第34話 詠姫の言葉は奪わせない
午前の教室は、思ったより静かだった。
いや、正確にはいつも通りだった。前の席では真昼が教科書を開き、隣では刃更が姿勢よくノートを取っている。窓の外では体育の授業らしい掛け声が遠く聞こえ、黒板には教師の書く文字が淡々と増えていく。
ただ、黎夜だけが少し落ち着かなかった。
真昼の合言葉。
焦げた卵焼き。
刃更の合言葉。
白雪。
どちらも、ただの言葉ではなくなった。
第三鍵に対抗するための、戻るための足場。そう考えると、何気ない日常の言葉まで妙に重く感じてしまう。
「霧生」
教師に呼ばれ、黎夜は顔を上げた。
「この段落、読んでくれるか」
「……はい」
立ち上がって教科書を開く。
声に出して読む。
たったそれだけのことなのに、少し緊張した。
自分の声が教室に響く。
誰も特別な反応はしない。宮野は普通に教科書を見ているし、真昼は前の席で少しだけこちらに意識を向けている。刃更は隣で、本文と黎夜の状態を同時に観測しているような目をしていた。
読み終えて座ると、真昼が小さく振り向いた。
「普通だったよ」
「音読の感想として、それでいいのか」
「今は一番大事でしょ」
「……まあな」
そう言われると、少しだけ肩の力が抜けた。
刃更が小声で言う。
「呼吸も安定していました」
「音読まで観測するな」
「授業中の発声も日常安定指標になります」
「本当に何でも記録になるな、俺」
「必要です」
「はいはい」
そんなやり取りをしているうちに、昼休みになった。
真昼は予定通り午前だけで早退することになっていた。昨夜の夢層接触の反動があるからだ。本人は不満そうだったが、眠そうに目をこすっていたので反論の説得力は薄かった。
「ちゃんと休めよ」
廊下で黎夜が言うと、真昼は鞄を肩にかけ直した。
「黎夜にだけは言われたくない」
「今日それ何回目だよ」
「何回でも言う」
真昼はそう返してから、少し真面目な顔になった。
「詩乃先輩のところ寄ってから休む。札の調整あるし」
「一人で行くのか」
「天城さんが送ってくれるって」
刃更が頷く。
「仮眠室まで同行します。その後、私は教室へ戻ります」
「お前も休めって言われてただろ」
「昼休み中に十五分休息を取ります」
「短い」
「昨日より改善しています」
「そういう問題じゃない」
真昼がじっと刃更を見る。
「今日、白雪って言う準備してるからね」
刃更は少しだけ目を伏せた。
「……必要な時だけにしてください」
「必要だと思ったら言う」
「分かりました」
そのやり取りを聞いて、黎夜は少し笑った。
真昼が刃更に遠慮なく踏み込めるようになっている。刃更もそれを完全には拒まない。昨日までとは少し違う関係だ。
それは、悪くなかった。
二人を見送り、黎夜はひとりで教室へ戻ろうとした。
その時だった。
スマホが震えた。
詩乃からだった。
『研究室へ。ひとりで来てくださいまし』
短い文面。
嫌な予感しかしなかった。
黎夜はすぐに返信する。
『ひとりは駄目じゃないですか』
すぐ既読がつく。
『だから呼んでいます。急いで』
普段の詩乃なら、もっと余裕のある言い回しをする。
それがない。
黎夜は舌打ちを飲み込み、北棟へ向かった。
廊下を進むほど、空気が静かになる。
昼休みのざわめきが遠ざかり、北棟特有の冷えた空気が肌に触れる。研究室の扉の前まで来ると、中から銀輪の鳴る音が聞こえた。
ちりん、ちりん、と。
いつもより速い。
「先輩」
扉を開ける。
研究室の中央に、詩乃が立っていた。
いつものように整った姿。
けれど顔色が悪い。
机の上には、三枚の銀札が並んでいる。真昼の札は淡く赤を残し、刃更の札は白い光を帯びていた。そして詩乃自身の札だけが、玻璃色の光を失い、黒い文字のようなものを表面に滲ませている。
「……先輩の番ですか」
黎夜が言うと、詩乃は小さく笑った。
