第33話 白銀の剣は、眠らない
朝になっても、真昼の顔色は少し悪かった。
北棟の仮眠室で夜を明かした彼女は、毛布を肩にかけたまま、研究室のソファに座っていた。机の上には詩乃が淹れた温かい紅茶と、売店で買っておいたらしい小さなビスケットが置かれている。
「……本当に学校、行くのか?」
黎夜が聞くと、真昼はカップを両手で包みながら顔を上げた。
「行く」
「寝不足だろ」
「黎夜に言われたくない」
「それはそうだけど」
「それに、ここで休んでる方が嫌。普通に教室行って、普通に眠そうにしてたい」
「授業中に寝る前提かよ」
「寝ない努力はする」
真昼はそう言って、少しだけ笑った。
昨夜の夢の接触。
真昼の姿を借りた偽物が、黎夜を階段へ誘おうとした。もし合言葉を決めていなければ、もし真昼本人が夢の中で「焦げた卵焼き」と言えなければ、何が起きていたか分からない。
それでも真昼は、今朝になってもここにいる。
怖がっている。
でも、逃げていない。
「柊さんは午前だけ登校。午後は休養が妥当ですわね」
詩乃が端末を確認しながら言った。
「夢層接触の反動があります。無理をすると、夜に揺り返しが来ますわ」
「揺り返しって、また変な夢を見るってことですか?」
「可能性はあります」
「嫌な可能性ばっかり増える……」
「ですので、午前だけです」
詩乃の声は柔らかいが、そこに譲る気配はなかった。
真昼もそれを分かっているのか、反論はしなかった。ただ、紅茶を一口飲んでから小さく頷く。
「分かりました。午前だけ」
「放課後プリンは?」
黎夜が何気なく聞くと、真昼はすぐにこちらを見た。
「行く」
「午前だけって今言われたばかりだろ」
「じゃあ昼プリン」
「新しい言葉作るな」
詩乃がくすりと笑う。
「昼プリンなら、体調次第で検討可能ですわ」
「本当ですか」
「ええ。糖分補給は必要ですもの」
真昼の目が少しだけ明るくなった。
こういう時の彼女は分かりやすい。
分かりやすいからこそ、黎夜は少し安心する。
だが、その横で刃更だけが静かだった。
昨夜、彼女はほとんど眠っていない。
廊下に立ち、仮眠室と研究室の間で警戒を続けていた。真昼の夢層接触が切れたあとも、何度か巡回し、札の反応を確認し、黎夜の黒鎖反応まで記録していた。
朝になった今も、白銀の髪は整っていて、制服にも乱れはない。
けれど、黎夜には分かった。
刃更は、少し疲れている。
「天城」
「何ですか」
「お前こそ寝たのか」
「十分に」
「何時間」
「……」
「今、黙ったな」
「必要な休息は取りました」
「具体的に」
「三十八分」
「寝たって言わない、それ」
真昼が思わず突っ込む。
刃更は真顔だった。
「浅い休息としては問題ありません」
「問題しかないよ!」
「訓練されています」
「そういう問題じゃないでしょ」
真昼は毛布を肩にかけたまま、呆れたように刃更を見た。
「天城さん、自分のことになると雑すぎ」
「雑ではありません」
「雑だよ。黎夜には寝ろとか食べろとか言うのに、自分は三十八分で大丈夫って」
「私は監視役です」
「だからって人間やめなくていいでしょ」
その言葉に、刃更がわずかに目を伏せた。
ほんの一瞬。
けれど黎夜は見逃さなかった。
人間やめなくていい。
その言葉が、刃更のどこかに刺さった。
「……問題ありません」
刃更は、いつものように言った。
だが今度は、少しだけ遅かった。
詩乃が端末から目を上げる。
「天城さん」
「はい」
「あなたの札を見せてください」
刃更の動きが止まった。
真昼も黎夜も、同時に彼女を見る。
「札?」
「昨日の護符ですわ」
詩乃の声が少し低くなった。
「真昼さんの接触が切れた直後から、あなたの札にも微弱な反応が出ています」
「……報告は受けていません」
「あなたが意図的に通知を切っていましたもの」
研究室の空気が、静かに冷える。
刃更はしばらく黙っていた。
それから、制服の内側から銀札を取り出す。
