第25話 一本だけの黒鎖
北棟の訓練室は、思っていたよりも地味だった。
地下封書庫のような石造りでもなければ、特級編纂室のように本と術式が並んでいるわけでもない。白い壁、広い床、天井の照明。体育館を小さくして、余計なものを全部取り払ったような空間だった。
ただ、床には薄く銀色の線が走っている。
壁際にも、見慣れない金属板が等間隔で埋め込まれていた。
「見た目より頑丈ですわ」
綾辻詩乃は訓練室の中央で、端末を操作しながら言った。
「暴発しても、上層区画なら三秒は耐えます」
「三秒だけですか」
「三秒あれば、天城さんがあなたを斬れます」
「訓練前に聞きたくない情報だな」
黎夜が顔をしかめると、刃更が横から静かに言った。
「斬るとは限りません」
「そこは斬らないって言い切ってほしかった」
「状況によります」
「正直すぎる」
真昼は観測室側のガラス越しではなく、訓練室の入口付近に立っていた。正式には観測区画の内側らしいが、黎夜から見える距離だ。
彼女は不安そうにしていたが、こちらと目が合うと無理に笑った。
「大丈夫。馬鹿って言う準備はできてるから」
「何の安心材料にもならない」
「でも効くんでしょ?」
「……まあ、たぶん」
認めると、真昼は少しだけ満足げに頷いた。
詩乃が端末を置き、黎夜の前へ歩いてくる。
「今日の目的は単純です。黒鎖を一本だけ出す。五秒維持する。自分で消す」
「それだけ聞くと簡単そうなんですけどね」
「簡単ではありませんわ」
「でしょうね」
「でも、できなければ困ります」
詩乃の声は淡々としていた。
怖がらせるためではなく、現実を並べているだけの声だ。
「あなたの力は、感情で跳ねます。誰かを守ろうとした時、怒った時、恐怖を感じた時。だからこそ、平常時に細く扱う練習が必要です」
「蛇口みたいに言いますね」
「近いですわ。今のあなたは、火事のたびに水道管ごと破裂させている状態です」
「分かりやすいけど嫌だな、それ」
刃更が一歩下がり、剣を抜かずに構える。
「私は停止役に入ります」
「本当に斬るのか?」
「必要なら」
「……」
「でも、その前に止めます」
少しだけ言い直したように聞こえた。
それだけで、黎夜は息を吐く。
「分かった」
訓練室の中央へ立つ。
右腕を前に出す。
目を閉じる。
昨日の地下を思い出さないようにする。玉座を思い出さないようにする。ゼクスの声も、鎖の音も、最深部の扉も遠ざける。
ただ、自分の中にあるものを見る。
右腕の奥。
骨より深い場所。
冷たい鎖が、沈んでいる。
出ろ、ではない。
暴れろ、でもない。
一本だけ。
必要な分だけ。
「……」
沈黙の中で、指先が冷える。
床に影が落ちる。
その影の中から、細い黒線がすうっと立ち上がった。
鎖だった。
細い。昨日の戦闘中に出たものと比べれば、糸のように頼りない。けれど、確かに黒鎖だ。
「出ましたわ」
詩乃の声。
「維持してください。五秒」
一秒。
鎖が震える。
二秒。
右腕の奥が少しだけ熱くなる。
三秒。
鎖の先が、勝手に周囲を探ろうとした。
「動かすな」
刃更の声。
黎夜は歯を食いしばる。
違う。
探すな。
喰うな。
ただ、そこにいろ。
四秒。
鎖が落ち着く。
五秒。
「消して」
詩乃が言う。
黎夜は息を吐き、黒鎖を手の内へ畳むように意識した。
鎖は少しだけ抵抗し、それから影へ沈んだ。
消える。
訓練室に、何もない空気が戻る。
「……できた?」
真昼が入口で声を漏らした。
詩乃が端末を確認し、頷く。
「一回目としては上出来ですわ」
「珍しく褒められた」
「褒めましたもの」
「じゃあ素直に受け取ります」
そう言った瞬間、膝から力が抜けそうになった。
たった五秒。
それだけなのに、思った以上に消耗している。
刃更がすぐに近づいてきた。
「ふらついています」
「大丈夫」
「大丈夫ではありません」
「……ちょっと疲れただけだ」
「それを大丈夫ではないと言います」
刃更は腕を掴む寸前で、一度だけ止まった。
触れていいかどうか迷ったのだと分かる。
黎夜は少し笑って、先に右腕を引いた。
「平気だ。立てる」
「なら、三分休憩」
詩乃が言った。
「次は同じことを三回。間隔を空けます」
「一回で終わりじゃないんですか」
