど」


「事実です」


 真昼は納得いかない顔をしたまま、今度は黎夜へ視線を戻した。


「ねえ黎夜」


「何だよ」


「なんか隠してるでしょ」


 まっすぐな問いだった。


 幼馴染だからこそ届く角度の言葉。長い付き合いの中で培われた勘は、こういう時やけに鋭い。


「別に」


「嘘」


「即答だな」


「だって顔に書いてある」


「そんな器用な顔してない」


「してるよ。あんたが面倒くさいこと隠そうとしてる時の顔」


 図星だった。


 図星すぎて、黎夜は軽く視線を逸らすしかない。


 その様子を見ていた刃更が、ふと窓の外を見た。


 つられて黎夜もそちらへ視線を向ける。


 校舎の中庭。昼休みで賑わうはずの場所。そこに、ほんの一瞬だけ、黒い揺らぎのようなものが見えた気がした。


 陽炎に似て、でももっと粘ついた、嫌な歪み。


「……っ」


 次の瞬間には消えていた。


「黎夜?」


 真昼が不思議そうに首をかしげる。


 刃更はもう立ち上がっていた。


「行きます」


「どこに」


「確認です」


 声が変わっていた。朝の事務的なものではない。剣を抜く直前の張り詰めた声。


 教室の空気が、それだけで少し変わる。


「天城」


 黎夜が低く呼ぶと、刃更は振り向かずに答えた。


「あなたも感じたでしょう」


 否定できなかった。


 感じた。確かに。


 今のは気のせいではない。


「……何が起きてる」


「まだ断定はできません」


 そう言いながら、彼女の右手はすでに鞄の中、あるいはそれに類する何かへ伸びている。


 周囲の生徒たちはまだ気づいていない。昼休みの喧騒は続いたままだ。だがその賑わいの向こうで、見えない何かが、確かに軋み始めていた。


 平穏が、ひび割れる手前の音。


 黎夜は椅子から立ち上がった。


「真昼、お前はここにいろ」


「は? ちょっと、どういう――」


「いいから」


 思わず強く言うと、真昼が息を呑んだ。普段の彼なら、こんな言い方はしない。それだけで、彼女にも何かがただごとではないと伝わったらしい。


 刃更が初めて正面から黎夜を見る。


「ついてきますか」


「行かないとまずいんだろ」


「監視対象としては推奨しません」


「じゃあ何のためにお前を監視してるんだよ」


 一瞬だけ、刃更の目が揺れた。


 ほんのわずかに。


 だが次の瞬間には、彼女はもう廊下へ足を踏み出している。


 黎夜はその背中を追い、教室を出る直前、一度だけ振り返った。


 真昼が立ち上がりかけた姿勢のまま、こちらを見ている。


 不安と苛立ちと、置いていかれる焦りを滲ませた顔。


 その表情が胸に引っかかった。


「……すぐ戻る」


 そう言い残して、黎夜は廊下へ飛び出す。


 昼の光が差し込む校舎の中は、どこまでもいつも通りに見えた。


 なのに、その奥で何かが壊れ始めている。


 この学園で。


 この日常で。


 そしてたぶん、自分の知らないところでずっと前から。

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