第37話 信じすぎないための約束
校内カフェを出たあと、三人はしばらく無言だった。
夕方の廊下には、部活へ向かう生徒たちの足音が流れている。誰かが笑い、誰かが鞄を肩にかけ直し、誰かが「また明日」と言って階段を駆け下りていく。
何も知らない日常の音。
けれど、さっき窓の外に立っていた銀髪の少女の言葉が、黎夜の耳にはまだ残っていた。
三つの声を、信じすぎないで。
ルクレツィアの言葉はいつも嫌なところに刺さる。
嘘だけなら楽だった。
全部、敵の揺さぶりだと切り捨てられる。
けれど彼女は、嘘とは言い切れないことばかりを言う。玉座に座るな。鎖の音を聞き間違えるな。そして今度は、三声帰還結界を信じすぎるな。
信じすぎるな、という言葉自体は正しい。
だが、そう言われた瞬間に三人の声を疑いたくなることもまた、敵の狙いなのかもしれない。
「面倒くさいな……」
黎夜が小さく呟くと、真昼が横から覗き込んできた。
「何が?」
「考えれば考えるほど、どっちも罠に見えてくる」
「それは分かる」
真昼は珍しく軽口を挟まずに頷いた。
「信じすぎるなって言われると、じゃあ疑えばいいのかってなるけど、疑いすぎたらそれも危ないよね」
「ああ」
「でもさ」
真昼は少し考えてから言った。
「信じるのと、丸投げするのって違うんじゃない?」
黎夜は足を止めた。
「丸投げ?」
「うん。三声帰還結界があるから大丈夫、って全部それ任せにするのは駄目。でも、焦げた卵焼きって言ったら戻るきっかけにはなる。そんな感じ」
真昼は自分で言いながら、少し照れたように視線を逸らす。
「……何か、私が焦げた卵焼きって真面目に言うの、まだ変だけど」
「変なのは最初からだろ」
「黎夜が採用したんだから共犯」
「言い出したのはお前だ」
「採用したのは黎夜」
「責任を半分押しつけてきたな」
「幼馴染だから」
便利な言葉である。
刃更は二人のやり取りを聞きながら、静かに言った。
「柊真昼の解釈は妥当です」
「妥当いただきました」
「結界は絶対防御ではなく、復帰補助です。最終的に戻る判断をするのは霧生黎夜本人でなければならない」
刃更の声は淡々としていた。
だが、そこには昨日までより少し柔らかい芯がある。
「それができなければ、結界ごと利用される可能性があります」
「……やっぱり、そこだよな」
黎夜は右手を見た。
黒鎖は出ていない。
けれど、そこにある感覚はある。
自分の中にいる、冷たいもの。
それは怖い。
だが、怖いからといって三人の声だけに頼り切れば、今度はその声が奪われた時に終わる。
「自分で戻る、か」
呟くと、真昼がうなずいた。
「そう。私たちは呼ぶ。天城さんは止める。詩乃先輩は言葉で道を作る。でも最後は、黎夜が戻る」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないのは分かってるよ」
真昼は少しだけ口を尖らせた。
「でも、言わないと始まらないでしょ」
それは、真昼らしい正論だった。
北棟へ戻ると、詩乃は本当に休んでいた。
正確には、研究室のソファに横になり、薄い毛布をかけたまま端末を握っていた。
「……それは休んでるんですか」
黎夜が言うと、詩乃は目だけをこちらへ向けた。
「休んでいますわ」
「端末持ってる」
「寝落ちする直前まで確認していただけです」
「休んでないやつだ」
真昼がすぐに近づき、詩乃の手から端末を抜き取った。
「あら」
「あら、じゃないです。余白、ですよね?」
真昼がそう言うと、詩乃は少しだけ目を瞬かせた。
それから、観念したように笑う。
「……効きますわね、それ」
「合言葉なので」
「使い方が上手です」
「ありがとうございます」
真昼は端末を机の上に置き、毛布を少し直した。
詩乃は抵抗しなかった。
刃更が三声帰還結界の簡易記録を確認しながら言う。
