第27話 第三鍵の名前
プリンのカップは、結局、三つとも最後まで食べきれなかった。
黎夜の分は半分ほど残り、真昼の分も蓋を戻されたまま。刃更だけは食べ終えていたが、それは彼女が落ち着いていたからではなく、単に行動が早かったからだと思う。
北棟へ向かう廊下で、真昼が小さく言った。
「……せっかく許可出たのに」
「プリンか」
「うん」
「また買えばいいだろ」
「そうだけど」
真昼は鞄の持ち手を握り直した。
「普通のこと、途中で終わるの嫌だなって思っただけ」
黎夜はすぐには返せなかった。
その気持ちは分かる。
プリンを食べるだけの時間だった。くだらなくて、どうでもよくて、だからこそ大事だった。黒鎖も玉座も封印も関係ない、普通の放課後。
それを黒い紙一枚で奪われた。
「……次は食い切る」
「うん」
「焦がしカラメル、けっこううまかったし」
「でしょ」
真昼が少しだけ笑った。
その笑顔を見て、刃更が静かに言う。
「次回の購買立ち寄りは、条件つきで再申請します」
「そこ、真面目に申請するんだ」
「必要です」
いつもの返事。
けれど、少しだけ救われた。
北棟の特級編纂室に着くと、詩乃はすでに扉の前で待っていた。
連絡したわけではない。
なのに、待っていた。
「遅かったですわね」
「先輩、何で分かったんですか」
黎夜が聞くと、詩乃は表情を崩さずに答えた。
「廊下の警戒術式が反応しましたの。あなたたち三人が、揃って嫌な顔をして歩いてきましたから」
「顔で術式が反応するんですか」
「冗談ですわ」
「分かりにくいです」
「半分は本当ですもの」
詩乃は扉を開け、三人を中へ入れた。
研究室の空気は、いつもより少しだけ冷えていた。壁一面の本棚、浮遊する銀輪、机の上に並んだ資料。そこまでは同じだが、中央の術式板だけがすでに起動している。
「黒い紙ですわね」
詩乃が言う。
刃更が頷いた。
「校舎裏の影から出現。接触前に消滅しました」
「文面は?」
黎夜は一度だけ息を吐いた。
「第三鍵は、もう選ばれた」
詩乃の手が止まった。
ほんの一瞬だけ。
それから彼女は端末へ文字を打ち込む。
「第三鍵……」
声が低い。
「第二鍵の次が来るのは予想していましたが、早すぎますわ」
「早いって、どのくらい」
真昼が聞く。
「普通なら、封印階層の再接続には数日から数週間。鍵の起動が連続するなら、段階的に負荷が増えるはずです」
「普通なら、ってことは」
「ええ。誰かが急がせていますわ」
ゼクス。
その名を口にしなくても、全員が同じ人物を思い浮かべた。
刃更が問う。
「第三鍵の意味は?」
「まだ断定できません。ただ、“選ばれた”という表現が嫌ですわね」
「鍵そのものじゃなくて、人を指している可能性がある?」
「高いです」
詩乃は机の上の資料を数枚めくり、黒いファイルを開いた。
「第一鍵、第二鍵、第三鍵。これらが単なる封印解除の手順ではなく、特定の人物や器に紐づくものだとすれば、次に狙われるのは物ではなく人です」
真昼が顔をこわばらせる。
「人って……誰?」
詩乃はすぐには答えなかった。
その沈黙が嫌だった。
「霧生くん」
「俺か?」
「あなたが中心なのは確かです。でも“選ばれた”という表現は、あなた以外の誰かを指しているようにも読めます」
黎夜の胸がざわつく。
周囲から揺らす。
ルクレツィアの言葉が、また蘇った。
「……真昼か」
自分の口から出た声は、思ったより低かった。
真昼が驚いたようにこちらを見る。
「黎夜」
「可能性はあるのか、先輩」
詩乃は少しだけ目を細めた。
「否定はできません」
刃更の気配が鋭くなる。
「柊真昼を狙う理由は?」
「日常側のアンカー。霧生くんをこちら側に繋ぎ止める存在。敵が彼を玉座へ近づけたいなら、真っ先に揺らす価値があります」
「……それって」
真昼の声が小さくなる。
「私が弱点ってこと?」
「違う」
黎夜は即座に言った。
自分でも少し驚くくらい、即答だった。
「弱点じゃない。戻る場所だ」
言ったあとで、急に照れくさくなった。
真昼は目を丸くして、それから少しだけ顔を赤くした。
「……そういうこと、急に言う?」
「今のは流れで」
「流れでも言う?」
「悪い」
「謝らない」
