第31話 幼馴染は鍵にならない
真昼の銀札だけが、薄く赤く染まっていた。
机の上に置かれた三枚の札。そのうち、刃更のものは白く、詩乃のものは淡い玻璃色を帯びたまま静かに沈黙している。けれど真昼の札だけが、脈を打つように赤く明滅していた。
強い光ではない。
むしろ、紙の奥で誰かが小さな火を灯しているような、ひどく不快な赤だった。
「第三鍵の最初の接触対象は、柊さんですわ」
詩乃の言葉が、研究室に落ちる。
その瞬間、黎夜の右腕の奥で鎖が鳴った。
じゃら、と。
怒りに似ている。
恐怖にも似ている。
けれど、昨日までとは違った。暴れたいという衝動より先に、目の前の真昼を見ろ、という感覚があった。
真昼は青い顔をしていた。
でも、逃げてはいなかった。
「……じゃあ、私も戦うってことだね」
声は震えていた。
それでも、折れてはいない。
黎夜は思わず口を開きかけた。
やめろ、と言いたかった。
お前は関係ない、下がっていろ、巻き込まれるな。
いつもの言葉が喉まで出かかった。
けれど、それを言えば真昼は怒る。
それに、もう遅い。
関係ない場所になど、戻せない。
「戦うって言っても、前に出る必要はない」
黎夜は、なるべく落ち着いた声で言った。
「分かってる」
真昼は即答した。
「私が剣振れるわけじゃないし、魔術使えるわけでもないし」
「護身具は使えました」
刃更が言う。
真昼は少しだけ苦笑した。
「あれは、たまたま当たっただけ」
「たまたまでも、有効でした」
「……天城さん、そういうの真顔で言うから困る」
「事実です」
「うん。知ってる」
真昼は小さく息を吐き、赤く染まった札を見た。
「でも、今の私はそういう戦い方じゃないんでしょ」
詩乃が頷く。
「ええ。今回の鍵化は、おそらく肉体を狙うものではありません。柊さんの“黎夜くんとの関係性”を狙っています」
「関係性……」
真昼がその言葉を噛みしめるように繰り返した。
「幼馴染ってやつ?」
「それも含まれますわ」
詩乃は端末に術式図を表示する。
円環の中央に、黎夜を示す黒い点。その周囲に三つの小さな光点。そのうち一つ――真昼を示す点だけが、赤い線で中央へ結ばれていた。
「敵は柊さんを傷つけるだけではなく、柊さんを通して黎夜くんを動かそうとしている。たとえば、危険な夢を見せる。幻聴を聞かせる。偽の記憶を流し込む。あるいは、柊さんが危ないと誤認させる」
黎夜の胸が冷たくなる。
「それで俺を玉座へ向かわせるのか」
「可能性は高いです」
刃更が低く言った。
「つまり、柊真昼本人だけでなく、あなたの認識も狙われます」
「……最低だな」
黎夜は奥歯を噛んだ。
真昼を傷つけるだけでは足りない。
真昼が傷ついたと思わせるだけでも、敵には意味がある。
自分なら動く。
きっと、考えるより先に走る。
そこまで読まれている。
「黎夜」
真昼がこちらを見た。
「今、すごい顔してる」
「……悪い」
「謝らない」
「分かってる」
「あと、勝手に決めつけない」
真昼の声が少し強くなった。
「私が危ないかもってなった時、あんた絶対一人で飛び出すでしょ」
「それは」
「飛び出すでしょ」
「……たぶん」
「そこは正直でよし」
真昼はそう言ってから、自分の胸元に手を当てた。
銀札の入った場所だ。
「だから決めとこう。私が危ないって情報が来ても、まず確認する。天城さんか詩乃先輩に確認する。私からの言葉じゃなかったら信じない」
「真昼からの言葉なら?」
「合言葉を決める」
あまりにも真剣な顔でそう言うので、黎夜は一瞬、反応が遅れた。
「合言葉?」
「うん。変に格好いいやつじゃなくて、私たちしか言わないような、くだらないやつ」
詩乃が少し感心したように目を細める。
「悪くありませんわ。術式的にも、本人確認の簡易アンカーになります」
刃更も頷いた。
「有効です」
「じゃあ決定」
真昼は少し考え込み、それから黎夜を見た。
「何にする?」
「俺に聞くのか」
「二人の合言葉なんだから、二人で決めるでしょ」
