第1話 最悪の目覚めと白銀の少女
朝というものは、本来、人に平等であるべきだと霧生黎夜は思っている。
誰にでも眠気はあるし、誰にでも布団のぬくもりは惜しい。目覚まし時計が鳴れば舌打ちのひとつもしたくなるし、あと五分だけと現実逃避する権利も、文明社会に生きる人間として当然保障されるべきだ。
少なくとも、そう信じていた。
だからこそ、寝起き一番、掛け布団の中に見知らぬ少女がいるという状況だけは、明らかに平等の範囲外だ。
「……は?」
半分だけ開いた視界に、白いものが映った。
寝癖で重たいまぶたをこすって、もう一度見る。
白い。いや、白銀だ。
朝の薄い光を受けて、絹糸みたいに淡くきらめく長髪。雪を切り取ってそのまま流し込んだような髪色が、枕元に静かに広がっている。その下にある顔立ちは、息を呑むほど整っていた。切れ長の目、すっと通った鼻梁、薄い唇。人形めいて綺麗なのに、不思議と温度のない無機質さはなく、むしろ刃物みたいな緊張感がある。
そしてその少女は、当たり前のように黎夜の布団の中からこちらを見上げていた。
「起きましたか、監視対象」
寝起きの頭では理解不能な単語が、凪いだ声で投げ込まれる。
黎夜は三秒ほど沈黙し、それから反射的に上半身を起こした。
「誰だお前っ!?」
勢いよく跳ね起きた拍子に掛け布団がめくれ、少女の全身が露わになる。
月蝕学園の制服。白と紺を基調としたブレザー型。膝まで伸びた黒いタイツ。乱れ一つない着こなし。布団の中にいたくせに、なぜかこちらよりずっときっちりしている。
しかも――少女の右手には、細身の長剣が握られていた。
寝具の上に裸身ではなく制服姿の美少女、それだけならまだ夢の余地もあった。だが抜き身の剣がある時点で、これは甘い朝のトラブルではなく、明確に命の危機だ。
「騒がないでください。近所迷惑です」
「いや騒ぐだろ! むしろこれで騒がない人間いたら尊敬するぞ!」
「理解できません。あなたの警戒心は常にその程度なのですか」
「理解できないのはこっちだよ!」
黎夜は枕元から身を引きつつ、ベッドの端まで下がった。だが六畳一間の学生寮で逃げ場など多くない。少女は膝立ちのまま微動だにせず、ただ真っ直ぐこちらを見ている。その視線の鋭さが、冗談やいたずらの類ではないことを告げていた。
朝六時五分。人生最悪の目覚めである。
「改めて名乗ります」
少女は静かに剣を立て、胸の前に引き寄せる。その所作には妙な気品と隙のなさがあった。
「天城刃更。今日からあなたの監視を担当します」
「監視」
「はい」
「俺を?」
「はい」
「なんで?」
「機密事項です」
即答だった。
黎夜は頭を抱えたくなった。寝起きに処理するには情報が多すぎるし、そのどれもが不穏だ。監視対象という呼び方も意味不明なら、今日からという当然さも腹立たしい。
「……帰ってくれ」
「拒否します」
「頼むから帰ってくれ」
「拒否します」
「せめて剣だけでも下ろしてくれないか」
「あなたの反応次第です」
「反応次第って何だよ。怖いこと言うなよ」
天城刃更と名乗った少女は、感情の起伏がほとんど見えない表情のまま小さく首をかしげた。
「あなたが危険でないと証明されるまでは、油断しないことにしています」
「危険なのはどう見てもそっちだろ」
「そうでしょうか」
「そうだよ!」
黎夜が怒鳴ると、少女はほんのわずかだけ目を細めた。笑ったわけではない。だが何かを測るような、冷たい観察の色がその瞳に宿る。
綺麗な目だと思った。氷の色をしているくせに、芯のところだけは妙に熱い。
……いや、そんなことを考えている場合じゃない。
「そもそも、どうやって入った」
「鍵は開いていました」
「嘘つけ。寝る前に閉めた」
「窓です」
「二階だぞここ」
「問題ありません」
「あるだろ普通!」
「訓練を受けていますので」
「なんの訓練だよ」
「監視任務のです」
あまりにも真顔で返されて、逆にそれ以上追及する気力が失せた。
黎夜は深く息を吐いた。落ち着け。相手は正体不明だが、少なくとも今この瞬間に斬りかかってくる気配はない。話が通じるかどうかは怪しいが、会話自体は成立している。たぶん、まだ大丈夫だ。