「終わるわけがないでしょう」
「ですよね」
真昼が水のボトルを持ってきた。
「はい」
「ありがとう」
「ちゃんと飲んで」
「飲むよ」
「一口だけで終わらせない」
「母親か」
「日常安定補助です」
真昼が澄ました顔で言う。
黎夜は苦笑して、水を飲んだ。
冷たい水が喉を通る。
自分が普通に水を飲んでいることが、少し不思議だった。さっきまで、内側の黒鎖に意識を伸ばしていたのに。少し前まで、玉座や封印や王権に怯えていたのに。
この差が、日常なのかもしれない。
「黎夜」
真昼が小さく言う。
「今の、怖かった?」
「少し」
「そっか」
「でも、昨日よりはましだった」
「それならよかった」
真昼はそれだけ言って、ボトルの蓋を閉めた。
変に励まさない。
大げさに褒めない。
ただ、そこにいる。
それがありがたかった。
二回目は、一回目より少し難しかった。
出すこと自体はできた。だが、三秒目で鎖が太くなりかけた。
「細く」
刃更が言う。
「今のまま。増やさないで」
「分かってる」
「声を荒げない」
「……分かってる」
鎖が落ち着く。
五秒。
消す。
今度は少し時間がかかった。消したつもりなのに、鎖の先が影の中へ戻りきらず、未練のように床へ残る。
「黎夜」
真昼の声が飛んだ。
「馬鹿」
「早いな」
「今だと思ったから」
「……効いた」
笑いかけると、残っていた鎖がするりと消えた。
詩乃が端末を見ながら、何とも言えない顔をした。
「本当に効くのですわね」
「何で先輩が納得いかなそうなんですか」
「術式理論に組み込みづらいので」
「組み込まないでください」
三回目。
今度は、出す前に嫌な感覚が来た。
右腕の奥ではなく、もっと深い場所。
足元の影が、少しだけ暗くなる。
遠くで鎖の音が鳴った気がした。
じゃら、と。
地下の音。
玉座の音。
「……っ」
息が詰まる。
視界の端に、一瞬だけ石の階段が見えた。
ここは訓練室だ。
分かっている。
なのに、足元があの地下へ繋がっているような感覚がある。
「霧生黎夜」
刃更の声が鋭くなる。
「戻ってください」
「戻ってる」
「いいえ。目線が落ちています」
目線。
言われて気づく。
自分は床を見ていた。
影を見ていた。
その奥の、ないはずの階段を見ていた。
「黎夜!」
真昼の声。
今度は馬鹿ではなかった。
「こっち見て」
顔を上げる。
真昼がいた。
入口のところで、真っ直ぐこちらを見ている。
怖がっている。でも逃げていない。
「そこ、訓練室だから」
「……ああ」
「地下じゃないから」
「分かってる」
「分かってない顔してた」
「今、分かった」
呼吸が戻る。
足元の影が薄くなる。
刃更が一歩近づいた。
「中止しますか」
その問いには、意外にも強制の響きがなかった。
止めることもできる。
続けることもできる。
そう聞いている。
黎夜は右手を握り、開いた。
「続ける」
刃更は数秒だけ黙った。
「分かりました。ただし、反応が悪化したら即中止」
「ああ」
詩乃も頷いた。
「では、三回目。無理に深く触れないで。表面を撫でる程度で」
「表現が繊細ですね」
「魔術とは繊細なものですわ」
「俺の鎖は繊細に見えないけど」
「だから練習するのです」
目を閉じる。
今度は深く潜らない。
右腕の奥に触れるだけ。
一本だけ。
五秒だけ。
床の影から、黒鎖が現れる。
さっきより細い。
静かだ。
一秒。
二秒。
三秒。
鎖が揺れない。
四秒。
刃更の気配が近くにある。
真昼の視線がこちらを掴んでいる。
詩乃の術式が薄く周囲を支えている。
五秒。
「消して」
今度は、すぐに消えた。
影の中へ、何も残さず沈んでいく。
静寂。
詩乃が端末を見て、小さく息を吐いた。
「成功ですわ」
真昼が真っ先に声を上げた。
「やったじゃん!」
「大げさだろ」
「大げさじゃないよ。今の、ちゃんと戻ってきた」
ちゃんと戻ってきた。
その言い方が、妙に胸へ残る。
刃更も静かに言う。
「三回目が一番安定していました」
「本当か?」
「はい」
「珍しく嬉しい報告だな」
「ですが、油断は禁物です」
「そこまでセットだと思った」
詩乃が端末を閉じた。
「今日の主訓練はここまでにしましょう」
「もう終わり?」
真昼が言う。
「まだ三回しかやってないけど」
