第30話 教室にいるということ
翌朝、霧生黎夜はいつもより少し早く教室に着いた。
理由は、単純だった。
天城刃更が、いつもより少し早く来るようにと言ったからである。
「……で、何で早く来たんだっけ」
「昨日、宮野さんに言われたでしょう」
隣を歩く刃更が、いつもの無表情で答える。
「あなたが教室に“いる”ことも、日常側への固定になります」
「それで早朝登校?」
「はい」
「重いな、教室にいるだけで」
「あなたの場合は」
「限定されると余計に重い」
昇降口で靴を履き替えながら、黎夜は小さく息を吐いた。
昨日、宮野に言われた言葉がまだ残っている。
――ちゃんとそこにいる感じがする。
何気ない一言だった。
彼女はたぶん、何も知らずに言ったのだろう。地下封書庫も、玉座も、黒鎖も、第三鍵も知らない。ただ、クラスメイトとして最近の黎夜を見て、そう言っただけだ。
けれどその言葉は、詩乃や刃更が言うどんな理論よりも、妙に胸に引っかかった。
教室にいる。
自分の席に座って、授業を受けて、プリントを回して、昼飯を食べる。
それだけのことが、今の黎夜には一つの抵抗になる。
玉座へ引かれないための、ひどく地味な抵抗だ。
「黎夜」
後ろから声がした。
振り向くまでもなく分かる。
柊真昼だった。
真昼は小走りで追いついてくると、黎夜の顔を見て、次に刃更を見て、それからまた黎夜を見た。
「ちゃんと寝た?」
「第一声がそれか」
「重要でしょ」
「寝たよ。三回くらい目は覚めたけど」
「それ、寝たって言っていいの?」
「昨日よりは寝た」
真昼は少し不満そうに眉を寄せたが、それ以上責めなかった。
代わりに、小さな袋を差し出してくる。
「はい」
「何だこれ」
「おにぎり」
「朝飯は食ったぞ」
「知ってる。昼前にお腹空いた時用」
「俺、幼稚園児扱いされてない?」
「昨日、プリンであんなに安定した人が何言ってるの」
「そこを盾にされると弱いな」
刃更が横から真面目に頷いた。
「補食は有効です」
「お前まで肯定するのか」
「血糖値の低下は集中力低下に繋がります」
「黒鎖より先に低血糖を警戒される封印王って何なんだ」
真昼がくすっと笑った。
その笑い声だけで、朝の廊下が少し普通になる。
二年B組の教室に入ると、まだ人は少なかった。
窓際の席に一人、机に突っ伏している男子。後方でスマホを見ている女子が二人。黒板には昨日の日直が消し忘れた小さな落書きが残っている。
何も特別ではない。
ただの朝の教室。
黎夜は自分の席へ向かい、鞄を置いた。
いつもなら、そこで机に突っ伏して時間まで寝る。
だが今日は、少し迷ってから椅子に座り、鞄から教科書を出した。
真昼が目ざとくそれを見る。
「お、予習?」
「違う。今日の一時間目、何だっけと思って」
「それを予習とは言わないね」
「だろうな」
刃更は隣の席に座ると、当然のように端末を開いた。
「現在、黒鎖反応は安定」
「朝の教室でそれ言うな」
「小声です」
「内容が強すぎるんだよ」
そこへ、教室の扉が開いた。
入ってきたのは宮野だった。
昨日、校舎裏で声をかけてきたクラスメイト。
彼女は黎夜たちに気づくと、少しだけ目を丸くしたあと、いつもの明るい調子で手を振った。
「おはよう」
「おはよう」
黎夜が返すと、宮野は一瞬止まった。
「……霧生くんが普通に返した」
「俺、普段どんな扱いなんだ」
「いや、返すけど。もっとこう、半分寝てる感じだったから」
「それは否定できない」
真昼が横から即座に言う。
「朝の黎夜は基本、省エネだから」
「幼馴染の補足が容赦ない」
「事実でしょ」
「事実ばっかりだな、最近」
宮野が笑った。
「何か、いいね。そういうの」
「そういうの?」
「何でもない会話してる感じ」
その言葉に、黎夜は少しだけ黙った。
何でもない会話。
たぶん、宮野にとっては本当に何でもない言葉だ。
でも今の黎夜には、その“何でもなさ”が妙に重い。
「……そうだな」
短く返すと、宮野は少し照れたように笑って、自分の席へ向かった。
真昼が横目でこちらを見る。
「今の、よかったじゃん」
「何が」
「ちゃんと教室にいた」
「お前まで詩乃先輩みたいなこと言うな」
「いいじゃん。大事なんでしょ」
刃更が静かに頷く。
「大事です」
「お前も乗るな」
「事実です」
その言葉を聞いて、黎夜は思わず笑ってしまった。
笑った瞬間、教室の空気が少しだけ軽くなる。
自分が笑ったことに、自分で少し驚く。
昨日までなら、こういう場面で笑う余裕はなかったかもしれない。
チャイムが鳴り、担任が入ってくる。
ホームルームが始まった。
連絡事項はいつも通りだった。週末の小テスト。委員会の提出物。校内の一部立入禁止区域についての注意。