机の上に置かれたその札は、白い光を宿していた。
しかし、その縁が薄く赤く染まっている。
真昼の時ほど強くはない。
けれど確かに、第三鍵の接触痕だった。
「天城、お前」
黎夜が言いかけると、刃更は先に答えた。
「軽微な反応です。任務に支障はありません」
「そういう問題じゃないだろ」
「そういう問題です」
刃更の声は硬かった。
「柊真昼への接触を防いだ直後、敵が次に私へ探りを入れただけです。予測範囲内です」
「だったら、なおさら言えよ」
「あなたの反応が乱れると判断しました」
「俺が怒るからか?」
「はい」
即答だった。
黎夜は言葉に詰まった。
否定できない。
昨日までの自分なら、真昼だけでなく刃更にも接触されたと知った瞬間、黒鎖を暴れさせていたかもしれない。
でも、それでも。
「隠される方が腹立つ」
黎夜が言うと、刃更は少しだけ眉を動かした。
「……すみません」
真昼が目を丸くした。
刃更が素直に謝るのは珍しい。
詩乃はそのやり取りを見守りながら、銀札へ術式を伸ばした。
「接触内容を見ます。天城さん、触れてください」
「不要です」
「必要ですわ」
「軽微です」
「軽微なうちに見るのです」
詩乃の声は穏やかだったが、譲らなかった。
刃更はしばらく抵抗するように札を見下ろしていたが、やがて諦めたように指先を置いた。
白い札の赤が、少しだけ強くなる。
刃更の肩がわずかに強張った。
「何が見える?」
詩乃が問う。
刃更は答えない。
その沈黙だけで、何か嫌なものを見ているのだと分かった。
「天城」
黎夜が呼ぶ。
刃更は目を伏せたまま、低く言った。
「……剣です」
「剣?」
「私が、あなたを斬る夢」
研究室が静まり返る。
真昼が小さく息を呑んだ。
刃更の声は平坦だった。
だが、いつもの平坦さではなかった。
「あなたが黒鎖に呑まれて、私が止める。何度も斬る。斬っても、あなたは戻らない。だから、さらに斬る」
「……」
「最後に、誰かが言います」
刃更の指先が、札の上で僅かに震えた。
「あなたの役目は、彼を殺すことだと」
その瞬間、黎夜の右腕が反応した。
だが、出なかった。
出さなかった。
真昼がこちらを見ている。
詩乃も、刃更も。
ここで暴れたら、敵の思うつぼだ。
黎夜はゆっくり息を吐いた。
「……違うだろ」
刃更が顔を上げる。
「違う?」
「お前は俺を止める役だ。必要なら斬るとか、物騒なことはいつも言ってるけど」
「……」
「殺すことが役目じゃない」
黎夜は、自分でも驚くほど静かに言えた。
「少なくとも、俺はそう思ってない」
刃更の瞳が揺れた。
本当に少しだけ。
けれど確かに。
「でも」
刃更は言った。
「もし、戻らなかったら」
「その時は止めろ」
「それは」
「でも、最初から殺すために剣を持つな」
言いながら、黎夜は自分の胸の奥が少し痛むのを感じた。
刃更にとって、それは簡単な話ではないのだろう。
彼女はずっと、そういう訓練を受けてきた。
危険なら斬る。
暴走すれば討つ。
情を挟むな。
そう教えられてきたはずだ。
だから敵は、そこを突いた。
「天城さん」
真昼が静かに言った。
「私、天城さんに斬ってほしくない」
「柊真昼」
「でも、黎夜を止めてほしい」
真昼は毛布を握りしめながら続けた。
「たぶん、それって矛盾してるんだけど。でも、そう思う。殺すとかじゃなくて、戻すために止めてほしい」
詩乃が頷く。
「私も同意ですわ」
刃更が詩乃を見る。
「あなたの剣は、処刑のためだけにあるものではないでしょう」
「……」
「境界を引く剣。踏み越えたものを断つ剣。なら、彼と玉座の間に立つこともできるはずです」
詩乃は静かに言った。
「あなたは鍵ではありません。剣です。でも、その剣の意味を敵に決めさせてはいけませんわ」
刃更は札を見下ろした。
赤い縁は、まだ消えていない。
けれど、少しずつ揺れている。
彼女は長く黙っていた。
