第26話 プリン許可制と、夕暮れの影
翌日の訓練は、昨日より少しだけ現実味があった。
一本だけ黒鎖を出す。
五秒維持する。
消す。
それだけなら、昨日より安定してできた。
問題は、その次だった。
「では、次は標的を固定してください」
詩乃が訓練室の中央に、黒い立方体のようなものを置いた。
大きさはバスケットボールくらい。素材は分からない。石にも金属にも見えるし、よく見ると表面が微かに呼吸するように揺れている。
「……それ、壊れても大丈夫なやつですか」
「壊れても大丈夫なように作ってありますわ」
「その言い方、少し信用できないんですが」
「信用してくださいまし」
「昨日から俺の周り、信用できないものが多すぎるんですよ」
詩乃は涼しい顔で笑った。
「では、説明します。この標的は術式封入材です。衝撃や拘束に反応して抵抗しますが、攻撃はしてきません」
「攻撃してこないだけで抵抗はするのか」
「されないと訓練になりませんもの」
言われてみればそうだった。
黎夜は右手を開閉した。
昨日より痺れは少ない。眠りも浅かったが、悪夢というほどのものは見なかった。ただ、夜中に一度だけ鎖の音で目が覚めた。刃更がすぐに気づいてくれて、真昼に言うか迷ったが、朝には落ち着いていた。
怖さが消えたわけではない。
でも、昨日よりは向き合える。
「黎夜」
観測区画の真昼が、ガラス越しではなく、また入口近くから声をかけてきた。
「今日はプリンかかってるから」
「緊張感の種類がおかしい」
「でも、大事でしょ」
「まあな」
素直に認めると、真昼は満足そうに頷いた。
刃更は少し離れた位置に立っている。剣は抜いていないが、いつでも動ける距離だ。
「無理に締め上げないでください」
「固定するだけだろ」
「はい。喰う、砕く、引き裂く、は禁止です」
「言い方が物騒すぎる」
「実際に昨日まであなたがやりかけたことです」
「反論できないのが悔しい」
黎夜は標的へ向き直る。
息を吸う。
吐く。
右腕の奥を見る。
黒鎖はそこにある。昨日より、少しだけ形が分かる。以前は暗い水底に沈んだ何かだったのが、今は影の中で丸まった鎖として感じ取れる。
出ろ。
ただし、一本だけ。
黒い鎖が床の影から伸びた。
細い。静かだ。
その先端を標的へ向ける。
触れた瞬間、立方体がわずかに震えた。表面に銀色の線が走り、鎖を弾こうとする。
「焦らないで」
詩乃が言う。
「力で押さえ込むのではなく、動く範囲を狭める感覚です」
「言葉だけだと簡単そうですね」
「実際には難しいですわ」
「でしょうね!」
鎖が標的の周囲を回る。
一巻き。
そこで止める。
標的が震える。鎖が食い込みたがる。砕きたい、喰いたい、封じたいという衝動が指先へ逆流してくる。
封じたい。
それは悪いことではないはずだ。
でも、やりすぎれば壊すのと変わらない。
「……固定」
黎夜は小さく呟いた。
「壊すな。押さえるだけだ」
鎖の震えが少し落ち着いた。
標的はまだ抵抗している。だが、動かない。
「五秒」
詩乃が数える。
「一、二、三――」
四秒目で、鎖が少し太くなりかけた。
「細く」
刃更が言う。
「分かってる」
「声が荒いです」
「分かってるって」
「二回目の方が荒いです」
思わず笑いそうになった。
そのおかげで、力が抜けた。
鎖が細さを取り戻す。
「五。解除」
黎夜は鎖を引いた。
標的から外し、影へ戻す。
成功。
たぶん。
「……どうだ」
詩乃は端末を確認して、わずかに笑った。
「合格ですわ」
「本当か?」
「ええ。標的への損傷、なし。拘束時間、五秒。鎖の増幅反応も許容範囲内」
「プリンは?」
真昼が即座に聞いた。
詩乃が笑う。
「そこは天城さんの判断ですわね」
全員の視線が刃更へ向く。
刃更は端末を見て、少しだけ考えた。
なぜか、訓練結果よりも厳粛な空気になる。
「現時点で黒鎖反応は安定。歩行、会話、意識状態にも問題なし」
「……ということは?」
真昼が身を乗り出す。
「購買への立ち寄りを許可します」
「やった!」
「ただし、滞在時間は十分以内。混雑時は中止。異常反応が出た場合は即撤退」
「プリン買うだけなのに作戦みたいになってる……」
黎夜が呟くと、真昼が笑った。
「でも許可出たんだからいいじゃん」
「俺の放課後、ついに許可制でプリンを買うところまで来たか」
「封印王のリハビリとしては平和ですわね」
「先輩、その言い方やめてください」
訓練はそこで終わった。
座学も短めに切り上げられた。詩乃いわく、今日は「成功体験を日常側へ接続する」のが大事らしい。
言い方は難しいが、要するに、うまくいったら普通のご褒美を挟むということだろう。
