第36話 戻る席と、窓の外の観測者
教室の扉を開けた瞬間、少しだけ空気が変わった。
大げさなものではない。
何人かの視線がこちらへ向き、すぐに黒板や友達との会話へ戻っていく。その程度だ。けれど黎夜には、そのわずかな視線の動きが前よりはっきり分かった。
前は、たぶん気づかないふりをしていた。
教室にいても、半分だけ逃げていた。
でも今は違う。
ここに戻ること自体が、ひとつの意味を持っている。
「霧生くん、プリント大丈夫だった?」
席へ戻ると、宮野が小声で聞いてきた。
「ああ。助かった」
「よかった。先生、次の授業で使うって言ってたから」
「危なかったな」
「うん。あ、でも遅れた理由は聞かれないと思う。綾辻先輩が先生に何か言ってたみたい」
「……先輩、抜け目ないな」
黎夜が呟くと、前の席の真昼が振り返った。
「詩乃先輩、こういうところ妙に頼れるよね」
「妙に、じゃなくて普通に頼れるんだろ」
「でも、ときどき言い方が怖い」
「それは否定しない」
隣の刃更がノートを開きながら、静かに言う。
「詩乃先輩は合理的です」
「天城が言うと、褒めてるのか同類認定なのか分からないな」
「褒めています」
「同類認定も入ってるだろ」
「少し」
「入ってるんだ」
真昼がくすっと笑う。
その笑いが、教室の中で普通に聞こえる。
黎夜はそれだけで、ほんの少し息がしやすくなった。
三声帰還結界。
名前だけ聞けば大仰で、術式としてはかなり重要なものらしい。
けれど、その中身は三つの言葉だった。
焦げた卵焼き。
白雪。
余白。
世界を救うには頼りなさすぎる言葉ばかりだ。
でも、黎夜を玉座から引き戻すには、たぶんそれくらいでいい。
「霧生」
教師の声で、黎夜は顔を上げた。
「プリント、全員に回してくれ」
「はい」
宮野から受け取った束を前後の列へ分けて回す。
たったそれだけの作業だ。
だが、指先に紙の感触がある。後ろの席の男子が「サンキュ」と言う。前の真昼が無言で一枚受け取る。刃更がきっちり角をそろえて机に置く。
その全部が、教室に戻ってきたという証拠のように感じられた。
授業が始まる。
内容は正直、半分くらいしか頭に入らなかった。
黒板の文字を追いながらも、どうしても別のことを考えてしまう。第三鍵。ゼクス。ルクレツィア。最深部の玉座。そして、三人の声。
それでも、ノートは取った。
隣の刃更ほど綺麗ではない。真昼ほど色分けもしていない。だが、自分の手で文字を書いた。
そこにいるための、地味な作業。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴った時、黎夜は少しだけ肩を回した。
「疲れた?」
真昼がすぐに聞いてくる。
「授業で疲れるの、久しぶりだ」
「いいことなの?」
「たぶん」
「じゃあ、いいことにしとこ」
真昼はそう言って、自分のノートを閉じた。
刃更は端末を確認し、小さく頷く。
「授業中の黒鎖反応は安定。三声帰還結界の残留効果も確認されています」
「教室でそれを報告されると、やっぱり変な感じだな」
「小声です」
「内容が小声向きじゃないんだよ」
「では後ほど報告します」
「いや、そこまで真面目に受け取らなくていい」
真昼が机に頬杖をつく。
「でも、安定してたならよかったじゃん」
「まあな」
「ほら、普通の授業も効くんだよ」
「効くって何に」
「玉座対策?」
「授業が玉座対策になる日が来るとはな」
黎夜が苦笑すると、宮野が後ろから顔を出した。
「何の話?」
三人が一瞬だけ止まる。
こういう時、普通側の人間は鋭い。
黎夜は考えるより先に、口から出た言葉でごまかした。
