第23話 日常に戻るための条件
病室の窓から見える学園都市は、腹が立つほど普通だった。
朝の光は白く、遠くの校舎には授業開始前の生徒たちが流れていく。グラウンドでは誰かが忘れたボールが風で転がり、街路樹の若葉がゆっくり揺れている。
その地下で、封印だの王権だの最深部だのが軋んでいるなんて、外から見ただけでは誰にも分からない。
「……普通って、案外しぶといな」
黎夜が呟くと、真昼がベッド脇で眉を寄せた。
「何その達観したみたいな台詞」
「思っただけだよ。昨日あれだけのことがあったのに、外は普通だなって」
「普通に見えるだけでしょ」
真昼は窓の外をちらりと見てから、少し声を落とした。
「私はもう、昨日までと同じには見えないよ」
その言葉は、静かだった。
怒っているわけでも、怯えているだけでもない。何かを受け入れようとして、まだうまく形にできていない声だった。
黎夜は返事に迷った。
巻き込みたくなかった、と言えば、たぶん真昼は怒る。実際に巻き込まれたあとでそれを言っても、ただの後出しにしかならない。
「悪い」
結局、またそれしか出なかった。
真昼はじとっとこちらを見た。
「謝り癖ついてる」
「そうか?」
「ついてる。しかも、だいたい一人で抱え込もうとしてる時の謝り方」
「幼馴染の分析が鋭すぎる」
「長い付き合いだからね」
真昼はそう言って、少しだけ笑った。
その笑い方に、黎夜は救われる。
昨日、真昼は戦場にいた。第二隔壁の近くで震えながら、それでも護身具を握って刃更を助けた。あれはもう、ただの幼馴染の位置ではない。
それでも彼女は今、粥の器を片付け、ベッド脇でいつもの距離感に戻ろうとしている。
強いのか、無理をしているのか。
たぶん両方だ。
病室の扉が開き、刃更が戻ってきた。
手には書類の束と、小さな端末。肩の包帯が制服の下で少し盛り上がっている。歩き方はいつも通りに見えるが、よく見ると左足へほんの少し体重を逃がしていた。
「検査結果が出ました」
「早いな」
「優先処理です」
「俺、完全に危険物扱いだな」
「否定はしません」
「そこは否定してくれ」
刃更はベッド脇まで来ると、端末を詩乃が置いていった机の上に置いた。
「結論から言えば、今日一日は安静。明日から軽度訓練。三日後に再評価です」
「軽度訓練って何するんだ?」
「黒鎖を一本だけ出して、五秒以内に消す。これを繰り返します」
「地味だな」
「地味な訓練を軽視すると死にます」
「重い」
「事実です」
「お前らの言う事実、だいたい重いんだよ」
真昼が端末を覗き込もうとして、刃更に止められた。
「個人情報です」
「え、私、補助観測対象なんでしょ?」
「それとこれは別です」
「急に線引きが厳しい」
「必要な線引きです」
真昼は少し不満そうに唇を尖らせたが、無理には覗かなかった。
以前なら、もっと強引に踏み込んできたかもしれない。けれど今は、刃更の言う“危険”を少しずつ理解し始めている。
それが嬉しいような、寂しいような顔だった。
「天城」
黎夜が呼ぶ。
「傷、大丈夫なのか」
刃更は一瞬だけ目を瞬かせた。
「私の?」
「他に誰がいるんだよ」
「問題ありません」
「それはもう信用できない」
真昼がすぐに頷いた。
「同感。天城さんの問題ありませんは、だいたい問題ある時にも出る」
「……そんなことは」
「ある」
黎夜と真昼の声が重なった。
刃更は少しだけ眉を寄せる。
「二人で結託しないでください」
「してない」
「たまたま」
「なお悪いです」
珍しく拗ねたように聞こえて、真昼が小さく笑った。
刃更はそれを見て、何か言い返そうとしてやめた。代わりに、視線を窓の外へ向ける。