たぶん。
「……で、その監視ってのは何をするんだ」
「生活全般の把握です」
「嫌な予感しかしない言い方だな」
「食事、登下校、授業間の移動、放課後の行動、夜間の所在、睡眠時間」
「おい」
「必要なら入浴」
「やめろ」
「就寝時の警戒確認も」
「やめろって言ってるだろ!」
さすがに声が裏返った。
刃更は心底不思議そうに瞬きを一つした。
「安心してください。任務です」
「安心できる要素が一つもない!」
黎夜は毛布を掴んだまま叫び、それから自分の言葉にふと引っかかった。
任務。
この少女は、ここまでを全部、本気で仕事だと思っている。
からかいでも、羞恥心のない天然でもない。彼女にとっては、他人の布団に潜り込んで寝起きを監視することすら、必要なら躊躇なく遂行すべき職務の一環なのだ。
その認識が見えた瞬間、背筋に別の意味で寒気が走った。
それはつまり、彼女がそれだけの理由をもって自分に接触してきたということでもある。
「……どこの誰に命じられた」
「答えられません」
「月蝕学園か?」
「答えられません」
「封印局か」
その瞬間だった。
刃更の瞳が、ごくわずかに揺れた。
ほんの針先ほどの変化。普通なら見逃すような微細な反応だった。だが黎夜は見逃さなかった。見逃せなかった。
空気が変わったからだ。
室内の温度が一度、すっと下がったような気がした。目の前の少女が、それまで以上に警戒の糸を張り詰める。長剣を握る指先に、目に見えない緊張が走る。
「……何者ですか、あなた」
低い声だった。
先ほどまでの事務的な抑揚とは違う。剣を向ける相手の輪郭を、初めて本気で探りにきた声音。
黎夜は小さく舌打ちした。失敗した。寝起きで頭が回っていないにしても、余計なことを口走った。
「何者って、見ての通りただの学生――」
「ただの学生がその名を知っているはずがない」
すぐに切り返される。
刃更はベッドの上で体勢を低くした。踏み込めば一瞬で間合いに入る位置。寝具の柔らかい沈み込みさえ利用するつもりだろう。
強い。
それも、たぶん本物だ。
黎夜はその事実を寝起きの脳でようやく受け止めた。整った顔立ちや制服姿に騙されそうになるが、この少女の本質はそちらではない。彼女は剣を振るうための身体をしている。見られる側の美しさではなく、斬る側の静けさを纏っている。
「答えてください、霧生黎夜」
名前を呼ばれて、黎夜は薄く眉をひそめた。
生徒手帳か何かを確認したのだろう。だが、名前を知られること自体に嫌な感覚が走る。普段なら聞き流すだけのはずの自分の名が、妙に鋭く耳に刺さった。
「あなたは、何を知っているんですか」
答えないと、まずいかもしれない。
そんな直感があった。
だが、何をどう答えればいい。封印局の名を知っている理由など、まともに説明できるはずがない。まして自分のことを語れば、余計に面倒になる。
面倒で済めばいい方だ。
「……別に。昔、聞いたことがあるだけだよ」
「誰から」
「昔の先生」
「名前は」
「忘れた」
「嘘ですね」
「寝起きで尋問するなよ」
少しでも軽口で緩めようとしたが、効果はない。刃更の視線はまっすぐだった。彼女は本気で、ここで答えを見極めようとしている。
黎夜は枕の横に落ちていたスマホをちらりと見た。まだアラーム画面のままだ。平凡な朝の続きみたいに、それが妙に滑稽に見える。
こんなふうに何かが壊れる朝を、昔にも一度だけ経験した気がした。
誰かの怒鳴り声。割れる音。黒い何か。手のひらに絡みつく冷たい鎖。
思い出そうとした瞬間、胸の奥に鈍い痛みが走る。
「っ……」
無意識に眉を寄せた黎夜を見て、刃更がさらに目を細めた。
「今の反応は何ですか」
「なんでもない」
「誤魔化さないでください」
「……お前さ」
黎夜はゆっくり息を吐いた。
逃げきれないなら、せめて距離を取りたい。だがこの手の人間は、半端に退くと逆に詰めてくる。なら少しだけ、こちらも腹を括るしかない。
「朝っぱらから人の部屋に侵入して剣まで抜いてるくせに、ずいぶん一方的だな」
「必要な措置です」
「俺がお前に何かしたか?」
「これからする可能性があります」
「未来予知かよ」