「授業が眠気対策にならないって話」
「それは普通に寝不足じゃない?」
「正論だな」
「霧生くん、最近ほんと顔色悪い時あるし、ちゃんと寝た方がいいよ」
宮野は何気なくそう言った。
その横で、真昼と刃更が同時に頷く。
「ほら」
「ほらって何だよ」
「第三者意見」
「一般生徒からも睡眠を推奨されています」
「刃更、それ報告書に書くなよ」
「参考情報としては有効です」
「書く気だな」
宮野が不思議そうに首を傾げる。
「天城さんって、真面目だよね」
「かなり」
真昼が即答した。
「でも最近、ちょっと面白いよ」
「柊真昼」
刃更が少しだけ眉を寄せる。
「何?」
「面白い、の定義を確認したいです」
「そういうところ」
宮野が笑った。
刃更は納得していなさそうだったが、それ以上は言わなかった。
こういう会話が、思ったより自然に流れていく。
宮野が知らないまま輪の端に触れて、また普通に戻っていく。そのたびに、黎夜の中で教室と自分を結ぶ糸が一本ずつ増える気がした。
放課後。
今日は大きな訓練はしない、と詩乃から連絡が来た。
『結界定着のため、今日は通常行動を優先してくださいまし。私は余白を取ります』
その文面を見て、黎夜は少し笑った。
「詩乃先輩、ちゃんと休む気らしい」
「余白って書いてある?」
真昼が覗き込む。
「ああ」
「よし。合言葉が効いてる」
刃更も端末を見て頷く。
「今日は特級編纂室への集合なし。寮まで通常下校。ただし寄り道は――」
「プリン?」
真昼が期待を込めて言う。
刃更は少し考えた。
「今日は購買ではなく、校内カフェなら許可できます」
「範囲が広がった」
「人目があり、出入り口が多く、監視しやすいので」
「理由は物騒だけど、行けるならよし」
真昼はすぐに黎夜を見る。
「行くよね?」
「まあ、行くか」
「天城さんも」
「同行します」
「食べる?」
「……状況次第で」
「そこは素直に食べたいって言っていいんだよ」
「食べたいです」
あまりに素直だったので、真昼が一瞬止まった。
「……今の、すごくよかった」
「何がですか」
「白雪効果かも」
「関係ありません」
刃更は少しだけ視線を逸らした。
その仕草が以前より分かりやすく見えて、黎夜はつい笑った。
校内カフェは、放課後の生徒たちでほどほどに賑わっていた。
勉強する者、部活前に軽食を取る者、ただ喋っているだけの者。
真昼は迷わず季節限定のミルクプリンを選び、刃更はなぜか真剣な顔でメニューを見ていた。
「迷ってるのか」
黎夜が聞くと、刃更は小さく頷く。
「プリンとチーズケーキで迷っています」
「平和な悩みだな」
「重要です」
「そうだな」
真昼がにやにやする。
「両方食べれば?」
「糖分摂取量が」
「昨日は管理する側だったのに」
「自分に適用すると難しいです」
「分かってるじゃん」
結局、刃更はプリンを選んだ。
黎夜はコーヒーだけにしようとして、真昼に「食べなさい」と言われ、シフォンケーキを追加した。
「俺の食生活への介入が強い」
「安定のためです」
「真昼までその言い方になってきたな」
「便利なんだよね」
席に着く。
窓際のテーブル。
夕方の光が差し込み、テーブルの表面を薄い金色に染めている。
真昼がプリンを一口食べ、満足そうに目を細める。
刃更も一口食べる。
「……おいしいです」
「天城さん、それ毎回言うよね」
「おいしいので」
「かわいい」
「柊真昼」
「はい、すみません」
刃更は少しだけ困ったように視線を落とした。
その様子を見ていた黎夜は、ふと自分の右腕の奥が穏やかなことに気づいた。