「私の傷は処置済みです。戦闘には支障がありますが、日常警戒なら問題ありません」
「やっぱり問題あるじゃん」
「戦闘しなければ問題ありません」
「昨日から戦闘しない時間の方が短いんだけど」
「……それは、否定できません」
短い沈黙のあと、刃更がそう言った。
本当に少しだけだが、肩の力が抜けているように見えた。
そこへ、詩乃が入ってきた。
片手に紙袋。もう片方に分厚いファイル。病室へ入ってくる姿だけなら見舞客だが、持ち込むものが明らかに見舞いの量ではない。
「失礼しますわ」
「先輩、その紙袋は?」
「差し入れです」
詩乃は微笑んで紙袋を机に置いた。
中から出てきたのは、焼き菓子の箱だった。
「え、普通にお菓子だ」
真昼が驚く。
「何だと思いましたの?」
「禁書とか術式とか」
「それは別袋ですわ」
「あるんだ……」
詩乃は平然とファイルを掲げた。
「こちらが訓練計画と、昨夜の観測報告。こちらのお菓子は、単純に糖分補給です」
「差し入れまで理詰めだな」
「おいしいものは正義ですわ」
詩乃が箱を開けると、バターの香りがふわりと広がった。
それだけで病室の空気が少し和らぐ。真昼が嬉しそうに一つ取り、黎夜へ渡す。
「はい」
「俺、さっき朝飯食ったばっかりなんだけど」
「食べられる時に食べときなさい」
「母親みたいなこと言うな」
「幼馴染です」
そう言いながら、真昼は自分も焼き菓子を口にした。
刃更は最初遠慮していたが、詩乃に「魔力回復にも糖分は必要ですわ」と言われ、結局一つ取った。
小さくかじる。
「……おいしいです」
また素直に言った。
真昼が笑いをこらえきれず、肩を震わせる。
「何ですか」
「いや、天城さんって食べ物の感想はすごく素直だなって」
「味に嘘をつく理由がありません」
「そういうとこ」
詩乃はそのやり取りを眺めながら、黎夜へ視線を向けた。
「霧生くん」
「はい」
「少し真面目な話をしても?」
「今までも十分真面目でしたけど」
「今度は少し嫌な話です」
「聞きたくない」
「聞いてくださいまし」
「ですよね」
黎夜は焼き菓子を半分残したまま、体を起こした。
詩乃はファイルを開く。
「昨夜、あなたが最深部で見たものについて、正式な記録はほぼありません」
「ほぼ?」
「完全にゼロではありません。断片だけは残っていました」
詩乃は一枚の複写資料を取り出した。
古い文章の写し。文字はほとんど読めない。だが、中央に描かれた絵だけは分かった。
石の玉座。
黒い鎖。
王冠。
黎夜の喉が、無意識に鳴った。
「……これ」
「ええ。あなたが見たものと一致しますわね?」
「ああ」
真昼が不安そうに資料を覗き込む。
「これが、昨日言ってた玉座?」
「たぶん」
黎夜が答えると、刃更の表情も硬くなった。
「資料の出所は?」
「旧封印局の断片記録ですわ。正式保管ではなく、個人研究の複写として残っていたもの」
「内容は」
詩乃は少し間を置いた。
「玉座は、王権を安定させるための装置であり、同時に王権を完成させるための儀式台だった可能性があります」
病室の空気が冷える。
「完成させる?」
黎夜が聞き返すと、詩乃は頷いた。
「ええ。封印王権が未完成のまま宿主に定着した場合、玉座へ座らせることで、王権と宿主を完全に結合させる」
「それ、つまり」
「成功すれば強力な制御者。失敗すれば、人間性の崩壊」
淡々とした声だった。
でも、内容はあまりにも重い。
真昼が顔色を変えた。
「そんなの、絶対駄目じゃん」
「ええ。だから、ルクレツィアは警告したのでしょう」
玉座を見ても、絶対に座らないで。