それがプリンというのは、何とも締まらない。
でも、悪くない。
夕方の購買は、思っていたより混んでいなかった。
部活動前の生徒たちが飲み物や軽食を買っているが、昼休みほどの混雑ではない。刃更は入り口付近で全体を見渡し、真昼は冷蔵ケースへ一直線に向かった。
「これ!」
真昼が手に取ったのは、丸いカップに入った新作プリンだった。ラベルには「濃厚ミルクと焦がしカラメル」と書いてある。
「二つ?」
黎夜が聞くと、真昼は三つ取った。
「天城さんの分も」
「私は――」
「食べるよね?」
真昼が笑顔で圧をかける。
刃更はほんの少しだけ黙った。
「……いただきます」
「素直」
「昨日の焼き菓子で学んだな」
「何をですか」
「甘いものは断らない方がいいって」
「その表現には語弊があります」
詩乃は今日、別件で訓練室に残っている。だから購買に来たのは三人だけだった。
プリンを買い、校舎裏のベンチへ移動する。
夕暮れが差し込んで、校舎の壁が薄い橙色に染まっていた。部活の掛け声が遠くに聞こえる。吹奏楽部の音階練習。ボールの弾む音。誰かの笑い声。
普通の放課後。
それが今は、少しだけ特別に見える。
「いただきます」
真昼が蓋を開けた。
黎夜もスプーンを差し込む。
ひと口食べる。
甘い。
ちゃんと甘い。
「……うまいな」
「でしょ」
真昼が嬉しそうに言う。
刃更も一口食べて、また小さく言った。
「おいしいです」
真昼がにやにやする。
「天城さん、やっぱり甘いもの好きでしょ」
「嫌いではありません」
「それは好きってことだよ」
「分類としては、そうかもしれません」
「分類するんだ」
黎夜はプリンを食べながら、二人のやり取りを見ていた。
不思議な光景だった。
少し前まで、刃更はただの監視役で、真昼はただの幼馴染だった。いや、ただの、という言い方は違うかもしれない。けれど少なくとも、二人が並んでプリンを食べるような関係になるとは思わなかった。
「何見てるの」
真昼に気づかれた。
「いや、変な組み合わせだなって」
「それ、私と天城さん?」
「ああ」
「たしかに」
真昼は刃更を見る。
「最初は、めちゃくちゃ怪しい人だと思ってた」
「今も怪しいのでは」
刃更が自分で言った。
「そこ自覚あるんだ」
「男子寮の部屋に侵入しましたので」
「言い方!」
真昼が慌てる。
「今それ言われると、また腹立ってきた」
「任務でした」
「便利な言葉!」
黎夜が笑うと、刃更が少しだけ不満そうにこちらを見た。
「笑うところですか」
「たぶん」
「そうですか」
刃更はそれ以上言わず、プリンをもう一口食べた。
穏やかな時間だった。
だからこそ、気づくのが遅れた。
風が止まっている。
部活の音が、少し遠い。
ベンチの下に落ちた夕影が、ほんの少しだけ濃い。
「……天城」
黎夜が低く呼ぶと、刃更はすでにプリンの蓋を閉じていた。
「分かっています」
真昼も表情を変える。
「何?」
「動かないで」
刃更が静かに言った。
その声は、昨日まで何度も聞いた戦闘前の声だった。
校舎裏の植え込み。
その影の奥で、何かが揺れた。
欠片災の気配ではない。黒い靄でもない。もっと薄く、もっと人間に近い。
「……誰だ」
黎夜が声をかける。
返事はない。
代わりに、植え込みの影から、一枚の黒い紙が滑り出てきた。
紙は風もないのに地面を這い、黎夜の足元で止まった。
刃更が剣へ手をかける。
「触らないでください」
「ああ」
詩乃なら何か分かるだろう。そう思った瞬間、黒い紙の表面に赤い文字が浮かんだ。
読める。
嫌になるほど自然に読めた。
『第三鍵は、もう選ばれた』
黎夜の喉が詰まる。
真昼が不安そうに覗き込もうとしたので、刃更が片手で制した。
「見ないで」
「でも――」
「お願いします」
その言い方に、真昼は止まった。
黎夜は紙から目を離せない。
第三鍵。
第二鍵の次。
もう選ばれた。
それが何を意味するのか、考えたくなかった。
黒い紙は、次の瞬間、端から灰になって崩れた。
あとには何も残らない。
夕方の音が戻ってくる。
吹奏楽の音階練習。グラウンドの掛け声。誰かの笑い声。
普通の放課後が、まるで何事もなかったように再開する。
けれど、プリンの甘さはもう舌に残っていなかった。
「……詩乃先輩のところへ行きます」
刃更が短く言った。
「今すぐ」
黎夜は頷く。
真昼も、何も言わずに立ち上がった。
日常に戻るための一歩。
そう思って買ったプリンの時間は、ほんの数分で終わった。
でも、黎夜は空になりかけたプリンのカップを見て、静かに息を吐いた。
それでも。
それでも、確かに甘かった。
そのことだけは、まだ覚えていられた。




