第32話 焦げた卵焼きの夜
夜の北棟は、昼間とはまるで違う顔をしていた。
廊下の照明は必要最低限まで落とされ、窓の外には学園都市の灯りが遠く滲んでいる。昼休みには人の声が響いていた階段も、今は足音ひとつで妙に大きく反響した。
真昼は、特級編纂室の隣にある仮眠室の前で立ち止まった。
「……ほんとにここで寝るの?」
「はい」
刃更が即答する。
「詩乃先輩の研究室に近く、術式保護の範囲内です。現状では最も安全です」
「最も安全、って言われると逆に怖いんだけど」
「危険がないとは言っていません」
「言い方!」
真昼は思わず突っ込んだが、声にいつもの勢いは少なかった。
無理もない。
第三鍵の最初の接触対象が自分だと分かった直後に、今夜は夢に触られるかもしれないと言われたのだ。怖くないはずがない。
それでも真昼は逃げなかった。
黎夜はそれを見て、胸の奥がまた少し重くなる。
「真昼」
「何?」
「やっぱり、無理なら――」
「無理はしてる」
真昼は先回りして言った。
「でも、帰って一人で怖がる方が嫌。ここにいた方が、まだちゃんと怖がれる」
「ちゃんと怖がるって何だよ」
「分かんない。でも、そういう感じ」
真昼らしい、少し雑で、それでも核心に近い言葉だった。
詩乃が研究室の扉を開けたまま微笑む。
「悪くない表現ですわ。怖いものを見ないふりにするより、怖いと分かった上で囲い込む方が対処できますもの」
「詩乃先輩が言うと急に魔術っぽくなるんですよね」
「実際、魔術も似たようなものですわ」
詩乃は机の上に銀札を三枚並べた。
真昼、刃更、詩乃。
それぞれが自分の言葉を刻んだ護符だ。
真昼の札だけは、まだ薄く赤い。さっきより落ち着いたとはいえ、完全には消えていなかった。
「今夜は、柊さんの夢層に浅い接触が来る可能性があります」
「夢層って言い方、まだ慣れないです」
「では、夢の入口」
「そっちの方が怖いです」
「難しいですわね」
詩乃は少しだけ困ったように笑い、真昼の札へ術式を重ねていく。
銀の線が円を描き、札の周囲に小さな光の輪を作った。
「柊さんは仮眠室。天城さんは廊下。黎夜くんは研究室内の観測椅子。私は中央で術式管理。異常があれば即座に起こします」
「俺、研究室で寝るのか」
「寝るというより、半覚醒状態で待機ですわね」
「それは寝てないのでは」
「ええ」
「当然みたいに言わないでください」
刃更が横から言う。
「短時間なら問題ありません」
「お前基準にしないでくれ。昨日も一時間睡眠で十分とか言ってたやつの基準だろ」
「今は二時間まで許容します」
「増えた。人間に近づいた」
「失礼ですね」
真昼が少しだけ笑った。
その笑いを聞いて、黎夜は少し安心した。
怖がってはいる。
けれど、真昼はまだ真昼のままだ。
仮眠室は小さな部屋だった。
ベッドが一つ。机と椅子。薄いカーテン。窓はなく、壁には淡い保護術式が刻まれている。病室ほど冷たくはないが、普通の休憩室とも違う。
真昼はベッドに腰を下ろし、胸元の銀札を確かめた。
「ねえ、黎夜」
「何だ」
「もし私が変なこと言っても、すぐ信じないでよ」
「ああ」
「合言葉、覚えてる?」
「焦げた卵焼き」
「よし」
真昼は頷いた。
「私も覚えてる。っていうか、忘れようがないけど」
「お前が言い出したんだろ」
「そうだけど、記録に残るとは思わなかった」
研究室側から詩乃の声が飛んでくる。
「安心してください。正式名称は少し整えましたわ」
「えっ、どう整えたんですか」
「柊真昼本人確認用幼少記憶アンカー・焦げた卵焼き」
「全然整ってない!」
「分類上は正確です」
「やめてください、恥ずかしいから!」
真昼の声に、少しだけいつもの勢いが戻った。
刃更が真面目に頷く。
「私は覚えやすくて良いと思います」
「天城さんまで真顔で追い打ちしないで!」
黎夜は思わず笑った。
その笑い声で、真昼の表情も少し緩む。
「……じゃあ、寝る」
「ああ」
「黎夜も勝手にどこか行かないでよ」
「行かない」
「階段とか見えても?」
「行かない」
「玉座が呼んでも?」
「行かない」
真昼はじっとこちらを見た。
「ほんとに?」
黎夜は少しだけ息を吐く。
「行きそうになったら、止めてくれ」
「うん」
「焦げた卵焼きで」
「うん」
短いやり取りだった。
でも、それで十分だった。
真昼が横になる。
刃更は仮眠室の外に立ち、扉を半分だけ閉めた。
完全には閉じない。
何かあればすぐ見える距離。
黎夜は研究室へ戻り、詩乃に示された椅子へ座った。
椅子の周囲には、薄い術式の円が描かれている。座ると、背中から首筋にかけて、わずかに冷たい感触が走った。
「今のは?」
「意識を安定させる補助ですわ」
「変なもの見えたりしませんか」
「見える可能性はあります」
「補助とは」
「制御された範囲で見るための補助です」
「見たくないんですけど」
「必要です」
「はいはい」
刃更が廊下側から言う。
「眠くなったら報告してください」
「報告するものなのか、眠気って」
「観測項目です」
「俺の生活、項目だらけだな」
詩乃が小さく笑った。
「今だけですわ」