その“立入禁止区域”が、黎夜たちにとっては笑えない場所なのだが、クラスの大半は退屈そうに聞いている。
それでいいのだと思った。
全員が知る必要はない。
知らないまま、普通に過ごせるなら、その方がいい。
一時間目の国語。
二時間目の数学。
休み時間には、宮野がプリントを後ろから回してきた。
「霧生くん、これ」
「ああ、ありがとう」
受け取って、自然に言った。
宮野が少し笑った。
それだけ。
それだけのことなのに、真昼が前の席で満足そうに頷いているのが見えた。
「見てるなよ」
小声で言うと、真昼は振り向かずに答えた。
「見てない」
「嘘つけ」
「幼馴染だから見えるだけ」
「便利だな、その言葉」
刃更が隣で小さく言う。
「幼馴染という概念は、監視と似ていますね」
「似てない」
真昼が即座に振り向いた。
「全然違うから」
「そうですか」
「そうです。監視じゃなくて、心配」
刃更は少しだけ考えるように沈黙した。
「……なるほど」
「納得した?」
「一部」
「一部かあ」
黎夜はその会話を聞きながら、教室の窓の外を見た。
空は青い。
昨日よりも、少しだけ明るく見えた。
だが、その平穏は昼休み前に揺らいだ。
三時間目が終わった直後、刃更の端末が小さく震えた。
音は鳴っていない。
それでも彼女の表情が一瞬で変わったので、黎夜には分かった。
「何かあったのか」
刃更は画面を確認し、わずかに眉を寄せた。
「詩乃先輩からです」
「内容は?」
「昼休み、研究室へ。第三鍵関連で新しい照合結果が出た、と」
真昼がすぐに振り向く。
「私も?」
「はい。三人全員」
その言葉で、胸の奥が少し冷えた。
三人全員。
第三鍵の補助因子にされた三人。
教室にいた感覚が、少しだけ遠ざかる。
けれど今回は、完全には引かれなかった。
黎夜は机の上のプリントを見た。
さっき宮野から受け取った、ごく普通の授業プリント。
その端に、自分の名前が書いてある。
霧生黎夜。
封印王ではなく。
王権保持者ではなく。
ただのクラスメイトとして、ここにある名前。
「……分かった」
黎夜は静かに言った。
「昼休みに行こう」
真昼が顔を覗き込む。
「大丈夫?」
「少し嫌な感じはする」
「うん」
「でも、戻ってる」
「ならよし」
刃更もこちらを見る。
「黒鎖反応、微弱。安定しています」
「いちいち報告されるの、だいぶ慣れてきたな」
「良い傾向です」
「本当に?」
「たぶん」
「お前がたぶんって言うと不安なんだよ」
短いやり取りのあと、昼休みのチャイムが鳴った。
教室が一気にざわめく。
弁当を広げる音。購買へ走る男子。友達を呼ぶ女子。机を動かす音。
普通の昼休み。
黎夜は、その音を少しだけ聞いてから立ち上がった。
真昼も、刃更も同時に立つ。
宮野がそれに気づいて声をかけてきた。
「三人とも、どこか行くの?」
「ああ。ちょっと用事」
「また?」
宮野は少しだけ心配そうな顔をした。
「無理しないでね。何か最近、大変そうだし」
黎夜は一瞬だけ言葉に詰まった。
それから、なるべく普通に答えた。
「ありがとう。大丈夫」
宮野は笑った。
「そっか。じゃあまた後で」
「また後で」
その言葉を返せたことが、少し嬉しかった。
また後で。
戻ってくる前提の言葉。
黎夜は教室を出る前に、一度だけ自分の席を見た。
そこに鞄がある。
教科書がある。
プリントがある。
自分が戻る場所がある。
だから大丈夫だと、自分に言い聞かせた。
北棟へ向かう廊下は、昼休みの喧騒から少しずつ離れていく。
真昼が隣で小さく言った。
「さっきの、よかったね」
「何が」
「また後でって言った」
「普通だろ」
「普通だからいいんじゃん」
刃更が静かに頷く。
「同意します」
「お前まで普通を褒めるのか」
「今のあなたには重要です」
「そうかよ」
黎夜は苦笑しながら、右手を軽く握った。
黒鎖は沈んでいる。
まだ大丈夫。
まだ戻れる。
研究室の扉の前に着くと、中から詩乃の声がした。
「どうぞ。待っていましたわ」
扉を開ける。
詩乃は机の前に立っていた。
その表情は、いつもの余裕を残しながらも、どこか硬い。
机の上には三枚の銀札。
昨日、三人が自分の言葉で拒絶を刻んだ札。
そのうち一枚――真昼の札だけが、薄く赤く染まっていた。
真昼が息を呑む。
「……私の?」
詩乃は静かに頷いた。
「第三鍵の最初の接触対象は、柊さんですわ」
部屋の空気が止まった。
黎夜の右腕が、冷たく鳴る。
だが、暴れない。
真昼の声が、すぐ横で聞こえた。
「黎夜、戻って」
短い声。
それだけで、黒鎖は沈む。
真昼は自分の札を見つめ、少しだけ青い顔をしながらも、逃げなかった。
「……じゃあ、私も戦うってことだね」
その声は震えていた。
でも、折れてはいなかった。