「危険性評価です」
冷たい答え。だが黎夜は、その言葉の奥にある硬さを感じ取っていた。
この少女は怖がっている。
表に出していないだけで、明確に。
自分を前にして。
「……俺は何もしない」
「信用に足る根拠がありません」
「じゃあ、お前は俺を斬るのか」
その問いに、刃更はほんの一拍だけ沈黙した。
「必要なら」
迷いのない返答だった。
だが無慈悲というより、そうすると決めている人間の重さがあった。
黎夜は苦笑した。
「そうかよ」
「笑うところではありません」
「いや。なんていうか、徹底してるなと思って」
「当然です」
「……じゃあ、一つだけ約束しろ」
「内容によります」
「学校で余計な騒ぎは起こすな。俺は目立ちたくない」
「監視対象の都合より任務が優先です」
「だろうな」
そうだろうと思った。だが、言わずにいられなかった。
面倒事は嫌いだ。騒がしいのも苦手だ。平穏に、静かに、できれば何も知らず何も起きずに毎日を過ごしたい。
そのはずだったのに。
目の前の白銀の少女は、それを今日一日で粉々にしそうな顔をしている。
「……分かった。とりあえず、剣をしまってくれ。話はそれからだ」
刃更は数秒だけ黎夜を見つめ、それから静かに剣を引いた。刀身が鞘に収まる澄んだ音が、狭い部屋に小さく響く。
黎夜はそこで初めて、少しだけ肺に空気が戻るのを感じた。
「では、改めて行動予定を確認します」
「もう始まってるのかよ、その監視」
「すでに開始しています」
「最悪だ……」
「六時二十分。起床後の洗面、着替え、朝食、通学。必要に応じて同行します」
「必要に応じなくていい」
「必要です」
「お前さっきから会話の余地ゼロだな」
「効率を重視しています」
「人間関係の効率が悪すぎる」
黎夜がベッドから足を下ろすと、刃更も当然のようについてこようとする。
「待て待て待て。洗面所まで来る気か?」
「監視ですので」
「俺に人権はないのか」
「あります」
「今の流れでそれ言えるのすごいな」
呆れ半分で言うと、刃更はそこで初めてほんの少しだけ表情を崩した。笑ったわけではない。だが、氷の面にかすかな波紋が広がるみたいに、彼女の無表情が人間らしく揺れた。
「勘違いしないでください」
「何を」
「あなたを見張るのは、あなたを害するためだけではありません」
黎夜は顔を上げた。
刃更は窓から差し込む朝日を背にして立っている。白銀の髪が淡く光って、その輪郭がやけに鮮やかに見えた。
「場合によっては、守るのも任務です」
その言葉に、なぜだか一瞬だけ胸がざわついた。
おかしい。会ってまだ十分も経っていない相手だ。信用できる要素なんてどこにもない。むしろ危険人物としか言いようがない。
なのに、その声には妙な真実味があった。
――守る。
その響きだけが、妙に耳に残る。
「……へえ」
黎夜はそれ以上の感想を押し込め、ベッド脇に放ってあった制服のシャツを拾った。
「じゃあまず、着替えるから外に出ろ」
「ここで見ています」
「なんでだよ!」
「監視です」
「その便利な言葉いい加減やめろ!」
思わず枕を投げる。刃更は片手でそれを受け止め、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「暴力は記録します」
「記録しなくていい!」
「監視対象、朝から荒れています」
「お前のせいだよ!」
狭い部屋に響くやり取りの中で、黎夜は思う。
ああ、終わった。
自分の静かな朝は、たぶん、もう戻らない。
白銀の監視者を前にして、そんな確信だけがやけにはっきりと胸に落ちた。
そして同時に、もっと厄介な直感もあった。
この少女が現れたのは、ただの始まりに過ぎない。
まだ何も起きていないはずなのに、遠く、見えないどこかで歯車が回り始めている。そんな気配が、朝の空気の奥に混じっていた。
黎夜は窓の外へ視線を向ける。
春の青空は、何も知らない顔で静かに広がっていた。
その平穏を、いつまで平穏だと思っていられるのか。
答えを知る者は、たぶんこの部屋にもう二人いた。
一人は、白銀の髪を持つ剣の少女。
そしてもう一人は――たぶん、自分自身だ。