「……うん」
刃更が静かに咳払いをした。
「話を戻します」
「助かった」
「助けてはいません」
詩乃はほんの少し笑い、それからすぐ真面目な顔に戻った。
「真昼さんが狙われる可能性はあります。ただ、それだけに絞るのは危険ですわ。第三鍵が“人”なら、候補は複数あります」
「他に誰が?」
刃更が聞く。
「天城さん。あなたもです」
「私?」
「監視責任者であり、霧生くんの暴走を止める役。あなたを崩せば、彼の制御は大きく乱れます」
刃更は黙った。
驚いたというより、可能性として受け入れている顔だった。
「そして私も候補ですわね」
詩乃は淡々と続けた。
「解析役を潰せば、封書庫と王権の理解が遅れる。敵にとっては都合がいい」
「先輩、自分のことも普通に駒みたいに言いますね」
「客観視ですわ」
「嫌な客観視だな」
黎夜は右手を握った。
真昼、刃更、詩乃。
誰が狙われてもおかしくない。
自分を揺らすために。
玉座へ近づけるために。
「ふざけるなよ……」
小さく呟いたつもりだった。
だが、部屋の中にははっきり響いた。
真昼がこちらを見る。
刃更も、詩乃も。
黎夜は自分の右腕を見下ろした。
「俺を狙うなら俺を狙えばいい。周りに手を出すとか、そういうのは――」
黒鎖が、わずかに疼いた。
怒りに反応している。
黎夜はそこで言葉を止めた。
深呼吸する。
鎖を沈める。
喰うな。
暴れるな。
戻れ。
数秒後、右腕の冷たさが少しだけ引いた。
詩乃が静かに言う。
「今の制御、悪くありませんわ」
「褒める場面ですか」
「褒める場面です。怒りで反応しかけた鎖を、言葉で戻した」
刃更も頷く。
「昨日より安定しています」
真昼が少しだけ安心したように息を吐いた。
「じゃあ、プリン効果あったね」
「本当にそこに繋げるのか」
「日常安定補助です」
真昼がそう言って、少しだけ笑う。
その笑顔で、黎夜の胸の重さがわずかに軽くなった。
詩乃は端末を操作し、部屋の中央へ術式図を展開した。
円環が三つ。
その中心に、王冠と黒鎖の紋章。
「第一鍵と第二鍵の情報を整理します」
詩乃が指を動かすと、円環の一つが淡く光る。
「第一鍵については、まだ直接の表示がありません。ただし、最初の旧校舎裂け目と黎夜くんの黒鎖反応が一致しています。つまり第一鍵は、彼自身の王権反応を起こすことだった可能性が高い」
次に、二つ目の円環が赤く光る。
「第二鍵は《黒封書》の起動。これにより地下封書庫と《夜喰の心臓》が反応しました」
そして、三つ目。
まだ黒く沈んだ円環。
「第三鍵。文面は“もう選ばれた”。つまり、起動はまだ完全ではないが、対象が決まった状態と見ていいでしょう」
「起動前に止められるのか」
黎夜が聞く。
「止めたいですわね」
「できますか、じゃなくて、したいですか」
「できます、と言える材料がまだありませんもの」
詩乃は端末を閉じた。
「まず調べるべきは、誰が選ばれたのか」
「どうやって」
「反応を見るしかありません」
「反応?」
真昼が嫌そうに聞く。
「第三鍵の対象者なら、黒い紙や封印痕、夢、幻聴などの接触が起きる可能性があります」
「それ、私たち全員を見張るってこと?」
「はい」
刃更が答えた。
「今日から警戒体制を変更します」
「私まで監視対象?」
「補助観測対象から、一時的に保護観測対象へ移行します」
「肩書きが増えた……」
真昼がげんなりする。
黎夜は少しだけ笑いそうになったが、笑えなかった。
「真昼、今日は一人で帰るな」
「言われなくても、そのつもりだった」
「家は?」
「今日は寮の談話室にいる。女子寮に帰る時も誰かと一緒にする」
意外と冷静だった。
怖いはずなのに、自分の立ち位置をちゃんと考えている。
「……強いな、お前」
思わず言うと、真昼は少しだけ目を逸らした。
「強くないよ。怖いし」
「そうか」
「でも、怖いからって何もしない方がもっと嫌」
その言葉は、昨日の戦場で護身具を握った時の彼女と同じだった。
刃更が静かに言う。
「柊真昼には、私の簡易警報符を渡します」
「警報符?」
「異常接触があった時、私に直接通知が来るものです」
「それ、持ってた方がいいやつ?」
「はい」
「じゃあ持つ」