そう言われると、急に難しくなる。
幼馴染しか知らない言葉。
くだらなくて、敵が想像しづらくて、なおかつ自分たちが忘れないもの。
黎夜はしばらく考えた。
すると、真昼が先にぽつりと言った。
「……焦げた卵焼き」
黎夜は思わず顔を上げた。
「それにするのか」
「覚えてる?」
「忘れるわけないだろ。小学生の時、お前が遠足の弁当で作ってきて、真っ黒だったやつ」
「真っ黒じゃない。ちょっと焦げただけ」
「炭だった」
「違う」
「いや、あれは炭だった」
「じゃあ合言葉にしてやる。私が『焦げた卵焼き』って言ったら、本物」
「敵が言ったら笑うかもしれない」
「笑えたら戻れるでしょ」
その言葉に、黎夜は少し黙った。
確かに。
玉座や封印や王権の中にいる時、そんな馬鹿みたいな言葉が飛んできたら、たぶん一瞬は戻る。
小学生の遠足。
焦げた卵焼き。
真昼が半泣きで「食べられるもん」と言い張り、黎夜が意地で食べて、二人そろって水筒のお茶を飲み干した記憶。
あまりにも普通で、あまりにも自分たちらしい。
「分かった」
黎夜は頷いた。
「合言葉は焦げた卵焼き」
「よし」
真昼は少しだけ笑った。
詩乃が端末へ記録する。
「登録しておきますわ」
「正式記録に残るんですか、それ」
「残ります。第三鍵対策・柊真昼本人確認アンカー、焦げた卵焼き」
「やめて、急に恥ずかしくなってきた」
「もう遅いですわ」
刃更が真面目に言う。
「覚えました」
「天城さんも覚えなくていいから!」
「必要です」
「必要って言われると弱い……」
ほんの少しだけ、空気が和らいだ。
けれど、赤く染まった札はまだ消えていない。
詩乃が真昼の札へ指をかざす。
「次に、接触の種類を調べます。柊さん、少し怖いかもしれませんが、札に触れてもらえますか」
黎夜がすぐに口を挟む。
「危険は?」
「あります」
詩乃は隠さなかった。
「ただし、ここで確認しなければ、次に何が起きるか分かりません。もちろん強制はしませんわ」
真昼は札を見た。
そして、自分の手を見た。
少し震えている。
それを見た黎夜は、思わず手を伸ばしかけた。
けれど真昼は先に言った。
「大丈夫。触る」
「無理するな」
「無理はしてる」
真昼は正直だった。
「でも、何も知らない方が怖い」
そう言って、真昼は札へ指先を置いた。
赤い光が、ふっと強くなる。
真昼の肩が小さく跳ねた。
「真昼!」
「平気!」
声は出ている。
だが、顔色は悪い。
詩乃がすぐに術式を展開する。
「接触反応、浅い。夢層干渉ではありません。記憶層……いえ、感情層ですわね」
「分かりやすく」
黎夜が言う。
「柊さんの記憶そのものではなく、黎夜くんに関する感情へ触ろうとしています」
「……何それ、気持ち悪い」
真昼が低く言った。
その瞬間、赤い札がわずかに歪む。
真昼の目が揺れた。
「っ……」
「何が見えた」
刃更が問う。
真昼はしばらく黙っていた。
それから、小さく言った。
「黎夜が、遠くに行く夢」
研究室が静まり返る。
「夢っていうか、映像みたいなやつ。黒い階段があって、黎夜が一人で降りてく。呼んでも振り向かない」
黎夜の胸が締めつけられた。
それは、昨日から何度も見ている光景に近い。
ただ違うのは、それを真昼側から見せられているということだ。
「私が追いかけようとしたら、足が動かない。声も出ない。で、誰かが言うの」
「何て」
黎夜が問う。
真昼は唇を噛んだ。
「あなたがいるから、彼は壊れるって」
黒鎖が鳴った。
怒りで。
今度ははっきりと。
「黎夜」
真昼がすぐにこちらを見る。
「戻って」
「……分かってる」
「焦げた卵焼き」
その一言で、鎖の音が止まった。
あまりにも不意打ちだった。
怒りより先に、小学生の真昼の泣きそうな顔が浮かんでしまった。
「……効くな、それ」
「でしょ」
真昼は少しだけ笑った。
でも、目はまだ赤い。
「今の声、嘘だって分かってる。分かってるけど、嫌だった」
「当たり前だ」
黎夜は静かに言った。