「本当に?」
「たぶん」
「詩乃先輩までたぶんって言った」
そんな会話をしているうちに、夜は深くなっていった。
研究室の銀輪がゆっくり回る。
札の光が、呼吸するように明滅する。
最初の一時間は何も起きなかった。
真昼の寝息も落ち着いている。
刃更は一度も姿勢を崩さず、廊下に立っている。
詩乃は机の前で術式を維持しながら、時々端末へ記録を入れていた。
黎夜は半分眠り、半分起きているような妙な状態だった。
目を閉じると、時々石の階段が浮かぶ。
だが、それはすぐに消える。
真昼の「焦げた卵焼き」という声を思い出すだけで、階段は少し遠ざかった。
こんな馬鹿みたいな言葉が本当に効くのだから、人間の心というのは案外よく分からない。
そう思った時だった。
真昼の札が、赤く光った。
詩乃が顔を上げる。
「来ましたわ」
刃更がすぐに扉の前へ立つ。
「真昼は?」
「睡眠状態。夢層へ浅い接触。まだ侵入ではありません」
詩乃の声が低くなる。
「黎夜くん、聞こえますか」
「はい」
「今から、あなたにも一部が見えるかもしれません。見えたものを即座に真実だと思わないでください」
「分かってます」
「分かっていない人ほどそう言いますわ」
「きつい」
次の瞬間、視界が揺れた。
研究室の机も、銀輪も、詩乃の姿も薄くなり、代わりに暗い階段が見えた。
石の階段。
下へ下へ続く階段。
その途中に、真昼がいた。
制服姿で、手を伸ばしている。
「黎夜!」
夢の中の真昼が叫んでいた。
だが、その声はどこか違う。
本物の真昼に似ている。けれど、少しだけ薄い。輪郭だけを真似た声。
「助けて!」
階段の下から黒い鎖が伸び、真昼の足首に絡みついている。
夢だ。
偽物だ。
そう分かっている。
それでも、身体が動きかけた。
「黎夜くん」
現実の詩乃の声が遠く聞こえる。
「判断して」
夢の真昼が泣きそうな顔でこちらを見る。
「来て、お願い!」
右腕が疼く。
鎖が出たがる。
階段を降りれば助けられる。
そう思わせてくる。
だが、黎夜は奥歯を噛んだ。
「……合言葉」
夢の真昼の表情が止まった。
「何?」
「合言葉だ」
「何言ってるの? 早く来てよ、黎夜!」
違う。
本物なら、怒る。
きっと、こんなふうにただ助けを求めたりしない。
そして、あの言葉を言うはずだ。
「言えないんだな」
黎夜はゆっくり息を吐いた。
「じゃあ、お前は真昼じゃない」
夢の真昼の顔が、ぐにゃりと歪んだ。
泣き顔が笑顔に変わる。
真昼の形をした何かが、赤い口で笑う。
「ひどいなあ。あんなに大事にしてるくせに」
「大事だから間違えない」
黎夜は右手を握った。
黒鎖は出さない。
出す必要はない。
「真昼は鍵じゃない。戻すための声だ」
階段が揺れる。
偽物の真昼が黒い靄になって崩れかけた。
その瞬間、今度は別の声がした。
「黎夜」
今度は、本物だった。
仮眠室から、か細い声が漏れている。
「……焦げた卵焼き」
その一言が、夢の階段を完全に割った。
視界が戻る。
研究室。
銀輪。
詩乃。
刃更。
そして、半開きの扉の向こうで、真昼が目を覚ましていた。
顔色は悪い。汗もかいている。
でも、目はしっかりしていた。
「……言えた」
真昼が、息を乱しながら笑った。
「ちゃんと、言えた」
黎夜は椅子から立ち上がりかけ、詩乃に肩を押さえられた。
「まだ動かないで」
「でも――」
「接触残滓を切ります」
詩乃の指が空中へ走る。
「夢の入口を閉じなさい。ここは彼女の夜であって、あなたたちの通路ではない」
短い詠唱とともに、真昼の札から赤い光が剥がれ落ちた。
刃更が扉の前で剣の柄に手をかける。
しかし、敵の姿は現れない。
赤い光は床へ落ち、灰のように消えた。
研究室に静けさが戻る。
真昼はベッドの上で、深く息を吐いた。
「……怖かった」
その声は小さかった。
黎夜は今度こそ椅子から立ち上がり、仮眠室の入口まで行った。
近づきすぎない。
でも、声が届く距離まで。
「俺も怖かった」
「見えた?」
「ああ」
「私、ちゃんと言えた?」
「言えた」
「なら、よかった」
真昼は少しだけ笑った。
泣きそうな笑顔だった。
刃更が静かに言う。
「接触は失敗しています」
詩乃も頷いた。
「ええ。敵は柊さんを使って黎夜くんを階段へ誘導しようとしました。でも、本人確認アンカーで切れましたわ」
「つまり」
黎夜が聞くと、詩乃はようやく少しだけ表情を緩めた。
「私たちの勝ちです。小さいですが、確かな一勝ですわ」
真昼は枕に顔を半分埋めながら言った。
「じゃあ、明日プリン」
「またそれか」
「勝ったから」
「理由としては強いな」
刃更が端末に記録を入れる。
「明日の体調次第で許可候補に入れます」
「天城さん、そこはもう許可してよ」
「体調次第です」
「厳しい」
それでも、真昼は笑った。
黎夜も、少しだけ笑った。
夜はまだ終わっていない。
敵も消えていない。
でも、今夜の階段は閉じた。
真昼は鍵にならなかった。
焦げた卵焼きという、どうしようもなくくだらない合言葉が、玉座への道を一本断ち切った。
その事実だけで、黎夜は少しだけ呼吸が楽になった。