黒鎖は眠っている。
カフェのざわめき。
真昼の声。
刃更の静かな反応。
甘い匂い。
そういうものが、鎖を遠ざけてくれている。
「……日常って、効くんだな」
思わず呟くと、真昼が顔を上げた。
「急にどうしたの」
「いや、黒鎖が静かだと思って」
刃更がすぐに端末を確認する。
「確かに反応は低いです」
「カフェ効果?」
真昼が言う。
「あるかもしれません」
「本当に?」
「人目のある場所、落ち着いた会話、適度な糖分摂取。安定要素としては揃っています」
「すごい。カフェが封印術みたいになってる」
黎夜はコーヒーを飲みながら苦笑した。
「そのうち詩乃先輩が術式名つけそうだな」
「《喫茶安定結界》とか?」
「ありそう」
そんな話をしていた時だった。
窓の外を、人影が横切った。
銀色の髪。
深紅と黒のコート。
黎夜の手が止まる。
ルクレツィアだった。
彼女はカフェの外、校舎裏へ続く通路の向こうに立っていた。
遠い。
だが、こちらを見ている。
刃更が即座に気づき、椅子を引いた。
「動かないでください」
「もう遅い。向こうも気づいてる」
「気づかせているのです」
刃更の声は硬い。
真昼も窓の外を見る。
「……あの人」
以前、校門前に現れた銀髪の少女。
味方ではない。
敵とも言い切れない。
ただ、厄介なほど多くを知っている存在。
ルクレツィアは窓越しに黎夜を見て、ゆっくり唇を動かした。
声は聞こえない。
でも、何を言ったのか分かった。
――三つの声を、信じすぎないで。
黎夜の胸が冷える。
その直後、ルクレツィアは踵を返した。
夕方の影に溶けるように、姿が薄れていく。
「追います」
刃更が立ち上がる。
だが黎夜は首を振った。
「待て」
「なぜ」
「今追ったら、こっちを分断される」
自分で言って、少し驚いた。
以前なら反射で追っていたかもしれない。
だが今は違う。
真昼がいる。
刃更がいる。
詩乃は休んでいる。
三声帰還結界ができた直後だ。
敵か味方か分からない相手に、こちらの形を崩されるわけにはいかない。
刃更は数秒だけ黎夜を見た。
「……判断としては妥当です」
「珍しく褒められた」
「褒めてはいません。評価です」
「はいはい」
真昼が不安そうに言う。
「今、何て言ってたの?」
黎夜は迷った。
言えば不安にさせる。
だが隠せば、また同じことになる。
「三つの声を信じすぎるな、って」
真昼の表情が曇る。
「それ、私たちのこと?」
「たぶん」
刃更が静かに言う。
「揺さぶりの可能性があります」
「でも、あの人の警告って、今までも完全な嘘じゃなかったんでしょ」
「……はい」
そこが厄介だった。
ルクレツィアは嘘だけを言うわけではない。
むしろ、重要なことを断片的に言って消える。
だから困る。
真昼はしばらく黙っていたが、やがてプリンの残りを一口食べた。
「じゃあ、信じすぎないけど、信じなさすぎもしない」
「難しいな」
「でも、それくらいがいいんじゃない?」
真昼は匙を置いた。
「私は私の声で戻す。天城さんは天城さんの剣で止める。詩乃先輩は詩乃先輩の言葉で引く。でも、全部をそれだけにしない。黎夜も自分で戻る」
刃更が少しだけ目を細めた。
「……適切だと思います」
「本当?」
「はい」
真昼は少しだけ嬉しそうに笑った。
黎夜は窓の外を見る。
もうルクレツィアの姿はない。
夕方の通路には、ただ長い影が伸びているだけだった。
三つの声を信じすぎるな。
その言葉は刺さった。
けれど、真昼の言う通りだ。
信じすぎず、疑いすぎず。
そして最後は、自分で戻る。
黎夜は右手を握った。
黒鎖は、まだ静かだった。