「そんな言葉、聞かされて平気な方がおかしい」
詩乃が札へ術式を重ねる。
「接触痕、確認しました。やはり柊さんの罪悪感を刺激する構造ですわ」
「罪悪感?」
「自分がいるから黎夜くんが危険になる。自分が足を引っ張っている。そう思わせたいのでしょう」
「最低」
真昼が吐き捨てる。
「私が勝手にそう思うのはまだしも、外から言われると腹立つ」
「勝手にも思うなよ」
黎夜が言うと、真昼は少しだけ困った顔をした。
「思うよ。少しは」
「……真昼」
「でも、それだけじゃない。私がいるから戻れる時もあるんでしょ」
「ああ」
「じゃあ、そっちを採用する」
真昼は赤い札を指で押さえたまま、はっきりと言った。
「私は、黎夜を壊すための鍵じゃない。戻すための声」
札の赤が、少し薄くなった。
詩乃が目を見開く。
「いいですわ、その言葉」
「本当ですか」
「ええ。護符の芯にできます」
刃更も静かに頷いた。
「柊真昼の役割として適切です」
「役割って言われると、まだちょっと変な感じだけど」
真昼は札から手を離した。
赤い光は完全には消えていない。
けれど、さっきより確かに弱まっている。
黎夜は真昼を見る。
「大丈夫か」
「大丈夫じゃないけど、大丈夫」
「どっちだ」
「両方」
真昼は笑った。
少し無理をしている笑顔だった。
でも、折れてはいない。
「ねえ、黎夜」
「何だよ」
「私がまた変なこと言われて落ち込みそうになったら、怒って」
「俺が?」
「うん。でも黒鎖は出さないで」
「難易度高いな」
「そこは訓練でしょ」
そう言われると返せない。
黎夜は小さく息を吐いた。
「分かった。怒る。黒鎖は出さない」
「約束」
「約束」
詩乃は真昼の札を小さなケースに入れ、さらに術式を重ねた。
「今日のところはこれで安定させます。柊さんは、今夜ひとりで寝ない方がいいですわ」
「えっ」
真昼が固まる。
「女子寮の誰かと同室が望ましいです。できれば、私の研究室近くの仮眠室を使う方が安全です」
「そこまで?」
「ええ。今夜、夢への接触が来る可能性があります」
黎夜はすぐに言った。
「俺も近くにいる」
刃更が即座に首を振る。
「駄目です」
「何でだよ」
「あなたが近くにいるほど、敵が二人を同時に狙う可能性があります」
「……」
「気持ちは分かります。でも、物理的に近いことが必ずしも安全ではありません」
正論だった。
痛いほど。
詩乃が続ける。
「黎夜くんは別室で監視下。柊さんは仮眠室。天城さんが中間に入ります。私が術式で両方を見る」
「それ、先輩寝られますか」
「多少は」
「多少なんだ」
「こういう時のための詠唱魔術師ですわ」
真昼は少し考え、それから頷いた。
「分かりました。今日は研究室の近くにいます」
黎夜はまだ納得しきれなかったが、飲み込んだ。
守るために近づきすぎない。
それも必要なのだろう。
真昼がこちらを見て、少しだけ笑う。
「そんな顔しない」
「どんな顔だよ」
「今すぐ全部背負いそうな顔」
「……してたか」
「してた」
刃更も言う。
「していました」
詩乃まで頷く。
「していましたわ」
「全員で言うなよ」
黎夜は降参するように息を吐いた。
その時、真昼がふいに手を伸ばしてきた。
額を指で軽く弾かれる。
「痛っ」
「戻った?」
「……戻った」
「よし」
真昼は札を胸元にしまう。
「じゃあ、今日の夜は私も頑張る。黎夜も勝手に降りない。天城さんは無理しすぎない。詩乃先輩は寝る。はい、決定」
「私まで管理されましたわね」
詩乃が少し笑った。
「でも悪くありません」
研究室の空気が、少しだけ柔らかくなる。
真昼の札はまだ赤い。
危険は消えていない。
でも、真昼は自分の言葉で抵抗した。
私は鍵じゃない。
戻すための声。
その言葉は、黎夜の中にも深く残った。
もしまた階段へ呼ばれても。
もし玉座が見えても。
焦げた卵焼き、というあまりにもくだらない合言葉があれば、きっと戻れる。
そう思えること自体が、今はひとつの救いだった。