「ルクレツィアが現れました」
詩乃の目が細くなる。
「やはり」
「校内カフェの外から接触。直接会話はなし。口の動きで伝言」
「内容は?」
黎夜は答えた。
「三つの声を、信じすぎないで」
詩乃は少しだけ黙った。
毛布をかけられたまま、天井近くの銀輪を見上げる。
「……嫌なところを突きますわね」
「揺さぶりでしょうか」
刃更が問う。
「揺さぶりです。でも、それだけではありません」
詩乃はゆっくり起き上がろうとして、真昼に肩を押さえられた。
「寝たままで」
「……はい」
詩乃が素直に従ったので、黎夜と刃更が少し驚いた。
真昼の言うことが、思った以上に効いている。
「結界はまだ仮組みです。敵が解析すれば、三つの声を模倣する可能性がありますわ」
「模倣?」
黎夜の胸が嫌な音を立てた。
「真昼の声や、天城の声や、先輩の声を真似るってことですか」
「ええ。すでに夢の中で柊さんを真似た偽物が出ています。私の声も使われかけた。今後は三声結界そのものを逆手に取る可能性があります」
真昼が眉を寄せる。
「つまり、合言葉も真似されるかもしれない?」
「完全な再現は難しいでしょう。合言葉は記憶や本人の意思に結びついていますから。ただ、表面だけ真似ることはあり得ます」
「焦げた卵焼きって偽物が言うの、なんか嫌すぎる」
「俺も嫌だ」
黎夜は本気でそう思った。
あの言葉まで敵に使われたら、怒りより先に気持ち悪さが来る。
「だから、信じすぎるな、か」
黎夜は息を吐いた。
「声が聞こえても、それだけで本物だと思うなってことですね」
「そうですわ」
詩乃は頷いた。
「三声帰還結界は、あなたを戻すための補助。けれど、あなた自身の判断を代替するものではありません」
刃更が続ける。
「合言葉が聞こえた時、それが本物かどうかを確認する必要があります」
「でも、夢とか戦闘中にそんな余裕あるか?」
「その余裕を作るための訓練が必要です」
「また訓練が増えた」
真昼が苦笑する。
「封印王訓練メニュー、どんどん増えるね」
「全然嬉しくない」
「でも、今日のは大事だと思う」
真昼は研究室の机に置かれた三枚の札を見た。
「私たちの声を信じてほしい。でも、何でもかんでも信じてほしいわけじゃない。変な偽物に騙されるのは嫌」
「難しい注文だな」
「幼馴染だから」
「それで全部通す気だな」
「通す」
真昼は即答した。
その強さに、少しだけ笑ってしまう。
詩乃が毛布の中から右手を上げた。
「では、追加しましょう」
「何をですか」
「四つ目の条件です」
黎夜は嫌な予感がした。
「また物騒なやつですか」
「いいえ。今回は単純です」
詩乃は黎夜を見る。
「三つの声を聞いた時、最後にあなた自身が言う言葉を決めるのです」
「俺自身の?」
「ええ。真昼さんの焦げた卵焼き、天城さんの白雪、私の余白。それらを聞いたあと、あなたが自分で戻るための言葉」
真昼が「あ」と小さく声を上げた。
「いいかも」
刃更も頷く。
「有効です。外部からの帰還補助に対して、本人の最終承認を加える形になります」
「承認って言うと急にシステムっぽいな」
「では、返事」
真昼が言い直す。
「私たちが呼んで、黎夜が返事する」
その言い方は、分かりやすかった。
呼ばれたら返す。
たったそれだけ。
だが、玉座に引かれている時にそれができるかどうかは、たぶん大きい。
「何て言えばいい?」
黎夜が聞くと、三人が同時にこちらを見た。
真昼が言う。
「それは自分で考えるところ」
「やっぱりか」
「うん」
刃更も頷く。
「あなた自身の言葉でなければ意味がありません」
詩乃は少し楽しそうに言った。
「今度こそ主人公らしい決め台詞の出番ですわね」
「その圧やめてください」
とはいえ、考える必要はあった。
格好いい言葉。
強い言葉。
封印王らしい言葉。
いくつか浮かんでは消えた。