「順番通り、というのは分かりやすくて嫌ですわね」
「何で黙ってたんですか」
「黙っていたわけではありません。今、確定したのです」
「本当ですか」
「半分は」
「残り半分」
「あなたと天城さんと柊さんを休ませたかった」
黎夜は返す言葉を失った。
詩乃はいつもの調子で言っているが、指先がわずかに震えている。
それを隠すように、彼女は札へ手をかざした。
「第三鍵は、私にも触れています。ただ、柊さんや天城さんとは違う。感情層でも、役割認識でもありません」
「じゃあ何を」
「言葉です」
その答えは、詩乃らしくて、だからこそ重かった。
「私の詠唱、術式構文、定義力。敵はそこを奪おうとしている」
「奪う?」
「ええ。私の声で、あなたを玉座へ誘導する術式を組もうとしているのでしょう」
黎夜の右腕が冷える。
「先輩の声で?」
「あなた、私の声には反応しますもの」
「それは……」
「戦闘中、何度も私の詠唱を聞いています。危険を切り抜ける時、私の声は術式と結びついていた。敵がそこを利用しようとするのは自然ですわ」
淡々とした分析。
それが逆に腹立たしかった。
「自然とか言わないでください」
「あら」
「先輩の声は、敵の道具じゃないでしょう」
言った瞬間、詩乃が少し目を見開いた。
それから、困ったように微笑む。
「……先に言われてしまいましたわね」
「何を」
「私が言うべき台詞です」
詩乃は自分の札を指先で押さえた。
黒い文字が、薄く広がる。
研究室の銀輪が不安定に鳴った。
「これから接触を開きます。私が変なことを言ったら、否定してください」
「変なこと?」
「たとえば、降りなさい、とか。玉座へ向かいなさい、とか」
「絶対嫌です」
「ええ。私も嫌ですわ」
詩乃は一度、深く息を吸った。
「それと、私の合言葉も決めておきます」
「今ですか」
「今です。先延ばしは悪手ですもの」
黎夜は頷いた。
「何にします?」
詩乃は少し考えた。
真昼のように即答ではない。刃更のように静かな記憶を探る顔でもない。詩乃は自分の内側にある言葉を、慎重に選んでいるようだった。
「……余白」
「余白?」
「ええ」
詩乃は薄く笑った。
「私は昔から、言葉を詰め込みすぎる癖がありましたの。祖母に言われました。上手な文章ほど、余白がある。人の心にも、術式にも、逃げ場となる余白が必要だと」
「詩乃先輩っぽいですね」
「そうでしょう?」
少し得意げだった。
その表情がいつもの詩乃に近くて、黎夜はほっとした。
「合言葉は余白。分かりました」
「では、始めます」
詩乃が札へ触れた。
黒い文字が一気に広がる。
研究室の景色が歪んだ。
黎夜の耳に、詩乃の声が響く。
「――霧生くん」
目の前の詩乃は口を開いていない。
だが声だけが聞こえる。
柔らかく、落ち着いていて、いつも通りの声。
「こちらへ来なさい」
研究室の床が消え、石の階段が現れる。
その先に、詩乃が立っていた。
黒髪を揺らし、微笑んでいる。
「怖がらなくていいのですわ。玉座はあなたを完成させる場所。あなたが苦しまずに済む場所です」
「違う」
黎夜は即座に言った。
偽物の詩乃は微笑みを崩さない。
「違いません。言葉は定義です。私がそう定義すれば、そこは救いになる」
「詩乃先輩は、そんな雑な定義をしない」
偽物の目が少しだけ細くなった。
「どうして分かるのです?」
「先輩は、都合よく言葉を使わない」
「使いますわよ。私は術者ですもの」
「違う。使うけど、奪わせない」
黎夜は右手を握った。
黒鎖は出さない。
今必要なのは鎖ではなく、言葉だ。
「先輩の合言葉は?」
偽物の詩乃が沈黙した。
「どうしました? 答えられないんですか」
黎夜は一歩前へ出る。
「余白」
その声は、現実の研究室から聞こえた。
本物の詩乃の声だった。
「私の言葉には、私の余白があります。あなたたちに埋めさせるためではありませんわ」