そして、ようやく口を開いた。
「私は」
その声は小さかった。
けれど、折れてはいなかった。
「私は、天城刃更。白銀の執行剣」
銀札が淡く光る。
「彼を討つためだけの剣ではありません」
赤い縁が、少し薄くなる。
「彼が人間の側に戻るまで、境界を斬る剣です」
黎夜は何も言わなかった。
ただ、その言葉を聞いていた。
「もし彼が玉座へ引かれるなら、その道を斬ります。もし鎖が彼を呑むなら、その鎖を斬ります」
刃更はまっすぐ黎夜を見た。
「それでも戻らない時は――」
「その先は、今決めなくていい」
黎夜が言った。
刃更は言葉を止める。
「今のお前に必要なのは、最後の覚悟じゃなくて、戻すための言葉だろ」
「……戻すための言葉」
「真昼の焦げた卵焼きみたいなやつ」
真昼が小さく咳き込んだ。
「そこで私の合言葉を出す?」
「効くだろ、あれ」
「効くけど」
少しだけ空気が和らぐ。
刃更は真剣に考え込んだ。
たぶん、彼女はこういうことが苦手だ。
合言葉。
日常側のアンカー。
自分らしい、戻るための言葉。
訓練や任務ではなく、自分の内側から出す言葉。
「……白雪」
やがて刃更は、そう呟いた。
「白雪?」
「私の剣術の名にも使います。でも、昔……剣を習い始める前に、母がよく言っていました」
刃更の声が、ほんの少し柔らかくなる。
「雪が降った朝は、世界が一度静かになる。だから、怒っていても、悲しくても、息をしてから歩きなさい、と」
初めて聞く、刃更の過去だった。
真昼も詩乃も黙っている。
黎夜も、何も挟まなかった。
「白雪」
刃更はもう一度言った。
「それを合言葉にします」
詩乃が静かに頷く。
「記録しますわ。天城刃更本人確認用日常記憶アンカー、白雪」
「こちらは整ってますね」
真昼がぼそっと言う。
「焦げた卵焼きも素晴らしいですわよ」
「やっぱり恥ずかしい……」
刃更の札から、赤い縁がさらに薄れていく。
完全には消えない。
けれど、白い光が戻ってきた。
「天城」
黎夜が呼ぶ。
「何ですか」
「眠れ」
「今ですか」
「今じゃなくてもいい。でも今日中に」
「……」
「三十八分は禁止」
真昼がすぐに乗る。
「最低三時間」
「五時間ですわ」
詩乃が上乗せした。
「そんなに?」
刃更が本気で驚いた顔をした。
黎夜は呆れた。
「そこに驚くのかよ」
「任務中に五時間は長いです」
「人間の睡眠としては普通寄りだよ」
真昼が言う。
詩乃も頷く。
「では、今夜は交代制にしましょう。天城さんは前半で休む。私が術式を維持します。後半に交代」
「しかし」
「命令ですわ」
「詩乃先輩の命令権は」
「今作りました」
「横暴です」
「あなたよりは健康的です」
刃更は少しだけ不満そうだった。
だが、最後には小さく頷いた。
「……分かりました」
その一言で、研究室の空気が少しだけ楽になる。
真昼の札に続き、刃更の札にも抵抗の言葉が入った。
第三鍵はまだ消えていない。
だが、敵の術式は今日も完全には通らなかった。
黎夜は右手を握る。
黒鎖は沈んでいる。
怒りも、不安も、消えたわけではない。
でも、今は暴れていない。
「じゃあ」
真昼が毛布を畳みながら言った。
「午前だけでも教室、行く?」
刃更が即座に答える。
「体調次第です」
「それ、私に言ってる? 天城さんに言ってる?」
「両方です」
「自分も入ってるんだ」
「……はい」
刃更が少しだけ目を逸らす。
その反応に、真昼が満足そうに笑った。
「よし。じゃあ三人とも無理しない。詩乃先輩も」
「私もですの?」
「もちろん」
「厳しいですわね」
「日常安定補助なので」
真昼が胸を張る。
黎夜は思わず笑った。
その笑いは、昨日より少し自然だった。
白雪。
焦げた卵焼き。
合言葉が増えていく。
ばかばかしいものも、静かなものも。
その一つ一つが、玉座へ続く階段に背を向けるための足場になっている。
それなら、増えるのは悪くない。
たぶん、そう思えた。