真昼が素直に頷いた。
刃更は小さな銀色の札を取り出す。薄いカードのようなもので、表面に細かな線が刻まれていた。
「肌身離さず持ってください」
「分かった」
「水濡れには強いですが、折らないでください」
「分かった」
「あと、面白がって振らないでください」
「振らないよ!」
「念のため」
そのやり取りだけ、少し日常に戻った。
詩乃は別の札を二枚取り出す。
「天城さんと私にも同種のものをつけます。霧生くんには不要ですわ」
「俺は?」
「あなたの場合、異常接触があればだいたい部屋ごと反応します」
「扱いが雑」
「大規模すぎるだけですわ」
「それも嫌だ」
刃更が端末へ予定を入力する。
「本日の訓練は中止しますか」
「いいえ」
詩乃は首を横に振った。
「むしろ短時間だけ実施します。第三鍵の件で不安が増えた今こそ、制御確認は必要です」
「俺もやる」
黎夜が言うと、真昼がこちらを見た。
「無理じゃない?」
「無理はしない。でも、今のまま放っておく方が怖い」
正直な言葉だった。
真昼は少し考えて、頷いた。
「じゃあ、私も見る」
「危ないぞ」
「観測区画で見る。勝手に近づかない」
「……約束だぞ」
「約束」
詩乃が静かに微笑んだ。
「では、今日の訓練内容を変更します」
「何をするんですか」
「怒りからの鎮静」
「嫌な訓練ですね」
「さっき反応しかけましたから」
詩乃は悪びれない。
「第三鍵が誰を狙っても、あなたが怒りで呑まれれば敵の思うつぼです。怒るなとは言いません。怒っても戻る練習をします」
刃更が補足する。
「必要なら、私が停止します」
「斬る?」
「状況によります」
「そこは変わらないんだな」
「ですが、なるべく斬りません」
「少し進歩した」
「進歩ではありません」
真昼が札を制服の内ポケットへしまいながら言った。
「じゃあ、私の役は?」
「戻す役ですわ」
詩乃が答える。
「馬鹿って言えばいい?」
「それも有効かもしれません」
「本当に?」
真昼が困ったように笑う。
黎夜は苦笑した。
「たぶん効く」
「じゃあ遠慮なく言う」
「遠慮は少ししてくれ」
そう言った瞬間。
研究室の銀輪が、ひとつだけ小さく鳴った。
全員が止まる。
詩乃が即座に端末を確認する。
「……反応?」
刃更が剣へ手をかける。
しかし詩乃は、眉を寄せたまま首を振った。
「外部侵入ではありません。これは……封書庫側の記録更新?」
「どういうことだ」
黎夜が近づくと、空中の端末画面に赤い文字が浮かび上がった。
管理封印記録、第三項。
選定対象、未確定。
補助因子、三名。
その下に、三つの名前が並んでいた。
天城刃更。
綾辻詩乃。
柊真昼。
真昼が息を呑む。
刃更の瞳が鋭くなる。
詩乃の顔から、いつもの余裕が消えた。
「……三名とも?」
黎夜の声が低くなる。
第三鍵は、もう選ばれた。
その言葉の意味が、ようやく形を持ち始める。
ひとりではない。
三人全員が、鍵の候補にされている。
いや。
補助因子。
それはつまり、黎夜を動かすための要素として、三人が記録に登録されたということだ。
黒鎖が、右腕の奥で静かに鳴った。
今度は怒りで暴れるのではなく、まるで深い場所から警告するように。
じゃら、と。
黎夜は右手を握りしめた。
「……ふざけるな」
真昼がすぐに言う。
「黎夜」
短い声。
それだけで、鎖の音が少し弱まる。
刃更も正面からこちらを見た。
「戻って」
詩乃も、静かに続ける。
「ここで呑まれては駄目ですわ」
三人の声が、重なる。
戻る場所が、そこにある。
黎夜は深く息を吸い、ゆっくり吐いた。
黒鎖は沈む。
怒りは消えない。
けれど、呑まれはしない。
「……大丈夫だ」
そう言うと、真昼が小さく頷いた。
刃更は剣から手を離す。
詩乃は端末の赤い文字を睨みつける。
「敵の狙いが見えましたわね」
「ああ」
黎夜は三人を見た。
「俺を玉座へ座らせるために、お前たちを鍵にする気なんだな」
誰も否定しなかった。
研究室に、重い沈黙が落ちる。
それでも黎夜は、今度は目を逸らさなかった。
守る。
ただし、呑まれずに。
喰うのではなく、封じるために。
そのための訓練が、ようやく本当の意味を持ち始めていた。