偽物の詩乃が崩れる。
黒い文字の塊になって、階段へ落ちていく。
だが最後に、それは笑った。
「なら、次はその余白から入りましょう」
視界が戻った。
研究室。
銀輪。
机。
そして、札に手を置いたまま膝をつきかける詩乃。
「先輩!」
黎夜が駆け寄り、倒れかけた彼女の肩を支えた。
思ったより軽い。
いつも余裕に見える人なのに、今は呼吸が乱れていた。
「……大丈夫ですわ」
「それ、最近信用できない言葉の上位です」
「なら、少し大丈夫ではありません」
「素直でよろしい」
黎夜がそう言うと、詩乃はかすかに笑った。
「口調が柊さんに似てきましたわね」
「日常安定補助の影響ですかね」
「良い影響です」
詩乃の札を見ると、黒い文字は薄れていた。
代わりに、玻璃色の光が戻っている。
「接触は?」
「失敗ですわ。敵の術式は切れました」
「勝ちですね」
「小さな一勝、ですわね」
詩乃はそう言って、ゆっくり立ち上がろうとした。
「座ってください」
「研究室の主が床に座るのは」
「椅子に」
「……分かりました」
珍しく素直だった。
黎夜は椅子を引き、詩乃を座らせる。
その時、研究室の扉が勢いよく開いた。
「先輩!」
刃更だった。
後ろには真昼もいる。
どうやら異常通知が飛んだらしい。真昼は少し息を切らしていて、刃更は完全に戦闘態勢だった。
「大丈夫ですか」
刃更が詩乃を見る。
「少し大丈夫ではありません」
「……詩乃先輩がそう言う時は、かなり危険です」
「学習しましたわね」
真昼が駆け寄る。
「合言葉、効きました?」
「ええ。余白です」
「詩乃先輩っぽい」
「でしょう?」
詩乃は少しだけ誇らしげに微笑んだ。
刃更が札の状態を確認する。
「三名とも接触を退けました」
「ええ」
詩乃の声は疲れていたが、芯は残っていた。
「第三鍵は、まだ確定していません。むしろ、私たちの拒絶で敵の構造が乱れています」
「じゃあ、このまま押し返せる?」
真昼が聞く。
「可能性はあります」
詩乃は端末を操作した。
空中に三枚の札の反応図が表示される。
真昼の赤。
刃更の白。
詩乃の玻璃色。
三つの光が、黎夜を示す黒い点の周囲で輪を作っていた。
「鍵にされるのではなく、こちらから結界に転用します」
「そんなことできるんですか」
黎夜が聞くと、詩乃はふっと笑った。
「私の言葉を奪おうとしたのですもの。代償は払っていただきますわ」
「怖い笑顔ですね」
「褒め言葉です」
真昼が小さく拳を握る。
「じゃあ、私たち三人で黎夜を囲う?」
「言い方は少し物騒ですが、概ねそうです」
刃更が頷く。
「敵が三人を鍵にする前に、三人で彼をこちら側へ繋ぐ」
詩乃が言う。
「名称は――そうですわね」
「変な術式名にしないでくださいよ」
黎夜が釘を刺す。
詩乃は楽しそうに目を細めた。
「《三声帰還結界》」
静かな名だった。
真昼が頷く。
「いいと思います」
刃更も短く言った。
「悪くありません」
黎夜は三人を見た。
焦げた卵焼き。
白雪。
余白。
ばらばらの言葉。
けれど、その全部が自分を戻すための声になる。
「……頼む」
自然にそう言っていた。
三人がこちらを見る。
「俺がまた変な方へ行きそうになったら、戻してくれ」
真昼が笑う。
「任せて」
刃更が頷く。
「止めます」
詩乃が静かに微笑む。
「言葉で引き戻しますわ」
研究室の外では、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴っていた。
日常へ戻る音。
その音を聞きながら、黎夜は思った。
玉座へ続く階段は、まだどこかで開いている。
ゼクスも、ルクレツィアも、第三鍵も終わっていない。
でも、こちらにも声がある。
戻るための声が、三つ。
それは黒鎖よりも頼りないようで、今は何より強く感じられた。