「今の三回で十分ですわ。霧生くんの集中力も、右腕の負荷も、今日はここが限界です」
「限界って言われると情けないな」
「限界を超えて倒れるよりましです」
刃更が言った。
「経験者の顔だな」
「あなたのせいです」
「ごめん」
「すぐ謝らない」
真昼が横から言う。
「……悪い」
「それも謝ってる」
「難しいな」
真昼が笑った。
訓練室の空気が少し緩む。
詩乃は次の資料を取り出した。
「ただし、座学はあります」
「え」
「黒鎖反応と封印王権について、最低限の基礎知識を入れます」
「今ので終わりじゃないんですか」
「終わるわけがありませんわ」
「二回目ですね、それ」
「何度でも言います」
詩乃は訓練室の端にある簡易テーブルへ資料を並べる。
刃更は椅子を用意し、真昼は水と菓子を勝手に配置した。
「何か、勉強会みたい」
真昼が言った。
「内容が物騒すぎるけど」
「普通の勉強会ならよかったんだけどな」
黎夜が椅子に座ると、刃更が向かいに立つ。
「最初の項目は、王権暴走時の停止手順です」
「勉強会の一ページ目じゃない」
「重要です」
詩乃が続ける。
「第二項目は、玉座からの感応を受けた場合の対処」
「それも重い」
「第三項目は、日常側のアンカーについて」
「アンカー?」
真昼が首をかしげる。
「彼をこちら側へ繋ぎ止める要素ですわ」
詩乃はそう言って、真昼を見る。
「具体的には、あなたの声や、食事、習慣、通学、普通の会話など」
「私、教材に入ってるの?」
「重要教材ですわ」
「何か嫌だな、その言い方」
黎夜は資料を見て、思わず苦笑した。
そこには本当に、真昼の名前とともに「日常安定要素」と書かれていた。
「お前、正式に俺の安全装置になってるぞ」
「安全装置って言わないで」
「じゃあ何て言えばいいんだよ」
「幼馴染」
真昼は即答した。
その言葉が、当たり前すぎて、少しだけ照れくさかった。
刃更が資料を見ながら静かに言う。
「実際、柊真昼の声は有効です」
「天城さんまで」
「事実です」
「事実なら仕方ないけど……」
真昼は少し赤くなり、資料から目を逸らした。
詩乃は満足そうに微笑む。
「では、今日はここまで。明日は同じ訓練に加えて、黒鎖の固定対象を使います」
「固定対象?」
「壊れても問題ない標的ですわ」
「俺が壊す前提なのが嫌なんですが」
「壊さない練習ですもの」
「なるほど、嫌な納得だ」
訓練室を出る頃には、外は少し暗くなり始めていた。
窓の向こう、夕方の学園都市に灯りがともっている。
昨日までのように、ただの平和な光には見えない。
けれど、完全に遠いものでもない。
真昼が隣で伸びをした。
「疲れたね」
「お前は見てただけだろ」
「見てる方も疲れるの」
「そうか」
「そうだよ」
刃更が少し後ろから言う。
「今日はこのまま寮へ戻ります。寄り道は不可です」
「プリンは?」
真昼が抗議する。
「今日は不可です」
「えー」
「明日、反応が安定していれば検討します」
「プリンが許可制になった」
黎夜が呟くと、真昼が真剣な顔で言った。
「明日、絶対安定させよう」
「目的がプリンになってるぞ」
「日常って、そういうものじゃない?」
その言葉に、黎夜は少し黙った。
日常。
プリンを食べに寄り道するために、黒鎖を安定させる。
馬鹿みたいだ。
でも、そういう馬鹿みたいな目的の方が、玉座だの王権だのよりずっと自分を繋ぎ止めてくれる気がした。
「……そうかもな」
黎夜が言うと、真昼は嬉しそうに笑った。
その横で、刃更が小さく端末に何かを入力する。
「何を書いてるんだ」
「明日の行動予定です」
「まさか」
「訓練後、状態が安定していれば購買への立ち寄りを許可候補に入れます」
「真面目にプリンを管理するなよ」
「必要です」
詩乃が廊下の奥から振り返り、くすりと笑った。
「いいではありませんか。封印王とプリン。悪くない組み合わせですわ」
「悪いですよ」
そう言いながら、黎夜は少しだけ笑っていた。
黒鎖はまだ怖い。
玉座も、ゼクスも、ルクレツィアの謎も残っている。
でも今日は、一本だけ出して、五秒で消せた。
たったそれだけのことが、思っていたより大きかった。
戻るための一歩。
日常に居座るための、最初の訓練。