その言葉の意味が、少しだけ輪郭を持った。
黎夜は資料の絵を見つめる。
夢の中で、玉座は空席だった。
座れ、と呼んでいた。
あれは単なる幻ではなく、自分を完成させようとする装置だったのか。
「……完成って、嫌な言い方だな」
「同感ですわ」
詩乃は静かに言った。
「人間を道具に変える側の言葉です」
珍しく、彼女の声に明確な嫌悪があった。
刃更が低く言う。
「ゼクスの狙いは、あなたを玉座へ座らせることかもしれません」
「王権を完成させるために?」
「あるいは、暴走させるために」
どちらにしても最悪だった。
真昼が両手を握りしめる。
「じゃあ、行かなければいいんじゃないの?」
「普通ならそれでいいですわ」
詩乃は答える。
「でも最深部連結が再開すれば、向こう側から道が開く。こちらが行かなくても、玉座が彼を呼ぶ可能性があります」
「呼ぶって……」
「夢、幻聴、黒鎖反応。形は何でもあり得ます」
真昼は言葉を失った。
黎夜も、すぐには何も言えなかった。
逃げる、という選択肢がない。
ならどうするか。
答えは、もう決まっている。
「……訓練するしかないんだな」
詩乃は頷いた。
「ええ。呼ばれても座らないために。鎖が伸びても呑まれないために」
刃更が続ける。
「そのために私が監視します」
真昼も少し遅れて、でもはっきりと言った。
「私は、日常に引っ張り戻す」
三人の視線が彼女へ向く。
真昼は少しだけ恥ずかしそうに目を逸らした。
「だって、そういう役なんでしょ。日常安定に寄与、とか言われたし」
「急に管理官の言葉を使うなよ」
「使いたくないけど、分かりやすいじゃん」
真昼は黎夜を見た。
「地下とか玉座とか王権とか、私は全部は分かんない。でも、黎夜が変な方に行きそうになったら、普通に怒る。ご飯食べさせるし、寝ろって言うし、馬鹿って言う」
「最後だけ雑だな」
「大事でしょ」
「まあ、効くかもしれない」
「効かせるの」
その言い方が真昼らしすぎて、少し笑った。
刃更が静かに言う。
「有効だと思います」
「ほんと?」
「はい。彼は柊真昼の声には反応します」
「……そうなの?」
真昼が少し顔を赤くする。
黎夜は咳払いした。
「さあな」
「照れてますわね」
詩乃が即座に刺してくる。
「照れてないです」
「反応が遅いですわ」
「うるさいですよ」
病室に、ほんの少しだけ笑いが戻った。
その笑いは長く続かなかったが、確かにそこにあった。
黎夜は残っていた焼き菓子を口に入れる。バターの香りと砂糖の甘さが、さっきの資料の重さを少しだけ遠ざけてくれた。
外では授業開始のチャイムが鳴った。
いつもの音。
昨日までなら退屈に感じていた音。
今は少しだけ、戻りたい場所の音に聞こえた。
「……学校、戻れるのか」
無意識に漏らした言葉に、刃更が答えた。
「検査上は明日から登校可能です。ただし、私が常時同行します」
「結局そこか」
「当然です」
真昼が続ける。
「じゃあ明日は一緒に登校ね」
「お前もか」
「当たり前でしょ」
詩乃が微笑む。
「私も朝一で確認しますわ」
「全員集合かよ」
「人気者ですわね」
「全然嬉しくない」
けれど、少しだけ悪くないと思ってしまった。
普通の学園生活には、もう戻れないのかもしれない。
でも、普通に似た何かを守ることはできるかもしれない。
そのために黒鎖を使う。
喰うためではなく、封じるために。
黎夜は右手を開き、閉じた。
指先には、まだ冷たい感覚がある。
けれど今は、その上に真昼の声と、刃更の視線と、詩乃の言葉が重なっていた。
それなら、まだ戻れる。
少なくとも、今はそう思えた。