どれも違う。
自分は王になりたいわけではない。
玉座に座りたいわけでもない。
ただ、戻りたい。
教室へ。
真昼の隣へ。
刃更の監視の届く場所へ。
詩乃が冗談を言う研究室へ。
宮野が普通にプリントを届けてくれる日常へ。
だから。
「……俺は帰る」
口にした瞬間、自分でも少し驚いた。
飾り気がない。
決め台詞というには地味すぎる。
でも、それしかなかった。
「俺は帰る。これでいい」
真昼はじっとこちらを見て、それから笑った。
「黎夜っぽい」
「地味ってことか」
「違う。ちゃんと帰ってくるって感じ」
刃更が静かに言う。
「良いと思います」
「お前がそう言うと、少し安心する」
「事実です」
詩乃も頷いた。
「決まりですわね。三声のあと、黎夜くん自身の応答は“俺は帰る”。これを最終アンカーにします」
銀輪がゆっくり鳴った。
研究室の術式板に、黒い点と三つの光が浮かぶ。
その中央に、新しい文字列が刻まれた。
――俺は帰る。
自分の言葉が術式になるのは、少し変な気分だった。
だが、嫌ではなかった。
「試しますか?」
刃更が問う。
詩乃は少し考え、首を横に振った。
「今日はやめておきましょう。私が休む必要がありますし、黎夜くんも刺激を受けすぎています」
「先輩が自分から休むって言った」
真昼が驚く。
「余白です」
詩乃は少し誇らしげに言った。
「成長してる」
「あなたは私の何ですの?」
「日常安定補助です」
「強い肩書きですわね」
研究室に小さな笑いが起きた。
その時だった。
机の上に置かれていた黎夜のスマホが震えた。
画面を見る。
差出人不明。
本文は一行だけ。
『帰る場所がある者ほど、玉座はよく似合う』
笑いが消えた。
真昼がすぐに表情を硬くする。
刃更は剣に手を伸ばす。
詩乃が毛布を跳ねのけそうになり、真昼に肩を押さえられる。
「詩乃先輩は座ってて」
「……はい」
黎夜はスマホの画面を見つめた。
怒りはある。
怖さもある。
でも、黒鎖は出ない。
三つの声と、自分の言葉が、まだ胸の中に残っているからだ。
「……煽ってくるな」
黎夜が言うと、真昼が横から画面を見て顔をしかめた。
「性格悪い」
「同感です」
刃更も低く言った。
詩乃は端末を操作する。
「発信源は偽装されていますわ。追跡は難しい」
「ゼクスか」
「可能性は高いです。ただ、ルクレツィアの可能性もゼロではありません」
「どっちにしても面倒だな」
黎夜はスマホを伏せた。
そして、ゆっくり息を吐く。
「でも、今は行かない」
三人がこちらを見る。
「帰る場所があるなら、なおさら帰る。玉座に座る理由にはならない」
その言葉に、真昼が少しだけ笑った。
「うん」
刃更が頷く。
「安定しています」
詩乃も静かに言った。
「今の反応、記録しておきたいくらいですわ」
「休むんじゃなかったんですか」
「心の中で記録しました」
「それならいいです」
窓の外は、もう夕暮れだった。
今日もいろいろあった。
結界を作り、ルクレツィアの警告を受け、詩乃の接触を退け、新しい言葉を決め、また敵から煽られた。
それでも、まだここにいる。
玉座ではなく、研究室に。
階段ではなく、戻る場所の近くに。
黎夜は右手を開き、閉じた。
黒鎖は沈んでいる。
静かだった。
「……帰るか」
黎夜が言うと、真昼がうなずいた。
「うん。帰ろ」
刃更が立ち上がる。
「寮まで同行します」
詩乃は毛布に戻りながら手を振った。
「私は余白を取りますわ」
「ちゃんと寝てくださいね」
「ええ。今度こそ」
研究室を出る前に、黎夜はもう一度だけ術式板を見た。
そこには、四つの言葉が残っている。
焦げた卵焼き。
白雪。
余白。
俺は帰る。
ばらばらで、頼りなくて、でも確かに自分を繋ぎ止める言葉たち。
黎夜はそれを胸に刻んで、夕暮れの廊下へ足を踏み出した。




